290 勇者の帰還(前)
その日の夜。
進展がないままに一日を終えてしまったイナリは、モヤモヤとした気分のまま寝支度を整えていた。
そも、どうしてイナリだけがこんなにやきもきしなくてはならないのだろう?本来悩むべきは他の面々であって、イナリは後方から腕を組んで、悠々と眺めているというのが本来あるべき姿ではなかろうか?
口にしたところで一蹴されるか一笑に付されるのが目に見えている発言を飲み込み、己の髪を梳いているエリスに向けて呟く。
「ここまで勇者の噂が立たんとは思わなかったのじゃ。思うに、この街から出る者が多すぎて噂が入ってこないのかと思うのじゃが、お主はどう思うかの?」
「イナリさんの推測はあながち間違いではないと思いますが……ええと、言っていいんですか?」
「む?聞いてみただけのつもりじゃったが、何かあるのかや。発言を許すのじゃ」
イナリが向き直ってエリスと目を合わせると、彼女はそっと目を逸らし、声を落として答える。
「その、もしかしたら以前話したことがあるかもしれないんですけど、勇者の動向は基本的に伏せられることが多いので、一般の人々の間では噂が立ちにくいと思うんですよね……」
「……そういやそんな事言ってた気がするのう。しかし何故、我が冒険者ギルドへ向かう途中でそれを言わなかったのじゃ」
「情報収集とは仰っていましたが、勇者の件は私の方に一任されたものとばかり。まさか、イナリさんも同じことをしていたとは思わず……」
「……」
なんということだろう。これでは意気揚々とギルドに乗り込んだ自分が馬鹿みたいではないか。
行き場のない苛立ちに襲われたイナリは、無言でソファに備え付けられたクッションに頭を埋めた。
「ま、まあ、出来ることはしましたから。明日には良い知らせがありますよ!」
完全に拗ねる体制に入ったイナリを見て、エリスは取ってつけたような言葉で励ましてくる。
なお、彼女の言う「出来ること」とは、冒険者ギルドの職員や街の守衛に協力を仰いだことを指している。しかし、それもどの程度効果があるかは疑わしい。
ともすれば、多少の恥も承知の上で、アースに勇者の動向を問うのも手かもしれない。あるいは、いっそ全部あちらでやってもらって、亜空間を通じて勇者をこちらに届けてもらうとか……いや、それは求めすぎだろうか。
イナリが考えていると家の戸が叩かれる。
「誰か来たのじゃ。夜中にここに来るとは、何だか怪しいのう」
「確かにちょっと怖い感じもしますが、出ないわけにもいきませんよね」
エリスが立ち上がると、それより早くエリックが彼の寝室から出て来て、来訪者の応対に向かう。そして三十秒も経たずしてイナリ達の前に戻ってきて口を開く。
「守衛の人がわざわざ伝令を飛ばしてくれたみたいだ。勇者のカイト君が北門の方から戻ってくるみたいで、あと一、二時間くらいだとか」
「今かや。よりによって、今……」
「人目を避けるなら、夜の移動は常套手段ですものね……」
露骨に顔を顰めるイナリにエリスは苦笑する。
「イナリさん、どうしますか?」
「行くしかなかろ。イオリに声を掛けてくるのじゃ」
イナリは渋々立ち上がり、寝室でサニーの面倒を見ているイオリの元へ向かった。
イナリは既に寝間着に着替えてしまったし、体や髪も洗い終え、今日はもう寝ようという状態になったところでこれである。
あの勇者はどうしてこう、全ての行動においてどこか余計な要素があるのだろう。全て本人の意思ならまだわかるが、現在の彼は何やら操られているわけで、ここまで来ると何かそういう運命を背負っているのかとすら思えるほどだ。
「……着替えるの、面倒じゃなあ……」
それなりに重要な事のはずが、イナリはイマイチ気乗りしないままであった。
イナリはエリス、イオリ、エリックの三人と共にアルテミアの北門へ赴いた。
夜中にも関わらず時折街を出る者が居る他、イナリ達以外にも、五十名に満たないくらいの人々が勇者を待っていた。そのうち三分の一程度は神官らしい装いで、その中にはファシリットとか名乗った少年の姿もあった。
彼はイナリ達の存在に気が付くと、表情を変えずにこちらに向かってくる。勇者を操る計画に加担していた可能性が高い人間の一人なので、空気もやや緊張したものになる。
「『虹色旅団』の皆様、先日はどうもお世話になりました。それに、教会側の不手際もあったようで。神官の一人として謝罪をさせて頂きます」
ファシリットが頭を下げると、イオリは心底不愉快そうにそっぽを向き、イナリの耳に微かに聞こえる程度に舌打ちした。
しかし、ここで問題を起こしても面倒事が増えるだけだ。エリックが自然にイオリの姿を遮るように前に立ち、ファシリットに言葉を返す。
「謝罪については既に教会から頂いていますので、これ以上の事は結構です。ところで、ファシリットさんの方は何を?」
「魔王討伐を果たした勇者様の出迎えです。そちらも同じでしょう?」
「そうですね、大体そんなものです。ここに居る人は皆そうなんですか?」
「はい、耳聡く噂を聞きつけた野次馬の方々ですよ。特に人払いをする理由も無いので放置しています。……失礼、あまり離れていると怒られてしまうので、僕はこの辺で」
ファシリットはそう言って、神官の集団の元へ戻っていった。
「……あやつ、何故のうのうと生きておるのじゃ?」
「本当だよ。さっさとくたばればいいのにな」
「二人とも。言いたい事は分かるけど、抑えて」
「ああいや、我が言いたいのはイオリとは少し違うのじゃ。てっきり、今回の件に関わったものは皆何かしらの報いを受けたものと思っておったからの、何故ここに居るのかと思うての」
「ああ、そういう事か。それは確かに気になるね」
イナリとエリックが同時にエリスの方を向けば、彼女は首を捻りながら答えた。
「その辺は色々複雑で、私もよくわかっていないのですよね。ひとまず、報いを受けたり受けなかったり、責任を取ったり取らなかったり……一括りには語れません」
「一括りに消えてくれれば、すごい楽なんだけどなあ……」
イオリの無邪気な声色に反して物騒な内容の呟きに、エリスとエリックは苦笑する他無かった。
暫くすると門の辺りで勇者を待つ人々が若干増え、夜間にも拘らずそれなりに賑やかになった。
イオリもまた、先ほどの神官の事を忘れ、夜の暗闇を照らせそうなくらいに目を輝かせ、きっと勇者がいるであろう方角を見つめ続けている。
「はぁ、眠いのじゃ。くああ……」
一方のイナリはというと、それはもう冷めきっていた。
確かに早く来てほしいとは思っていたが、今まさに寝ようと思ったところで水を差されたら、それはもう不快以外の何物でもないのである。
どうしてこう、勇者はやることなすこと全て何か余計だったり、時期が変だったりするのだろう?操られてなおそんな様子だと、もはや性格の問題などと片付けられるかどうかも怪しいが。
「イナリさん、まだ時間はあると思いますし、少し寝ますか?」
「ううむ、しかしのう、場所が無いのじゃよな……」
「私が抱えます。イナリさんは眠れて、私も幸せになれる、素晴らしい解決策です」
「お主、羞恥心とか無いのかや」
「パジャマのままここに来たイナリさんには言われたくありませんが」
真顔で問うたイナリに対し、エリスは目をじとりとさせながらイナリの頬をつついた。
「それは面倒だったから仕方あるまい。それに、多少注目される程度なら許容範囲じゃ」
「その理論なら、私がイナリさんを抱えて差し上げるのも問題ないですよね?」
「……確かにそうじゃな」
かくしてあっさり論破されたイナリは、大人しくエリスに抱え上げられた。次第にもこもことした生地の寝間着とエリスの体温が程よくイナリを温め、イナリを心地よい眠りへと誘――。
「あれ、勇者様じゃないか!?」
「うおお、本当にやったのか!」
「勇者様が来たぞっ!」
――っていたのに、にわかに周囲が騒がしくなり始めたことで、眠気は一瞬で霧散した。
「……台無しじゃ」
「家でゆっくりするべきという啓示でしょうか。後でゆっくり寝ましょう……」
「うむ……」
イナリはエリスの腕を抜け出し、久方ぶりに見ることになる勇者を待った。




