288 「前哨」の後(後)
「……興が覚めた。帰るわ」
イナリ達に宥められて冷静になったアースは、床に散らばった杯の破片を律儀に纏めて席を立った。
「くろいお狐さん、帰っちゃうの?」
「ええ。このままだと貴方の事を傷つけてしまうの」
サニーに返すアースの言葉は心なしか棒読みであった。
「お狐さん、また会える?」
「約束はできないけれど。まあ、元気でいたらそのうち会うこともあるわよ。……あ、そうそう。もし勇者が戻ってくる噂を聞いたら、必ず迎えに行きなさい」
アースはそう言い残すと、手をひらひらと振ってギルドの外へと去っていった。それを見送るサニーの姿はもの哀しげだ。
「まあ、何だ。アースはああいう奴なんだよ。気にしない方がいい」
「そうじゃ。寧ろ、ここに顔を出すだけでも珍しい事じゃし、ああ見えて気にかけておる。決して、お主が無碍にされておるわけではないのじゃ」
「うん……」
イナリ達はサニーの肩に手を置いて宥めた。
なお、こうして励ましている二人もアースとはつい最近再会したばかりだったり、出会って一日しか経っていないような仲なので、励ませるほどの立場にあるかと言われれば微妙なところである。
「……ところで、アースが今言っていた言葉は何だ?」
「普通に勇者を迎えに行けという念押しであろ?」
「そうじゃない。私が勇者様の元へ行くことなど当然の事なのに、どうして今更念押しする必要がある?何か、裏のメッセージが……?」
「絶対に考えすぎじゃ」
相変わらず勇者が関わると思考回路がおかしくなるイオリに、イナリはため息をついた。
そして再び会議の方に耳を傾ければ、街や国の治安の問題や、魔法学校の今後についての話へと議題が移行していた。言い換えれば、アルテミアの事を碌に知らないイナリには聞いてもさっぱりな内容になっていた。
ならば後で要点だけ聞けばいいだろうと判断したイナリは、ギルド職員からおやつや時間つぶしのための道具を貰い、サニーやイオリと遊んで待つことにした。
「ううむ、今日は運に恵まれておらんのう」
今イナリ達が遊んでいたのは、賽子を五回振って任意の組み合わせを作る、簡単な数合わせの遊戯である。手元の得点表には三人の名前と点数が印されているが、イナリの列だけ異様に低い点数になっている。
「すごいな。こんな酷い出目、中々ないぞ」
「よわいお狐さん、かわいそう……」
「憐れむでないのじゃ。これもまた一興というものよ」
イナリは地球にいたころ、一人二役で将棋などの遊戯をしていて、その虚しさたるや凄まじいものであった。故に、今は勝敗など気にせず、自分以外の誰かと遊んでいるという事実を楽しむだけで十分である。勿論、勝てたらそれに越したことは無いけれども。
「ううむ、もし今ここに、出目が二しか出ない賽があればのう」
「何だそのゴミサイコロ……」
「いや、我も最初はそう思ったのじゃがな、これが意外と奥深くて――」
イナリがいかさま賽の良さをイオリに布教しようとしたところで、酒場で向かい合っていた人々が席を立ち始める。どうやら会議が終わったようで、エリックとリズがイナリ達の元へ戻ってくる。
「皆、お待たせ。……あれ、アースさんは?」
「帰ったのじゃ」
「そっか、それなら一言くらい挨拶しておけばよかったね。何か困ったことは無かった?」
「うむ、特には。会議の方はどうじゃ?何か興味深い話はあったかや」
「いくつかあったよ。家に戻って皆と共有したいところだけど、まだいくつか詰めないといけない話があるんだ」
エリックは振り返り、こちらに向かって歩いてくるウィルディアとハイドラを一瞥する。
「……ええと、イナリちゃんと、イオリちゃん、だよね?」
「うむ」
ハイドラは確認するようにイナリ達を指さして確認してきたので、頷いて返した。
「ふむ、姿だけでは判別が難しいが、魔力の流れを見れば一目瞭然だな。名前にもどこか共通点が見られるし、何か血縁関係でもあるのかね」
「んや、全くの偶然じゃ」
「そうか。数奇な運命もあるものだな」
「イナリちゃん、色々と大変だったって聞いたけど無事でよかったよ!」
「うむ。……で、エリックよ、詰めねばならぬ話とは?」
「うん。まずはサニーちゃんについてだね」
「わたし?」
「うん。現状だと、研究所にいた子供達は皆、どこかの街の冒険者ギルドに預かってもらうことになっている。というのも、親の特定ができないのと、孤児院を営む教会を吟味している時間が無いからというのが主な理由なんだけど」
「子供達の意見は聞いてやらないのか?」
「それがな、子供達の半数近くは意思疎通が困難なんだ。会話能力が無いのではなく、外を知らないから答えようがないという意味なのだが……」
イオリの問いに答えるウィルディアは、ため息をつきながらアースが座っていた椅子に座り、腕を組んだ。学者として何か思うことがあるのだろう。
「ここからが本題。サニーちゃんが、イナリちゃんやイオリちゃんと一緒に居たいと言っているのは聞いたから……ひとまず、『虹色旅団』の方で預かりたいと思う」
「んむ、良いのではないか?」
エリックの言葉に、イナリは特に躊躇いなく頷いた。
「待て。私は勇者様と一生を添い遂げるつもりだから、何時までもお前らと居るつもりは無い。サニーには悪いが……」
「じゃが、勇者と合流するにも時間があるじゃろ。気が早いのではないかや、色々と」
「こわいお狐さん、わたしと一緒はイヤ?」
「そうは言ってない、けど……わかったよ」
首を傾げて問いかけるサニーに対し、イオリは渋々といった様子で承諾した。尤も、イオリは現状監視対象であるわけで、選択権など元より無いようにも思えるが。
「……では次は私から一つ」
一つの話題が終わったと見たウィルディアが手を上げる。
「ポーション……群青新薬の話だ。昨日の神託を受けて、今朝、魔法学校の方に依頼料の見積もりを提出したのだが……恐らく、満額が支払われることは無い」
「そも、いくら払われる予定なのじゃ?」
「私の記録では、製造された群青新薬の数はおよそ三千ほど。それで、ハイドラ君から聞いた卸値は一つあたり金貨五枚。つまり概算で大金貨三百枚程度が支払われる見込みだった」
「……イオリよ。それってつまり、どれくらいじゃ?」
「私に聞かれても。ええと、家くらいは買えるんじゃないか……?」
ウィルディアの言葉に、金銭感覚に疎い狐二匹は首を傾げあった。
「ううむ、家を買ったことなど無いから分からんのじゃ。売られたことはあるが」
「……何か、すまん」
イオリはそっとイナリから視線を逸らした。空気が悪くなったのを察してか、ハイドラが声を上げる。
「ええと、質のいい魔道具が百個は余裕で買えるよ!」
「ううむ、もう少し身近な例は無いかの?魔道具とは無縁なのじゃ」
「んー……冒険者ギルドの食事セットを朝昼晩で三回、二千七百三十九日食べ続けられる、かな?」
「身近過ぎて逆にわからんのじゃ。とりあえず、なんかすごいのじゃな」
「うん。なんかすごい」
ハイドラの計算能力は完全に無駄遣いに終わり、実に抽象的な結論に着地した。
「話を戻すが。どうにも、魔法学校の生徒への返金や設備輸送費が嵩んで、満額支払えるかが怪しいそうだ。一応国庫の方にもあたって工面しようとはしているようだが、この情勢ではな……」
「つまり、負けろと?」
「心苦しいが、そういうことになる。……しかし、完全なタダ働きでは申し訳が立たない。大金貨百枚は先に徴収してあるから、何時でも渡すことが出来る」
それを見届けたウィルディアは周囲を見回してから、口元を手で隠して囁く。大金が絡む以上、慎重にならねばならないのだろう。
「ふむ。ハイドラよ、お主はどう思うかの?」
「んー……正直、原価からすれば十分すぎるくらいだよね。元値もかなり吹っ掛けてたし……」
「我も同感じゃ。あまり金があったところで、持て余すだけじゃしの」
「うん。だけど……危険手当的な意味ではもっと欲しいと思っちゃう自分もいる……」
「ハイドラちゃんはね、イナリちゃんが居ない間、毎日自分の手がもげるかもしれないと震えながらポーションを作ってたんだよ」
「ええと……頑張ったのう?」
「うん……」
「……私は依頼した立場だからな、限界まで最善は尽くすよ。では、私からは以上だ」
ウィルディアは手をエリックの方に向け、会話の主導権を手放した。
「では最後に、これはもう決まったことなんだけど……明後日の朝、飛竜便でここを発つ。ウィルディアさんやリズも同行することになる。勿論、イオリちゃんとサニーちゃんも」
「明後日とな?」
「うん。神罰の日程や規模が定かでない以上、なるべく早くこの場を去った方がいいからね」
想定としては、今日療養、明日準備、明後日出立といったところか。理には適っているし、その間に勇者の噂の一つくらいはあるだろう。
イナリはエリックの言葉に頷いた。




