287 「前哨」の後(前)
「ねむ、ねむすぎるのじゃ……」
イナリは現在、睡魔と戦いながらアルテミアの冒険者ギルドに向かって足を運んでいた。
「なあ、そんなんじゃサニーが心配するぞ?」
「確かにのう。仕方あるまいか……」
イナリは懐からブラストブルーベリーを一粒取り出して齧る。すると眠気は嘘かのように弾け飛び、活力が漲ってくる。果たしてこれが健康的観点からして健全なのかは何とも言えないところだが、後でたっぷり寝れば問題は無いだろう。
「よし、これで大丈夫じゃ。……どうしたのじゃ?」
「いや、本当にそれ食べるんだなって……」
イオリはふいとイナリから視線を逸らした。
「初めて見るとびっくりするよね、わかるよ」
その反応を見て、同行しているエリックとリズが笑う。彼らは冒険者ギルドでの会議ついでに、イオリの監視役と護衛役としても同行している。
なお、ディルは観察眼を鍛える云々でどこかに行き、エリスは昨日聖魔法を使いすぎた関係で療養とのことだ。イナリも一緒に療養していたかったところだが、サニーの事を無下にするのも悪いので、そちらを優先した次第である。
さて、あと四日で滅ぶことが確定した街の様子はというと、ちらほらこの街を去ろうとしている住民とすれ違う程度で、案外平和なものである。
「誰かっ、除霊師を、呼んでくれ!誰か!」
ただし、道の端の方で幽霊にぼこぼこにされている神官が時折見受けられるが。
「おお、あれが例のやつか、哀れじゃのう。誰か、助けてやる者はおらんのかや?」
「元々幽霊に対してできることなんて無いし、アルト神に反抗したから救う価値ナシ、みたいな感じなんじゃない?」
「そうだろうね。あれも神罰の一環なのかもしれないし、僕達にはどうすることもできない」
なるほど、事情を知らない人間からしたら、幽霊に襲われる神官は悪事を働いた報いを受けているように映るようだ。それはあながち間違いでもないのだが、それにしたって、完全に存在しないものとして扱うのは些か不憫に思わないこともない。救う気は微塵も湧かないのもまた事実であるが。
「ところで、アースはどうしたんだ。来れないのか?」
「ううむ、どうじゃろ。我もあやつのこと、そう詳しく知っているわけではないからのう……」
「えぇ、イナリちゃんのお姉さんなのに……?」
「あやつと会ったの、割と最近なのじゃ」
「あ、ちょっと複雑な事情がある感じ?何かごめん……」
「別に、何億年くらい音信不通だっただけじゃ。複雑でもないし、謝ることでもあるまい」
リズの謝罪にイナリが答えると、三人からの視線が集まった。イナリのあまりの寛容さに、皆を感動させてしまったのかもしれない。
「……まあ、なんだ。ともかく、サニーが悲しまないことを祈るばかりだ」
「お主、意外と他人を慮る奴よの」
「奴隷として、子供をあやす機会なんていくらでもあったからな。私にはあまり向いてなかったが」
「……なるほど。これこそ、複雑な事情があったわけじゃ」
イナリの呟きに、イオリは頷いて返した。
「あら、よく来たわね。待ってたわ」
「あ、お狐さんたちだ!」
イナリ達が冒険者ギルドに着くと、黒い長髪を持った少女が端の方で優雅に茶を飲んでいた。わざわざ自前の机まで用意しているので、そこだけ妙に周辺から浮いている。
隣の椅子にはサニーの姿もあり、彼女は椅子から飛び降り、イナリの胸に飛び込んでくる。
「何でここに居るんだ……」
「サニーに会ってほしいって言ったから居るのよ。何か問題でも?」
「いや、何も無いけど……」
イオリが釈然としない様子で返すと、エリックが機を見て声を掛けてくる。
「二人とも、僕とリズは酒場の方で会議をするから、一旦失礼するよ。イオリちゃん、冒険者ギルドからは出ないようにしてね」
「ああ、わかっている」
エリックはイオリに念押しして去っていった。会議の場にはウィルディアやハイドラの姿もあるが、その辺は追々確認していくとして、イナリ達は、人数分用意されている椅子に各々腰を掛ける。
「……」
「……」
そして無言で向かい合い、アースが茶を啜る音と酒場の方での会議の声を聴く。
……一体これは、何の時間なのだろう。サニーがニコニコと皆を眺めているからまだいいが、普通こういうのは会話が弾むものではなかろうか。
イオリも同じことを考えているのか、少し椅子をずらして近寄り、尻尾でイナリを軽く叩いて何かを訴えてくる。察するに、「何か喋れ」とか、そういう感じなのだろう。
だが、昨日の今日で話せることなんてたかが知れているし、そもそもこっちは呼ばれた身だ。まずはそっちから話すのが筋というものだろう。……という念を込めて尻尾で叩き返す。
「……あー。サニー、体調はどうだ?」
「元気だよ!またお狐さんたちと会えて嬉しい!」
「そうか。よかったな」
イオリの言葉に再び会話が途切れ、また尻尾を叩き合う。
――何が「よかったな」じゃ。まともに会話させる気があるのかや?
――今のはそっちが割って入る流れだっただろ!
――知らんのじゃ。せめてこっちに話を振るとかするべきじゃろ。
――お前、いつもこんな面倒なやつなのか!?
「……貴方達が来る前に、実験体全員の様子を確認したわ」
意地の張り合いを始めた狐二匹が器用に尻尾言語で喧嘩していると、アースがおもむろに口を開く。
「結論から言えば、既に神の力を包含することを前提とした体のつくりに変質してしまっていたの。だから、神の力の回収は最低限に留めてあるわ」
「……なるほど、のう?」
「要するに、普通の人間より多少強いかもしれない程度になったという感じね」
「何と言うか、実験体の子供らに対しては随分と手厚いのじゃな」
「当然よ。何の拍子に暴走するかわからないような要素なんて、さっさと除いておくに越したことは無いわ」
「難しくてよくわからないけど、わたしの事をつよいお狐さんが助けてくれたってことだよね?」
「そうよ」
「つよいお狐さん、ありがと!」
「お安い御用よ」
アースは冷静な様子で返したが、その口元は僅かに微笑んでいた。
「ところで、サニーは今後どうするのじゃ?」
「しらない!皆で話し合って決めるって、おじさんに言われたよ」
「おじさん?」
「子供を世話しているギルド職員の一人だと思う」
サニーの言葉をイオリが補足する。
「わたしはお狐さんたちと一緒に居たいけど……」
「まあ、何とも言えんのう。じゃが、あそこの会議を盗み聞けばわかることもあるやもしれぬ」
イナリは悪戯を企む子供のような笑みを浮かべて三十人程度が一堂に会している酒場の方を指さした。
耳を立てて聞いてみれば、今は神託についての話をしているようだ。
「この街の教会はもはや機能を保てておらず、神託の内容を検討することなど不可能だった。この街に限った話と願いたいものだが……」
「あの神託って、どういう話だったんですか?何か、十点が何だとか」
「『十度天が回りし時』の事なら、それは五日の事を指す。神託の内容の大まかな解釈は、『五日後にこの街に神罰を下す』ということになる」
「それってどの時点でカウント開始なんですかね」
「通例によれば、神託が下った瞬間から数える。つまり、あと四日後と数時間程度の猶予と思われるのだが……実のところ、神罰の内容はわかっていない。本来はそれを検討すべき教会も、今となっては神官より幽霊の方が多いかもしれない惨状だ」
「前哨とか言うのがありましたし、あれと同じようなのがもう一回来るんじゃないですか?」
「いや、今街で幽霊が暴れているのが神罰なのではないのか?」
「え、私、寧ろそれが前哨だと思っていたんだけど……」
「……そういや、具体的な神罰の内容、言ってなかったよの」
「そうね。アルトに任せた結果がこれよ、とんでもないわね……」
イナリが苦笑しながら呟けば、アースが顔を手で覆って俯く。大事なところを端折って力の消費を抑えるアルトの神託の良くないところがよく現れていると言えよう。
もしかして、イナリが魔王認定されたのもこういう流れからであったのだろうか。だとしたらとんだ迷惑である。
「私としては最悪の事態を想定して、最低でもこの街から、可能ならば国から逃げるのが良いと考えている」
「でも俺の近所に住んでいる神官は問題無いって言ってたぞ?精々王城か教会辺りが吹き飛ぶだけじゃないかってさ」
「この段階で神官の話を鵜呑みにするのは危ないと思うけどなあ……」
「というか、前哨と同じくらいの神罰なんてあり得るんですかね?何か……ショボくないですか?」
「確かにそれは思ったけど、結構そういうふうに捉えている人も多いっぽいんだよなあ」
聞いた限り、神罰の内容や規模が不明瞭なせいで人間の行動も一様では無くなっているようだ。
「これ、神罰に巻き込まれた人間はどうなるのじゃ?」
「ご想像にお任せするわ。警告はしたし、それで死んだって文句を言う義理はないでしょ?」
「神ともなると、人の命なんて虫と同等くらいにしか感じないのか?」
「まさか。全ての生命は、慈しむべき存在よ。ただ、不良品は処分しないといけないでしょ?」
「ああ、そういう感じか……」
「ま、あくまで私の考え方よ」
顔を顰めるイオリに対し、アースは笑いながら断りを入れた。
「女神についてわかればもっと神罰の内容に近づけそうなんだが……」
「女神?」
「神罰の前哨を下したと思われる神の事ですよね。すごい噂になってますよ」
「俺は女体化したアルト神って聞いたぞ?」
「私は世界を滅ぼそうとする邪神と聞きましたけど?」
アースの話が始まると、真相を知るエリックとリズは聞き手に回る姿勢をとり始める。その露骨さもさることながら、アースの正体が滑稽なことになっているので、思わずイナリは吹き出しかけてしまった。
「色々と囁かれるのは覚悟していたけど、いざ目の当たりにするとムカつくわ……」
「くろいお狐さん、怒ってるの?」
「いや、怒ってないわよ?所詮、取るに足らない噂でしかないもの」
アースは余裕のある表情で茶が入った杯を手に取り――
「なあ、例えばなんだが、アルト神の妻とかはどうだ?」
――握り潰した。
「イナリ、神罰の日程は変更。今、この瞬間、ここを、潰す……!」
「お、落ち着くのじゃ。あれも所詮、取るに足らぬ噂じゃろ!?」
「くろいお狐さん、怖いよ!」
イナリ達は慌てて、怒り狂うアースを引き留めた。
どの人間が発言したのか知らないが、軽率な発言が身を滅ぼすことをゆめゆめ忘れないでほしいものである。




