285 見通しの甘さ
帰宅したイナリは着替えを済ませると、井戸から水を汲んで化け物の血が付着した着物を洗っていた。
「ううむ、中々落ちぬのう……」
この服は汚れにかなり強かったはずなのだが、やはり血ともなると落とすのも容易くは無いらしい。こればかりは時間をかける他無いだろう。
そんなわけで、イナリが心を無にして手を動かしていると、どこからともなく鐘の音が鳴り響き、続いて男の声が頭の中に直接響き始める。
「――愚かな人間に告ぐ――」
「おお、これが件のやつか。些か鐘の音が大きすぎて、後の話が何も入ってこないのじゃ」
イナリは神託そっちのけでそれに対する苦情を零した。
神託が告げ終わると、アルテミアの街の方で天を貫くように光線が走り、僅かに大地が揺れる。足元の桶に入れた水も幾らか零れてしまったし、もう一度汲み直した方がいいかもしれない。
「にしても、前哨にしては派手……でもないのかのう?」
この後に控えている神罰本体に比べれば、あの程度大したことは無いだろう。
イナリが呟きながら桶を持って井戸の方に歩み寄ると、その背後に亜空間が現れ、翼をバサバサと鳴らしながら派手な服装の黒髪の美女が現れる。
「お疲れ様イナリ!」
「だ、誰じゃ貴様!?」
まるで知り合いかの如くイナリに声を掛けてくる謎の女に、イナリはわなわなと震えながら叫んだ。
「ん?……あ、ごめんなさい。人間を脅すために大人の姿になっていたの」
女はそう言いながら少しずつ縮んでいき、イナリよりやや年上くらいの少女であり、よく知るアースの姿になる。翼も消失し、衣装も質素な黒いものになっている。
「な、なんじゃその術は……」
イナリは目を丸くし、口をぱくぱくとさせながらアースに尋ねた。
「前も言ったでしょ?創造神なら姿形くらいちょちょいなのよ。まあ、あの姿は無駄に力を使うし、あまり好きじゃないのだけれど。……一応言っておくけれど、貴方はそのままの姿が一番いいわよ」
「まだ何も言ってないのじゃ」
言葉を先読みされたイナリは、肩を落としながら返した。
アースはそれに苦笑しながら、近くに備えられている柵の上に腰掛ける。
「先ほどのあれはお主がやったのかや?周りにいる人間は、皆は無事かや?」
「ええ、それはもう限界まで手加減したし、去り際に確認したから問題無いわ。……まあ、多少怪我人はいるでしょうけど、魔法文明ならすぐ治療されるわよ」
「そうか」
イナリはアースの目が僅かに泳いだのを見逃さなかったが、敢えて言及することはしないでおいた。
「……で、お主は何故ここに来たのじゃ?てっきりもう帰るものと思っておったのじゃ」
「そのつもりだったのだけれど、少し人間達に話しておきたいことがあることを思い出したの。ここで待っていてもいいかしら?」
「うむ。そういうことなら茶を淹れてやるのじゃ」
「じゃあお言葉に甘えて。美味しいお菓子を用意するわ」
「おぉ、本当か!?ならばついでに、稲荷寿司が食べたいのじゃ。今日、殆ど何も食べてないのじゃ」
「そうなのね。なら、少し遅れた昼食にしましょうか」
イナリは着物が入った桶を抱え、アースを率いて家へと入っていった。
二神による食事会が終わると、イナリは再び井戸で洗濯を、アースは転移者の問題を解決するべく、彼の現在地の捜索を始めた。
時折忘れそうになるが、今回の件の主題は転移者が操られていたのをどうにかしようという話であり、地下研究所における人体実験だのはあくまでおまけである。散々化け物と戦うことになったイナリにとっては完全におまけが本編になっていたが、それはそれとして、である。
さて、転移者の位置についてだが、アース曰く、歪みを一つ潰した転移者はこの街に戻ってくるだろうから、その間の区間を探せば見つかるだろうとのことだ。言うだけなら簡単だが、イナリの着物に付着した血を落とすのと同じくらいには気が遠くなる作業だろう。
「……む?ちと待つのじゃ。我ら、先ほど神託を下したじゃろ?」
「ん?ええ」
「あれ、この世界全体に届いてるんじゃろ?」
「そうね」
「この街、五日後に滅ぶんじゃよな?」
「そうよ」
「……果たして、これから滅ぶと分かっている街に、わざわざ戻ってくるじゃろか」
「……」
イナリの呟くような問いにアースは無言になり、この場には風が吹く音とイナリの手が水をじゃぶじゃぶと鳴らす音だけが響く。
一体どうしたのかと洗濯する手を止めて見れば、アースの顔は明らかに焦っていた。
「……もしや、考えてないのかや?」
「ま、まさか、そんな訳ないでしょう!ちゃんとそれも計算の内に含めてるわよ!当然でしょ!」
「そ、そうじゃよな。うむ」
アースがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。イナリは再び桶の方に視線を戻した。
背後から「絶対に見つけないと」と言う呟きが聞こえた気がするが、きっと気のせいのはずである。
なお、イナリが洗濯を終え、やや遅れた昼寝を開始するまでの間もずっと、アースは必死の形相であった。
イナリが昼寝から目覚め窓の外を見れば、既に真夜中であった。ついでに、向かい側のソファにはぐったりとした様子のアースの姿もある。
「おはようじゃ。……その様子じゃと、探し物は見つかったかの?」
「ええ、おかげさまで。多分帰ってきてくれると思うわ……」
アースには最早、取り繕う余裕すら残っていないようである。イナリは目をこすりながら身を起こし、部屋を見回す。
「あやつら、まだ帰ってきておらんのかや」
「そうね。事後処理でもしているんじゃない?」
「確かに、あの童たちの身の上だのの説明は大変じゃろうな。……というか、あやつら、此度の事態をどの程度把握しておるのじゃろか」
「さあ。まあ、イオリが居るから何とかなるわよ」
「どうじゃか」
イナリが軽く髪を整えていると、家の戸が開く音が聞こえ、間もなく皆がリビングに姿を現す。そこにいたのは「虹色旅団」の面々とイオリの五人であった。
「お主ら、おかえりじゃ。遅かったのう」
「人間、よく無事に戻ってきたわね。褒めてあげるわ」
イナリが手の代わりに尻尾を振って一同を迎えれば、皆が顔を見合わせる。よくよく考えれば、彼らからすればイナリは数か月越しの帰宅なわけで、無理もないだろう。
あるいは、当然のようにここに居座り、神から目線で出迎えるアースのせいかもしれないが。
「お前ら、何で当然のようにここに居るんだ?」
「いや、我もここで暮らしていた故、我も家主の一人じゃ。家主がここに居ることに何の問題があるのかのう?」
「私はその家主に招かれてここに居るのだから、何の文句も無いでしょ?」
「好き放題してるな……」
「『神だから』で済まさないだけいいでしょう?……というのは冗談として。普段イナリが世話になっている礼として、貴方達にこれをあげるわ。好きなように使いなさい」
アースはディルの言葉を適当にあしらうと、亜空間から数枚の紙を取り出し、エリックに手渡す。
「え、なにこれ。めっちゃ血まみれなんだけど……」
エリックの手元にある紙を見たリズの第一声はあまり肯定的なものではなかった。
その紙の正体は、イナリが一時的に懐に保管していた資料の束である。化け物との戦闘を経て文字の判読にちょっとだけ支障が出てしまったが、きっと問題は無いはずである。
「ええと、何て書いてあるんだろう。……アル……物の……歴?」
「エリック兄さん、リズも手伝おっか?」
「うん、その方がいいかも……」
……問題はあるみたいだが、きっと皆なら乗り越えてくれるはずだ。
兄妹のような二人組が文章の解読に関する相談事を始める傍ら、イオリが口を開く。
「そうだ。サニーが二人に会いたいって言って大変だったんだ。明日連れてくると約束してしまったから、会いに行ってあげてほしい」
「その、肝心のサニーは今どこにおるのじゃ?」
「今は冒険者ギルドの方で保護して頂いています。……アースさんがあんなことをしてから、本当に大変だったんですよ。本当に」
エリスがイナリに抱きついて座りながら恨みがましく呟くと、アースは肩をすくめた。




