273 三十二
「ふう、こっちが聖女の部屋であったとは……」
イナリは冷や汗を拭いながら、もう片方の部屋に向き直る。
聖女と鉢合わせたのは本当に運が無かったが、まだ思考力が養われていない年齢の幼女であったのは不幸中の幸いだ。いきなり聖魔法を撃ちこんでくるような者で無くて、本当によかった。
そう考えていると、軽い音で戸を叩く音と、先ほどの幼女の声が聞こえる。その声は何度も「お狐さん」と呼び掛けているが、次第にすすり泣くような声色に変化していく。
「…………」
イナリは葛藤の末、再び部屋に引き返すことにした。
「お狐さん、ふわふわだね」
「そうじゃろ」
イナリは、己の尻尾を触って喜ぶ幼女の声に頷いて返した。
……らしくないことをしている自覚はある。だが相手に害意は無いし、何なら友好的まである。それに、泣き叫ばれて人が来ても困る。ならば、ここで懐柔して味方に引き込むことが一番賢明な判断であろう。
決して、良心が痛んだとかではないし、軽くあやして去ろうとしたら、ものすごい悲しげな表情をされたから仕方なく残っているとか、そういう話でもない。
全ては計画通り、イナリの手のひらの上である。
「お狐さん、なんでここにいるの?」
「それはお主が……いや、ええと。間違えて来てしまったのじゃ」
「じゃあ、わたしと一緒じゃないんだ」
「うむ。お主、聖女であろ?我が聖女に見えるかや?」
「んー……わかんない!」
「そうか。ではよく見るのじゃ。我は聖女なぞではなく、もーっと偉大で、崇高な――」
「すうこう?」
「……我はすごいということじゃ」
言葉も満足にわからないような幼女に己の偉大さを訴えたところで、虚しいだけだ。イナリはため息をついた。
「あ、あとね。わたしは聖女さまじゃなくて、『さんじゅうに』だよ」
「……三十二?それは……何の番号じゃ?」
「ちがうよ、わたしの名前だよ!」
何故か誇らしげに番号を名乗り上げる目の前の幼女だが、この世界の文化だと、名付けに番号を採用することは普通なのだろうか。あるいは、順当に実は闇が深い存在なのかもしれない。何にせよ、深入りしてもいい事は無さそうだ。
「……そういえば、名乗っていなかったのう。我はイナリというのじゃ。お主、普段はどういう生活をしておる?」
「いつもはここの下だよ。でも今日はここに居ていいって言われたの!『けんこーかんさつ』?っていうんだって」
「ふむ。ここの下というのは?」
「あっちの部屋に、下に行けるところがあってね。そこをぐーっと行くと、わたしとか、ほかの皆の部屋もあるの」
「なるほどのう。その、下を案内してもらうことはできるかの?」
「ダメだよ、この部屋から出ちゃダメって言われてるから。怒られると怖いの……」
「誰に怒られるのじゃ?」
「…………」
イナリの問いに答えずに震えて黙り込んでしまうあたり、並々ならぬ怒られ方らしい。仕方なく、イナリは尻尾を彼女の顔に当て、頭に手を置いて宥める。
「お主、聖女のことは分かるかや?」
「……うん。たまにここの上にいるんだって。でも、わたしは見たことないよ」
「ふむ」
話しぶりからして、三十二と名乗った幼女は、自身と聖女を別の存在として認識しているようだ。しかし、イナリが視認できている時点で彼女もまた聖女の特徴を満たしているわけだが、一体これはどういうことだろうか。
それを知るには、やはり「下」に行く必要がありそうだが……本来の目的から逸脱しかねないのが懸念点だ。
しかし、目的が重なって、結局イナリ達も「下」に行く必要がある可能性も否定できない。ここは一旦、皆と話し合うべきかもしれない。
「ちと部屋を出るのじゃ。……ええと、出たいのじゃが」
イナリが立ち上がろうとするも、幼女はイナリにくっついて離れない。
「やだ!まだお狐さんと一緒に居たいの!」
「ううむ……。お主、この部屋を出ることが許されていないのじゃったよな」
「うん」
「でも、我はこの部屋を出たいのじゃ」
「だめ」
「……その、お主を怒る者が禁じておるのは、お主の意思で部屋を出ること、じゃよな?」
「ええっと……?わからない」
「では、我が今、そう定義したのじゃ。つまり、我がお主を攫えば、我はこの部屋を出られるし、お主もお咎めなしというわけじゃ。さあ、行くのじゃ!」
イナリは幼女を抱え上げて立ち上がった。
……が、数秒しか持ち上がらずにぷるぷる震えることになり、結局、色々と理屈を並べて後を着いてきてもらうことで決着した。
「――はあ、ふう……と、いうわけで、こやつが三十二じゃ。ぜえ、はあ……ちょっと休んで良いかの?」
「普通、ちょっと部屋を見てまわるだけでそんな疲れるか……?」
地面に力なく寝そべるイナリを見て、イオリは首を傾げた。
「というか、三十二はいくら何でも酷いわ。安直だけど、サニーと呼ばせてもらうことにするわね」
「わたし、サニー?」
「ええ、そうよ」
首を傾げる三十二改め、サニーを見て、アースは笑顔で頷いた。普段はツンツンとした様子の彼女だが、意外と優しいところがある。
「ところで、お主らはどうじゃ。何か進捗はあったかや?」
「んー、ここはダメね。何と言うか、当たり障りない資料ばかりだわ。過去の出入りの記録だとか、誰々の健康状態はどうだったとか、神託の解釈はこうだとか、そういう感じのものばかり。さしずめ、アーカイブってところかしら」
「最後の言葉はようわからんかったが……サニー曰く、ここには地下があるようでな、その入り口は広い部屋の方なのじゃ。そちらにあたってみぬか?」
「そうね、それがいいと思うわ。ただ、当然人がいるわよね?」
「うん。でも、今の時間は少ないよ」
「だ、そうじゃ。イオリ、やれるかの?」
「十人も居ないなら問題ない。どちらかと言うと、部屋を散らかさないかどうかを心配したほうがいい」
「ま、そこは貴方に頑張ってもらおうかしら。私、手加減は苦手なのよ」
「我も応援しておるのじゃ」
「こわいお狐さん、頑張って!」
「こ、怖いお狐さん……?」
サニーの言葉にイオリは狼狽える。
だが、それも仕方ないところはある。外見だけで言えば、この部屋にいる者の人数比は人間一、狐三であり、サニーから見れば全員「お狐さん」になってしまうのだ。しかも狐の内イナリとイオリは見た目がほぼ同一なので、幼いサニーに区別を強いるのも酷である。
「ま、まあいい。時間も有限だし、さっさと行こう」
イオリの言葉に皆が頷いて返すと、早速研究室へ乗り込むことになった。
そして、あっさり制圧した。
「……何だ、大したことないな」
イオリは息を整えながら呟いた。
一階の研究所には五名の研究者がいたが、何れも迅速にイオリによって殴り倒され、その辺にあった縄で拘束された。ただ、研究者が全員魔術師らしき戦闘方式を採っていた辺り、彼らが弱いというよりかは、室内での戦闘に関して、イオリに分がありすぎたと言うべきかもしれない。
一同は適当に研究室を流し見し、特に怪しそうな物が無いことを確認する。
「ふーん。流石に、そう簡単に尻尾を出してはくれないわよね」
「みたいじゃな。さ、下に行くのじゃ。どこから行くのじゃ?」
「ここだよ!」
サニーは部屋の一角にある大きな本棚を体全体を使って押した。すると、その奥に地下へと繋がる階段が現れる。
「へえ、なんだか……ものすごい典型的な感じね」
「こんな仕掛けを用意している時点で、表に出せないようなことをしているんだろうな」
アースとイオリがそれぞれ感想を述べると、拘束した研究者のうちの一人が声を上げる。
「三十二番、どういうつもりだ!恩を仇で返すつもりか!」
「ひっ……」
イナリはそっとサニーの前に立ち、研究者に向き直る。
「お主らの三十二、いや、サニーは、既にお主らの手中には無いのじゃ。それに、お主らの非道な行いもこれから暴く予定じゃ!罰が当たったと思って、そこで後悔しておくが良いのじゃ!くはは!」
「よ、よわいお狐さん……!」
「……え、まさか『弱いお狐さん』って、我の事かや?」
幼い子供からの容赦ない言葉に、イナリは密かに傷ついた。
「……あの、イナリ。いい感じに決めたところ悪いんだけど、今、こいつらからあなたの事って、見えていないんじゃないの?」
「む?……あっ」
イナリは、己が不可視術を発動していることを思い出した。
つまり今、イナリが研究者達に向けて放った言葉は全て、独り言であったということだ。
「……もう我、帰っていい?」
本格的な潜入を前に、イナリの心は既にボロボロであった。
サニーの呼称一覧:
イナリ:よわいお狐さん
イオリ:こわいお狐さん
アース:くろいお狐さん




