265 歪みの脅威
「貴方の世界での勇者の位置づけがよくわからないけれど、要人に手を出して指名手配される流れは妥当と言えば妥当よね。問題は、入れ替わっていたせいで罪状まで擦り付けられていることだけれど……」
「どうせそのイオリとやら、我に成り代わって己が神だと勘違いしておるだけなのじゃ!さっさと捕縛して、どちらが上位者か教えてやる必要があるのじゃ!」
イナリは右腕を上げて憤った。
「……まともに戦ったら、イナリさんが負けそうですけどね」
「お主、何か言うたか?んん?」
ボソリと呟いたエリスに、イナリは首を傾げながら迫れば、慌てた様子で弁明を始める。
「ああいや、指名手配を撤回させるうえで、イオリさんを捕まえれば、イナリさんの存在も証明ができるなーと思いまして!」
「まあ、そうじゃな。……我は聞き逃しておらんからの」
イナリはそっとエリスに囁いた。
「ま、まあ。一旦勇者が戻ってくるのを待つとして、それまで作戦会議をしませんか?」
「それまで一週間以上間があるんでしょ?それだとイオリとか言うのに何かあるかもしれないし、そしたら折角立てた計画も無駄になるわ。しばらくは様子見でいいと思うけれど」
「そうですか」
「まあ、そういうことならゆっくりしていればよかろ。茶を淹れるのじゃ」
イナリは近くに配置してある棚へ移動し、そこにある茶葉を手に取った。
イナリが地上に「生き返る」のは、もう少し先になりそうだ。
アースが亜空間を開いてエリスを地上に送り、それを閉じる。
イナリはその一連の様子を見届けたところで、ずっと疑問に思っていたことを問いかけてみる。
「のう、我はあえて問わずにいたのじゃが、先ほどお主が言っていた、『干渉する余地が生まれる』と言うのはどういうことじゃ?」
「ん?……ああ、別に大した話では無くて。ただ、もし勇者がアルトの世界の人間に妙な事をされているようなら、それを口実に地上で一暴れできるってだけの話よ?」
「思ったより物騒……でもないのかのう?」
勇者が死亡した場合は世界を滅ぼすつもりらしいし、それと比較したら何てことないように思えてしまう。人間からしたら堪ったものでは無いのかもしれないが、所謂、自業自得というものだ。
「ところで……。ねえイナリ、ちょっと、地上に遊びに行ってみない?」
「ふむ?それは大丈夫なのかや?何かあるじゃろ、あの、創造神的に問題が云々、みたいなのが」
イナリは人差し指をぐるりと回しながら尋ねる。アースだけに限った話ではないが、創造神に妙な制約や約束事があるというのは、散々聞かされてきた話だ。
「その点は大丈夫よ。地上に降りるだけならアルトもよくやってる事だし、間違えて街一つ消し飛ばすとか、そういう重大な影響を出さなければいいの」
「ほう、そうなのじゃな。して、どこに行くのじゃ?美味な食べ物を食べるのかや?」
「それも魅力的ではあるのだけれど、それは落ち着いた時にするとして……」
アースは彼女の隣に亜空間を生成した。
「今から行くのは勇者の行き先、歪みの近くよ。そこで勇者を待って、様子を観察しましょ」
亜空間を抜けると、その先は薄暗い森であった。空が僅かに橙色になっている辺り、時間帯は夕暮れ辺りだろうか。
ただ、ここはただの森ではない。周辺の植物が全て朽ち果てていて、腐敗によって発されているであろう妙な香りが混ざり合って異臭を放ち、辺りにはハエか何かが数えきれないほど飛んでいる。
空を見上げれば、空を覆う黒と橙の螺旋のような捻じ曲がりが目に付いた。夕暮れだと思っていた空の色は、歪みの一部の色であったらしい。遠くを見れば月が見える辺り、正しくは、今は夜のようだ。
それに今気がついたことだが、地面をよく見ると、動物の死骸らしきものも転がっていることに気がついた。本当に、最悪な気分だ。
「臭すぎて鼻がもげそうじゃ。虫が煩すぎて耳が折れ曲がりそうじゃ。もう帰りたいのじゃ」
イナリは鼻を抑え、これ以上ないくらいに不快感を顕わにした。
「へえ、歪みの実体化ってこんな感じなのね……」
「お主、何故そんな堂々としていられるのじゃ……!?」
「慣れってやつね。世界を創る時に色々な匂いに触れることがあるの」
「なるほどの……」
聞いても全然わからないことがわかったところで、イナリは諦めて鼻をつまみ、前を向いた。
「しかし、この豊穣神たる我を前に朽ちた草木があるのは気に入らんのじゃ。ちと、戦ってみても良いかの?」
「戦うって……ああ、いいんじゃない?」
イナリはアースの返事を受けた後、全力で成長促進を発動させた。と言っても、本人に何かしらの負荷がかかるわけではないし、傍から見れば尻尾が九尾になるだけなのだが。
成長促進を発動すると、周辺の草木の半分程度が少しずつ色彩を取り戻し始めると共に、地面から僅かに新たな芽が芽吹き始める。
ただ、地面に転がる死骸はそのままだし、完全に朽ち果ててしまった草木が元に戻ることも無かった。煩わしいハエの群れも元気に飛び回っている。
「んー……まあ、完全にとまでは行かないけど、異臭はマシになった気がするわね」
「ぐう、我の力をもってしてもこの程度とは……」
「いや、これでも十分上出来よ。たった数十秒でこんな風に戻すことなんて、普通出来っこないんだから」
「それはそうなんじゃが……我が納得できぬ」
「そこは貴方の中で折り合いをつけてもらうしかないけれど」
豊穣神としてのプライドが許さないイナリに対し、アースは両手を上げながら返した。
「ところでお主、歪みを見るのは初めてなのじゃな」
「まあ、ここまで近くで見ることなんてそうそう無いわよね。それに、私は実体化する前に潰すから」
「なるほどのう」
「ところで、転移者はどの辺りに着く予定なのか聞いていたりする?歪みの位置を見て適当に転移したから、全然その辺の見当はついていないのよね……」
「ああそれなら……エリス曰く『新しい方の魔王』らしいからの、多分この歪みはテイルとか言う場所のやつで、今は関係ない方の歪みじゃな。こっちの方が古いし、一番古い魔王はこの我じゃ」
「……酷いブラックジョークね」
「我が言っておいて何じゃが、虚しい気分になったのじゃ」
イナリはため息をついた。
仕切り直して、アースに亜空間を開けてもらい、もう片方の歪み改め、新たな魔王の近くへと移動する。それの場所自体は天界から見下ろして捕捉できるので、特に難は無い。
難があるとすれば、それは――。
「あっっっっっっづいのじゃ」
「ええ。これは、中々堪えるわね……」
歪みの近くが、尋常でない熱さだということだ。
アースが持ちこんだ温度計なる道具は、四十五度近くを示していた。その数字が如何ほどかイナリは知らないが、目盛りの上限いっぱいまで赤い線が上がっている時点で、何か尋常でない状態なのは理解できる。
こちらも例によって、空には橙と青が混ざり合ったような歪みが生じている。色の比率は四対一程度で、夜のはずなのにそれなりに明るく地上を照らし、無駄に幻想的な印象を与えているのが腹立たしい。
そして何より、周辺の植物は完全に枯れ果てているし、地面は乾燥しきっていて、きっと水が流れていたであろう場所は干上がっている。先ほどの歪みと同様、この辺の生物はきっと無事では済まないだろう。
「ちょっとズルではあるけれど、氷を生成するわね。もしアルトに文句を言われたら、あいつもここに連れてきてやりましょ」
アースはそう言いながら、イナリの身長の半分程度の大きさの立方体型の氷を生成した。二人はそれにぴたりとくっつき、熱さと冷たさの調和を楽しむ。勿論だが、何も楽しくない。
「アースよ、このまま転移者を待つとは、正気の沙汰でないと思うのじゃ。我、このままだと溶けてしまうかもしれぬ……」
「確かにこれは厳しいわね。あの信者は討伐の目途が立っているとか言っていたけど、普通の人間ならここに居るのも苦しいと思うわ。一体どうするつもりなのかしら……」
「それを言ったら、先ほどの歪みも大概じゃがな」
イナリは背中を冷やすため、氷に背をつけて空を見上げる。
「……む?見よアース。歪みの色が変わっておらぬか?」
先ほどまで橙色の比率が勝っていた歪みは、少しずつその色合いを変化させ、橙色と入れ替わるように青色の割合が増えていく。
「あら、本当ね。それに何か、寒くなってきているような?」
アースがそう言っているうちに一気に気温が下がり、二人が白い息を吐くようになる。この間、僅か十数秒の出来事である。
「……嫌な予感がするわ。イナリ、氷から離れなさい」
「わかったのじゃ……む?」
アースの声に従い、イナリは氷から離れようと試みる。しかし、何故か背中が氷にくっついて離れない。
「んっ、んぐぐ……ま、拙いのじゃ。我と氷が、くっついて離れぬ」
行動が遅かったらしく、イナリの着物は氷に凍着してしまった。そうこうしているうちにも容赦なく辺りの気温は下がり続け、辺りに霜がつき、パキパキと音を発し始める。
それに伴い、イナリの背中もどんどん冷えていく。
「ぬあぁぁ、冷たいのじゃ!!づべたいのじゃあ!!!」
イナリの悲鳴は、アースが氷を砕いて救出するまで続いた。




