217 神との通信は慎重に
「イナリお前、馬車降りろ」
「えっ」
エリスの指示に従い、御者台に座って待っていたイナリの隣から荷台を覗き込み、治療の現場を目にしたディルの第一声である。
何も悪いことをしていないのに突然浴びせられた暴言に、イナリはあっけにとられた。そして、時間差で言葉を理解し、やや取り乱しながら反論する。
「な、何故じゃ。確かに、我はお主らほどの活躍はしておらぬが、ここで捨てていく程の事はしておらんじゃろ!?……それとも、実は内心、我に対して憎悪を募らせておったのか……?」
「そうじゃない。……手短に言うぞ。俺はハイドラさんを追う。エリスに、治療を終わり次第簡易結界を貼らせて、お前は不可視術を発動して外で待機しろ。わかったな?」
「え?あ、ああ、うむ……」
「頼んだぞ!」
「いや、待っ……行ってしまったのじゃ。……仕方ない、あやつに従ってやるとするかの」
殆ど音も無く姿を消したディルは去り、後にはイナリだけが残された。ひとまず、彼の言葉には一定の妥当性があるだろうと判断し、素直に従っておくことにした。
イナリはディルからの指示を遂行し、しばらく馬車の外で待機していた。最初はどうにか簡易結界を突破できないか方法を模索したが、それが無駄とわかると、その辺の茂みに三角座りして空を眺めた。
「……ああ、そうじゃ。今のうちに、聞くべきことを聞いておくとするかの」
やや不本意ではあるが、貴重な一人の時間だ。イナリは自身の指輪に手を触れ、アルトに連絡することにした。
……今更だが、不可視術を使えば、何時でも何処でもアルトと連絡を取り放題だということに気がついた。別に毎日連絡するようなつもりは毛頭ないけれども、どうしてこんな簡単なことに気がつかなったのだろうか?
閑話休題。アルトと通信が繋がると、いつもと同じような調子のアルトの声が響く。
「狐神様、今回はどのようなご用件で――」
「ああ、ええとの……お主、獣人に何かしたかや?」
「獣人、ですか?現在も歪みの対処で手いっぱいなので、獣人に対する干渉は特にしておりませんよ。……何か問題が?」
「うむ。何だか、アルト神がどうとか言っておかしな行動を取っておるのじゃが?」
「そうなのですか?……うーん、特に心当たりは無いですがね」
「ふーむ、そうか……」
「……今、少し確認しましたが、種族単位での異常も検知されませんでした。多分、狐神様が見た獣人の頭がたまたまおかしくなってるだけですね」
「なるほど、理解したのじゃ。また連絡するのじゃ」
「ええ、また何時でもご連絡ください」
「うむ」
簡潔なアルトとの通信を終えて、イナリは考える。中々酷い言われようだが、それはともかく、アルトはこの件に何も関係無いことが分かった。となると、次に疑うべきは……何処だろうか。
教会か、それとも「イオリ」なる獣人の主導者か、はたまた、全く知らない第三者かもしれない。ともあれ、これは今考えたところで、どう転んでも絵空事の域を出ないだろう。
イナリは思考を放棄し、再び夕暮れの空を見上げた。
時間にして三十分経たないくらいだろうか。馬車で追い抜いた獣人の一部がイナリ達の横を通り過ぎていったところで、ディルが帰還し、荷台にいるエリス達に話しかける。
「今戻った。ハイドラさんはこの先のニエ村に向かっていたみたいだ。村には獣人がわらわらいたし、あそこに集まっているとみて良さそうだな。で、エリックの様子はどうだ?」
「回復魔法を二度掛けした上でポーションも渡したので、活動に支障は無いと思います。一応、今は安静にしていただいていますけれども」
「うん、おかげさまでね」
エリックは手をひらひらと振って無事をアピールした。
「それはよかった。それで……一応確認だが、どうするんだ?」
「まあ、ニエ村に立ち寄る以外の選択肢はないかな。中々全体像がつかめないし、これから何が起こるかわからない。気を引き締めて行こう」
「おう。……にしても、お前が倒れる程の負傷をするなんて何時ぶりだ?」
「どうだろう。……言い訳だと思われるかもしれないけどさ、誇張抜きでハイドラさんの蹴り、とんでもなかったよ」
エリックは、治療のために一旦脱がされた胴当てを持ち上げて見せる。その腹部は目に見えて凹んでおり、相当な衝撃があったのだと察するには十分であった。
「うわっ、マジかよ。噂には聞いてたが、ウサギの獣人の脚力ってこんななのか……」
「穴が空いててもおかしくないですよ、これ……」
「本当に危なかった。……とりあえず、これ以上留まっていても仕方ないし、移動しようか」
「そうだな。暗くなってきているし、あまりゆっくりしてられる様子でもなさそうだ」
エリックの言葉に頷いたディルは、再び森の方へと足を運んだ。
「では、簡易結界は解除して、イナリさんを回収しますね」
「……やべ、忘れてたわ」
「おい、不敬じゃぞ、貴様……」
不可視術の影響もあったのかもしれないが、何にせよ指示を出して馬車から下したイナリを忘れるなど言語道断である。イナリは低い声と共にディルを睨みつけた。
「わ、悪かったって……。今度美味いもんやるから許してくれ。な?」
「……ふむ。ならば……いや、待つのじゃ。我、前回そう言われた分を受け取って無いのじゃが、それについては……あっ、逃げたのじゃ!ぐぬぬ……」
「まあまあ、私は忘れることなんてしませんから、あんな非情な脳筋男は忘れて、落ち着きましょう、ね?」
「ううむ……」
背後から優しく抱え上げられたイナリは、脱力しながら唸った。
その後、エリックが御者台に戻るや否や、馬車が再び動き出した。
イナリもまた、荷台でエリスの腕の中に戻った。しかし、ハイドラの一件の影響であまり落ち着いた時間とは言い難く、荷台にある魔道具の山が物悲しさを演出している。
二人が静かに馬車に揺られていると、エリスが思い出したように口を開く。
「そういえばイナリさん。先ほど、外で誰かと話していましたか?」
「えっ」
「……あれ、勘違いですかね?何か、イナリさんの声とは違う、少年のような声がしたと思うのですが?」
「あー、それは勘違いじゃな。うむ、勘違いじゃ。多分お主、御者をして疲れておるじゃろ?我が自慢の尻尾で癒されるが良いのじゃ、うむ。我が直々に労ってやるのじゃ、ありがたく思うのじゃよ」
「ど、どうしたんですか急に。何か、挙動がおかしくなってませんか?」
「ほれ、横になるのじゃ。我の膝を貸そう!今なら特別に尻尾付きじゃぞ!」
「えっ、ちょ、ちょっと?……あ、ふわふわ……」
「ふふ、そうであろ。頑張ったお主への褒美じゃ」
イナリは、半ばやけくそ気味に適当に理由をでっちあげてエリスの頭を膝の上に乗せて寝かせ、実に都合の悪い話を強引に捻じ曲げることに成功した。一連の流れについては、正直イナリ本人ですら強引すぎると思わざるを得ないものだが、背に腹は代えられないのだ。
よくよく考えれば、彼女はイナリの不可視術が効かないし、仮にイナリの声が聞こえないとして、アルトの声も同様とは限らないということをイナリは失念していた。先ほどは良い考えだと思ったが、不可視術を使ってのアルトとの通信も完璧とは言い難いようだ。
それにしても、尻尾を差し出しておけば簡単に誤魔化せるこの神官は大丈夫なのだろうか?イナリの大切な信者である彼女は、あまりにもチョロすぎではないだろうか。
「ううむ……」
イナリは、膝の上で幸せそうな表情をする神官の頭に手を置いて唸った。
そして、日が完全に沈む頃、一行はニエ村に到着する。




