216 脱兎
「な、何じゃ?」
イナリが振り返って覗き込むと、先ほど眠ったはずのハイドラが立ち上がり、イナリのいる方へと向かって歩いてきていた。その目は完全に虚ろになっており、何かぶつぶつと呟いている。
先ほど声を上げたエリスは、ハイドラにしがみついてどうにか彼女の動きを止めようと、後方から引っ張っていた。しかし、獣人に特有の力強さのせいで、エリスはずるずると床に引き摺られている。
「え、エリックよ。ハイドラが変な事をしておるのじゃ!」
「一旦馬車を止めるよ。ディル、非常事態だ!しばらく周辺の警戒を!」
エリックがこの場に居ないディルに向けて声をかける。イナリには見えていないだけで、きっとどこかに居るのだろう。
「た、助けてください、私だけじゃ抑えきれません!」
「我も力を貸すのじゃ!」
馬車が止まるのを待っていてはいけないと判断したイナリも、ハイドラの方へと駆け寄り、前方から抱きついて移動を阻止しようと試みる。
「んぐぐ……ぐえっ」
情けない声と共に、体重が軽く力も無いイナリはあっさりと引き剥がされ、そのまま床に落下した。
「皆、大丈夫!?」
「そ、そろそろ私も、限界です……!」
「エリックよ、ハイドラが止まらんのじゃ!」
「わかった、任せて!」
馬車を停止させたエリックが、ハイドラを前方から担ぎ上げて歩けないようにすることで、あっさりと事態に一旦の終止符が打たれた。それでもなお、ハイドラはゆっくりと手足を動かし、どこかへ向かおうとするのを止めない。
「ふう。思いの外、力が強くて驚いたのじゃ。体格は我と大差ないのにのう……」
「ええ、流石獣人と言うべきでしょうか……。それにしても、一体どうしたのでしょう?」
「……先ほどから何かつぶやいておるよの。何と言っておるのかの……?」
「確か、起き上がった時の第一声は『行かないと』だったように思いますが」
「ふむ?」
イナリはハイドラの顔の方へ近寄り、耳を澄ませて彼女の呟きを聞き取ることにした。
「……『皆のところに』『どこ?』……『救われる』『どうやって?』……『アルト神のもとに』『一つになる』?ううむ、他にも何やら言うておるが、意味の通らぬ言葉ばかりじゃ。そも、言葉のつながりが滅茶苦茶じゃが」
「アルト神、ですか」
「お主、何か知らんのかや?」
「いえ、全くですね……」
イナリの問いに、エリスは首を振る。
「ひとまず、ハイドラさんの性格を考えると、この行動は明らかにおかしい。洗脳や呪い辺りを疑うべきか」
「呪いならば教会まで行かないといけませんが……呪いに他人の意識に干渉したり、操るようなものは無かったはずです。どちらかと言うと洗脳を疑うべきかもしれませんが……それも変ですね。あまりにも急すぎますし、一日二日で出来る様なものではありません」
「何にせよ、一旦ハイドラを縛り上げた方が良いのでは?エリックの肩の上でずっと動いておるのが気になるのじゃ」
「うーん、言いたいことは分かるんだけど、縄を引きちぎられる可能性を考えるとね……」
「ああ、なるほどの……。しかし、ずっと抱えているわけにも行かぬじゃろ。どうするのじゃ」
イナリの問いに、エリックは唸った。
恐らく、ハイドラを十分に拘束できるのは男性陣だけである。そして、現在御者を出来るのも、周囲の魔物を排除できる戦闘職も同様である。
そして、御者を欠くことはできないとなると、イナリ達は魔物に対して無力になるか、ハイドラを放出するかの二択に迫られることになるのだ。
あるいは、イナリだけ不可視術を展開して馬車を降りて、エリスに魔物除けの結界を展開させるという手もあるだろう。しかし、森の中で逸れたら再会は難しいだろうし、かといってイナリの進行速度に合わせて進んでいては日が暮れてしまうだろう。
というか、神を歩かせるなんて事が許されるだろうか?いや、許されない。主にイナリのプライドが許さない。提案するまでも無く、この案も無しである。
イナリがそんなことを考えていると、やや震えた声と共に、エリスが手を上げる。
「……エリックさん、ハイドラさんをお願いします。私が御者をしましょう」
「それは助かるけれど……大丈夫なの?」
「ええ、まあ……多少遅くはなるでしょうが、停滞するよりは良いでしょう?それに、嫌だ何だと言っていられるような状態でもありませんからね」
「じゃあお願いするよ、ありがとう。問題があればすぐに別の方法を考えるから、無理はしないように」
「ええ、わかりました。危ないので、イナリさんは荷台で待っていてくださいね」
「うむ。気を付けるのじゃぞ」
「ご心配ありがとうございます。頑張りますよ」
エリスはイナリの頭を撫でながら御者台の方へと歩いて行った。
「ううむ、心配じゃなあ」
「今まではリズも居たから、もうちょっと機転が利いたかもしれないんだけどね……。あるいは、僕がもう少し気を遣えたら、こんなことには……」
「それは結果論というものじゃ。ひとまず、お主がすべきは、このパーティの長として最善手を決めることじゃろ」
「はは、これは手厳しい……でもその通りだね」
「ふふん、そうであろ?」
ハイドラを担ぎ上げているエリックが苦笑する様子を見て、イナリは満足げに頷いた。
「それじゃあまずは……ハイドラさんには悪いけど、一応縄で手足を縛っておこう。千切られるかもしれないけれど、無いよりはマシだろうからね。イナリちゃん、箱から縄を取ってもらえるかな」
「わかったのじゃ。……ええと、さっき見たのじゃ。確かこの辺に……」
イナリが縄を探しているうちに、馬車がゆっくりと動き始める。御者台からはエリスの震えた声が聞こえる。
「ふう……落ち着いて、私は大丈夫。基本を忠実に、基本を忠実に、基本を忠実に……」
「……のう、あれは本当に大丈夫なのかの?」
「……一応、代替策は考えておこうか」
イナリの言葉に、エリックは静かに返した。
あの後、ディルとの情報共有も済ませつつ、一旦は対処できたと思われたハイドラであったが、事態はそう容易くなかった。変化が起こったのは、夕方に差し掛かってからの事である。
最初は担がれていても、何かぼそぼそと呟きながら手足を揺らすだけであったハイドラだが、次第にその動きの力強さが増し、手足を拘束していた縄は解け、遂にはエリックが本気で取り押さえないといけない域へとなりつつあった。
「これは、ちょっとマズいねっ。ディルを、呼ん――ぐあっ!?」
「え、エリック!?」
隙をついたハイドラがエリックの腹部を蹴り飛ばし、彼は荷台の軋む音と共にイナリの隣に吹き飛んでくる。そしてハイドラはゆらりと立ち上がり、光を失った目でイナリを見る。
「は、はわわ……け、蹴らないで欲しいのじゃ……」
「……行かないと」
ハイドラは、腰を抜かして後ずさるイナリは放置して御者台の方へと移動し、驚いた声を上げたエリスを飛び越えて去っていった。
まもなく馬車が停止し、エリスが荷台の方へと確認にくる。
「は、ハイドラさんが跳んで行ってしまいました。それにすごい音がしましたが、大丈夫で……エリックさん!?今治療します、そのまま動かないで!」
エリスは強い口調と共にエリックのそばに駆け寄り、回復魔法を発動させた。イナリはそっと立ち上がり、エリスの隣に立つ。
「え、エリスよ。エリックは大丈夫なのかや?ものすごい音がしたのじゃ……」
「だ、大丈夫。ちょっと油断しすぎたね……」
「エリックさん、まだ喋らないでください。ひとまずの応急処置はしましたが、もしかしたら骨折しているかもしれないので、もう一度回復魔法を掛けます。もしディルさんが来たら対応をお願いします」
「わ、わかったのじゃ」
イナリは、対応とは具体的に何だ、と言いたい気持ちを抑え、エリスの言葉に頷いた。
ここまでは平和な旅だったはずなのに、一体どうしてこんなことになっているのだろうか。イナリはそんなことを考えながら、エリスが治療する様子を息をのんで見守った。




