214 ニエ村へ向かう
トゥエンツで一日の休みを堪能したイナリ達は、夕食時にエリック達と相談した結果、朝方に街を発つことにした。
そして翌日。朝食を食べたイナリは、身支度を整えるハイドラとエリスの姿を眺めながら、ベッドに腰掛けてお腹をさすっていた。
「ふう。昨晩の食事も美味であったし、朝食も美味であった。風呂もこちらに来てからは初めてじゃし、部屋も実に趣ある。良き宿であった」
「ええ。しかも、ご厚意で朝食をわざわざ少し早めに用意して頂けたのです。感謝しましょうね」
「うむ」
「獣人だって知ってなお優しくしてくれたし、お客さんも含めて、ここの人はいい人たちだったなあ」
ハイドラがしみじみと呟く。確かに、石を投げられたとか、取引を断られたといった経験を持つ彼女からすれば、そう思うのも無理はないだろう。
「……よし、私は準備おっけーです!」
ハイドラが声を上げると、エリスもほぼ同時に鞄のふたをぱたりと閉じ、おもむろに立ち上がる。
「私も大丈夫です。お二人とも、忘れ物はありませんか?」
「私は……はい、大半のものは昨日馬車の方に詰めたし、大丈夫です!」
「我も右に同じじゃ」
今回旅に出るにあたってイナリは、着物、神器、ブラストブルーベリーとそれにつける金具一式、硬貨入れ、そして茶の木の一部と、持ち物のほぼ全てを持ってきている。その大半はイナリに付属するものなのだから、忘れるも何も無いだろう。
「あれ?イナリさん、後ろの棚の上に剣を置きっぱなしですよ」
「……これは一時的に置いておいただけじゃ。決して勘違いするでないぞ」
「はいはい、そうですね。……それを忘れるのは洒落にならないので、気をつけてくださいね」
「うむ」
イナリは返事を返しつつ、いそいそと神器を懐にしまった。一応ハイドラはイナリが神であることは知っているわけだが、神器に関しては伏せて、護身用の短剣ということにしている。
これはハイドラを信用していないという話ではなく、単に伝える必要が無いからである。
そもそも、イナリが神であることも魔王とされていることも、本人が自白しなければ、今も伏せられていたままであっただろう。
「それでは、行きましょうか」
イナリ達は今一度部屋を見回した後、エリック達と合流し、宿を後にした。
イナリを乗せた馬車は、街道をゆっくりと進む。
「ふう、流石に朝は冷えますね……」
「うむ。……じゃが、毛布と我の尻尾に包まって暖を取るのは、些か過剰に思うのじゃ」
「いやいや、寒い時こそ、イナリさんの温もりが一層映えるというものです。こういうチャンスは積極的に活かしていかないと……」
「何言ってるんじゃこやつ」
「どうしてうちの神官は、イナリが絡むと知能指数が著しく下がるんだろうな……」
「何を言っているんですか。神が絡んだら目の色が変わるのが神官というものです」
「何言ってるんだこいつ……」
この場にいる三人は、それぞれがお互いの言っていることを理解できなかった。
さて、尻尾に夢中の神官はさておいて、街の景色を見返していたイナリは、ふと思った疑問を呟く。
「そういえば、お主は御者をやらんのかや?」
「はい?」
「もとより、主な御者はハイドラが担うことにはなっておったが、エリックやディルも多少は馬を操っておるじゃろ。お主はせんのか?」
「ええ、まあ……はい。ちょっと、私は遠慮させていただいていますね」
「あれだよな。確か昔、振り落とされたんだったか?」
「なんと。それは気の毒じゃな」
「あの、ディルさん。乙女の秘密を易々とばらさないでください」
「いや、別にそんな大層な話でも無いだろ……」
「……まあ、ディルさんの言う通りです。ちょっとその時の記憶がトラウマになっていまして」
「怪我などは無かったのかや?馬から落ちて大怪我をした人間を見たことがあるのじゃ」
「ええ、奇跡的に無事でした。それに、それが私の回復術の素質が判明する契機でもありましたから。ご心配ありがとうございます」
「うむ」
エリスはそっとイナリと手を重ねた。
「そういや、街を出たら耳と尻尾は完全に隠しておけよ。ペアルックだか何だか知らんが、この街に来るときに二人が着ていたあれだけでは対策としては不十分だ」
「確かに、我の身体的特徴を隠した方が良さそうじゃよな」
ディルの言葉にイナリは頷いた。
街では身分証や身体検査で種族が判明するし、村でも、教会にいた少女の神官の反応からすると、装飾だろうが実物だろうが、そもそも獣耳がある事自体に問題があると見た方が良さそうだ。
「そ、そんな……。折角予算を割いたのに……」
「バレてもそこまで問題ないなら良いんだが。どうも、冒険者のテイル出身じゃない獣人が、テイルの獣人に絡まれた事案もあったらしくてな、種族が同じなら平気ってわけでもないらしい。何なら、エリスの方にも危害が及びかねん」
「それはいかんな。我よりエリスの方が脆いし、お主が倒れてしまったら、我は困るのじゃ」
「……そう言われると弱いですねえ……」
「ま、そういうこった。ハイドラさんの方にはもう言ってあるが、道中は極力人間として振舞うようにしてくれ」
「ふむ、人間として振舞う、とな……」
ディルの言葉を聞いたイナリは、一声返事を返すとそのまま硬直し、思考の海へ沈む。
「……ううむ、人間とは?人間らしさとは?」
「い、イナリさん?……ああ、ディルさんのせいで、イナリさんが迷宮へ誘われてしまいました。どう責任を取ってくれるんですか?」
「何でそうなるんだ。落ち着けイナリ、そんな深い話、誰もしていないぞ」
「イナリさん、戻ってきてください。おーい?」
イナリの目の前で手を振るエリスをよそに、そのまま思考を巡らせる。
「人間とは、欲に従い、自己中で、追い詰められれば平気で他者を害し、都合の良い時だけ神に頼り、不要となれば平気で見捨てる……恩知らずの……」
「な、なあ。本格的にヤバそうじゃないか?目が濁り始めてるぞ」
「こ、これはマズそうですね。イナリさん、戻ってきてください!」
エリスはイナリの腰を強く抱き締めた。
「……はっ、我は今、何を……?」
そして、腹部が締め付けられる感覚によってイナリは現実へ引き戻された。何だか、脳がぽわぽわとしていた気がする。
「イナリさん、大丈夫ですか?」
「う、うむ?ううむ、うむ」
「……何だか、全然大丈夫そうじゃないですけど……」
二音しか使わずに返事を返すイナリに、エリスは苦笑しながら頭と尻尾を撫でた。
「何だかわけわからん事を口走っていたが、とりあえず、難しいことは考える必要は無い。普通にしておけってこった」
「うむ、把握したのじゃ」
「……イナリさん、本当に大丈夫ですか?」
「うむ。ちと気分が変になったが……問題は無いはずじゃ」
「そうですか。何かあったらすぐに相談してくださいね。先ほどのように思考の渦に囚われたら、私の顔を思い出してくれてもいいですよ」
「お前それ、自分で言ってて恥ずかしくならないのか……?」
「何言ってるんですか、当然平気ですよ。……嘘です。ちょっと恥ずかしいです」
「では、万が一の時はエリスを思い出すとさせてもらおうかの。くふふ」
イナリはエリスに頭を擦られながら、くつくつと笑った。
「皆、主要路を外れるから注意するように!」
御者台の方からエリックの声がかかる。ディルとエリスがそれに返事を返すのをよそに、イナリは純粋な疑問を口にする。
「のう、主要路だ何だと言うが、それを外れると何が起こるのじゃ」
「ええとですね。まず、示し合わずに他の馬車と列を成すことが難しくなり、基本的に自分たちだけでの移動を余儀なくされます。その他にも、ええと……」
「エリス。多分だが、説明するより体感させた方が早いと思うぞ」
「……そうかもしれませんねえ」
「む?それはどういう――あだっ!?」
イナリが質問をしようとした瞬間、馬車が振動してイナリの体が跳ね上がる。
すぐにエリスに受け止めてもらったが、馬車の振動が今までの倍近くになっていて、皆の声も時折振動に合わせて震えてしまっている。こんな状態で床に座っていたら、腰を痛めてしまいそうだ。
「……こういう感じで、全然整備されていない道もザラなんだ。それに、補給地点なんて親切なものも無い」
「私の膝の上なら多少は軽減されますので、それで我慢してください」
「ううむ、助かるのじゃ……」
イナリはふらふらと揺れながらエリスの方に身を寄せた。二人は平然としている辺り、慣れっこなのだろう。そう思ったところで、ディルが声を上げる。
「……だが、にしても揺れが酷いな。車輪が外れたり嵌ったりしないといいんだが」
「恐らく、普段から碌に使われていないのでしょうね」
当初の予定と変わらず、イナリ達は現在、中々香ばしい噂のある村へと繋がる道を走っているのだ。だとすれば、エリスの推測も頷けるものである。
「ああそれに、もう一つ主要路を外れると起こりうる問題があったな」
「まだ何かあるのかや?」
「ああ」
イナリの問いにディルが短く返事を返すと、後方に向けて弓を構え、一秒もしないうちに矢を放った。放たれた矢は、いつの間にか馬車の後方についていたイノシシのような魔物の額を貫いた。
「あんな風に、堂々と魔物が襲ってくる。イナリ、間違えても勝手に降りたりするなよ」
「い、言われずとも、勝手に降りたりなどせんのじゃ……」
それは果たして、馬車の振動のせいか、それとも恐怖のせいだろうか。イナリは震えた声で返した。




