164 抑えきれぬ衝動
イナリ達がハイドラを見送ったあと、しばし静かな夕方のひと時を過ごしていると、家の戸がガチャリと開く音が響き、間もなくエリックとディルがリビングへ顔を見せる。彼らの手には、ポーションや食材が顔を覗かせている紙袋や、冒険者ギルドの掲示板に張り出されていた依頼書が見受けられる。
「お主ら、おかえりじゃ」
「うん、ただいま。エリス、予定通り、明日受けられそうな依頼を見つけてきたよ」
エリックが開口一番にエリスに依頼書を手渡すので、イナリもエリスの隣から依頼書を覗き込む。
「ゴブリン退治ですか。緊急というわけでもなさそうですし、他の冒険者の方に回すべきでは……ああ、目的地が魔の森なのですね……」
「そういうことだ。普通のゴブリン退治でやっとのパーティに任せるには不安なレベルみたいだな。それに、俺たちのパーティからリズが欠けていることも考慮されているらしい」
「要するに、試運転も兼ねているってことだね」
「なるほど、意図は理解しました」
「そういえば我、ここに戻ってくる途中で、そのごぶりんとやらで溢れていた村を見かけたのじゃ。あそこに行くのか……?」
「どうだろう?その場所がわからない以上何とも言えないけど、そこが対応されてたら、別の場所になっている可能性もあるね」
「そこまで言うのなら、根絶やしにすればよいのではないのかや?」
「それは難しいね。どういうわけか、一定の地域のゴブリンを全滅させても、またどこかから湧いてくるんだ。だから、冗談抜きで、この世界に存在するすべてのゴブリンを同時に殺すくらいしないといけないと思う」
「ふむ。それは無理じゃな」
「まあ、慣れればそう難しい魔物では無いがな。ただ、覚えないといけないことや注意しないといけないことが多いから、足を掬われる駆け出し冒険者が後を絶たないってだけだ」
「いや、十分深刻に聞こえるが……」
「被害者を憐れむ声も一定数あるが、対策も用心も冒険者の基本だし、ギルドだってしょっちゅう警鐘は鳴らしてる。俺からしたら自業自得ってもんだ」
「……イナリさん、ディルさんの思考は一般的では無いですから、あまり影響を受けてはダメですよ。アレは教育に悪いです」
「うむ、わかっておる」
「ひでえ言われようだ」
女子二人からボコボコに言われたディルは項垂れた。
「ところで、依頼を受けた意図を聞いた限りだと、私達三人で行動する感じですよね?その間、イナリさんはどうするのですか?一人での留守番は心配ですし、ギルドに預けますか?」
エリスの問いかけにエリックが返事を返そうとしたところで、イナリは手を上げてそれを遮り、口を開く。
「イナリちゃん、どうしたの?」
「相談なのじゃが……我もついていっても良いかや?」
「うん?……とりあえず理由を聞いてもいいかな」
「ゴブリンは我と因縁のある相手じゃし、元はと言えば、魔境化した根本的な原因はあやつらが我を追い立てたからじゃ。それに、我が今まで何者かに襲われた際できたことと言えば、逃げる、一帯に植物を生やす、捕まるの三つじゃ。これでは我の沽券に関わるというもの。復讐の一つや二つ、させてもらっても良かろう?」
「……うーん……」
イナリの言葉に、エリックは唸りながら考える。
「他の二人は……いや、エリスは聞くまでも無いか。ディルはどう思う?」
「俺はアリだと思うぞ」
ディルは頷いてから、理由を述べていく。
「流石にイナリをリズの代わりにすることは出来ないし、今後も積極的に依頼に連れ回すようなことは出来ないが、少なくとも、ある程度魔物に対処できるようになっておいた方が良いだろう。前回の囮作戦とは違って、俺たちがすぐそばに居られるし、危険だと判断したらイナリを抱えて引き返すなりすればいい。もしそうなっても、依頼の期限に余裕もあるから問題ない」
「ディルさん、し、しかし……」
「エリス、過保護になるのもいいが、か弱い子には旅をさせろって言うだろ?俺たちが普段相手してる魔物よか楽だし、いい機会じゃないか」
「……かわいい子には、ですかね。まあ、イナリさんはか弱くてかわいいですけどね?」
隙を見てはイナリを愛でるエリスを後目に、ディルはエリックの反応を待つ。
「……ここはディルの意見を採用しようかな。ただ、いくらイナリちゃんが無敵に近いと言っても、危険は危険だから、絶対に指示は聞くこと」
「うむ、そうこなくてはの!……ところで、この場合、我は討伐依頼に参加したことになるのかや?」
「うん。一人で討伐依頼を受けるなら等級3以上ってだけで、他に等級が高い仲間が居れば問題なく参加できるからね。ただ、査定は相当差し引かれるし、今回の場合、危険だと判断したらイナリちゃんは即帰宅だけど」
「ううむ……」
「当然ですね」
やや不服ではあるが、反論も思いつかないイナリは渋々決定を受け入れた。その様子を見て、エリスは満足げに頷いた。
その日の夜。
イナリは、日課と化したエリスによる尻尾や髪、耳の手入れを終え、エリスに抱きしめられてベッドに横になっていた。リズが居ない分、エリスの寝息がより一層よく聞こえる。
そしてイナリは、今日じわじわと己に湧き出した、とある欲求に悩まされていた。眠気に身を委ねればそれはすぐに立ち消えるだろうと思っていたが、生憎、既にその欲求はイナリの睡眠を害する領域に到達している。
「……こやつは……寝ておるか?」
イナリはエリスの頬をぷにぷにとつついてみる。
「うふふ、イナリさん、そんな事しちゃダメですよ……全く仕方ないですねえ……」
「こやつ、一体どのような夢を見ておるのじゃ。……まあ良い。やるしかないのじゃ」
エリスの夢の内容が気にならないこともないが、今のイナリにはそれ以上に大事なことがある。
イナリは意を決して、そっとエリスの腕を自分から剥して起き上がる。エリスは朝になるにつれてイナリの締め付けが強くなっていくので、夜のうちは簡単に引き剥がせるのだ。
エリスの腕から脱出したら、自分が抜けだした空間に毛布を置いて、エリスの腕を戻すことも忘れない。
そうしてエリスの腕から脱出したイナリは、静かに、そして慎重にベッドから立ち上がり、自分の所持品箱から指輪を拾いあげ、床に転がる魔石に気を遣いつつ、静かに部屋を出てリビングへ移動する。リズがいない分、気にするべき対象が少ないのは助かることだ。
リビングに移動したイナリは、月明かりがよく入る窓側に近寄り、指輪の通信機能を起動した。
「……狐神様、お久しぶりです!本日はどのようなご用件で――」
「稲荷寿司じゃ」
「――はい?」
「我は、今すぐ、稲荷寿司が、食べたい」
「……ええっと?」
久々に連絡を寄越したと思えば稲荷寿司を所望する狐神にアルトは困惑の声を上げた。そこには、「そんなことで呼んだのか?」という感情が多分に含まれている。
「アルトよ、人間の食事は好きか?」
「ええ。特に地球の日本の食事は良いですね。頻繁に地球に赴いて、食事だけ食べたりするほどですし。人間の数少ない良い発明と言えるでしょう」
「そうじゃよな。我も好きじゃし、その意見に同意じゃ。……そんな食事が、この世界に来てから食べられないというのは、残酷な話だとは思わぬか?」
「いえ、しかし、こちらの世界の人間に再現して作らせたものがいくつかありますよ?」
「いや、違うのじゃ。世界が違えば、素材が違う。素材が違えば、味も違う。期待したものと違うものが出てきたことによる失望感、わかるかや?……そうじゃな、例えるなら、甘味と思って食べた供物の菓子が激辛だった時……」
「……確かに。わ、私は、狐神様に、何て残酷な仕打ちを……」
「わかれば良いのじゃ。さ、疾く稲荷寿司を渡すのじゃ」
「はい。ええっと、時空ゲートを空けて、と……一番近いのはコンビニか……ちょっと買ってきます!あ、稲荷寿司以外に何か欲しいですか?」
「お主の好きなものを、我も食べたいのじゃ。食べ物は人間が持ちこんだ物に依存しておったから、何があるのかもわからんのでな」
「わかりました!とっておきのを探しますね!」
その言葉を最後に、通信が有効なまま、アルトの声が途絶えた。
「ふう。これで、漸く……」
イナリはこの世界の月を見上げ、やりきった表情で呟いた。
何だか壮大な雰囲気を醸しているが、夜中に保護者の目を盗んで食事をするために、この世界の創造神をパシリにしただけである。
 




