162 思考の泥沼
「イナリさん、お腹が空きませんか?そろそろご飯を食べましょうか」
「うむ。……あっ」
イナリはエリスに返事を返した後、オリュザ料理専門店の事を思い出して声を上げる。イナリが預けたオリュザはどうなっているだろうか?それなりの期間が経過したし、そろそろ食べられる状態になっているはずだ。
「どうかしましたか?」
「うむ。以前、聖女のもとへ赴いた日、道中で米……あいや、オリュザの店に行って、我が栽培したものを持ちこんだのじゃ。その時は食べられる状態では無いと言われてしまったが、そろそろ食べられるやもしれぬと思い立ったのじゃ。エリスよ、共に行かぬか?」
「ええ、是非とも!外出の準備をしましょうか」
「うむ」
「じゃあ、イナリさんも着替えましょうね」
「……うむ?」
イナリはエリスに手を引かれて、寝室まで連行された。
準備が済むと、イナリとエリスは手を繋いで店に向かう。
「……この服、ちょっとゴワゴワするのじゃ」
「そういう材質ですからね。ですが肌を傷つけたりはしないので、ご安心ください」
今回イナリが着替えることになったのは、この街では一番よく見る標準的な、ザ・村娘スタイルの服である。エリス曰く、外で襲われないようにするために地味な服を選んだとのことだが……。
「うーん、イナリさん、何を着ても可愛い問題が……」
「ふふん。たかが衣装ごときで左右される程度の我では無いのじゃ。誰が見ようと、我の魅力、そして神聖さに気づけぬはずがあるまい」
「このままではいつかイナリさんに悪い虫がついてしまいます……どうにか、どうにかしないと……。ハッ、いっそ丸ごと隠せばよいのでは……!?」
「それはもはや我では無いし、そこまでしないといけないのなら、我は外に出ないのじゃ。あるいは不可視術でも使って、我一人で――」
「すみません言ってみただけですからそれだけは勘弁してください」
「わ、わかっておるのじゃ。冗談に冗談で返しただけじゃろ?」
あまりに食い気味に縋りついてくるエリスにイナリはたじろいだ。なにより、見た目はただの子供であるイナリに縋りつくエリスという絵面が、周辺の住民から奇妙な目で見られている。
「……こほん。ええ、失礼しました。私がイナリさんを守れば問題ない話ですものね」
「ま、まあ、そういうことじゃ。ほれ、疾く行くのじゃ……」
イナリはエリスを立ち上がらせ、手を引いてそそくさとその場から立ち去った。
そんな一幕もありつつ、イナリ達はオリュザ専門店に到着する。客も幾らか入っているようなので、イナリが以前店主と話した通り、営業を継続しているようだ。
「店主よ!我が来たのじゃ!」
イナリは店の入り口で意気揚々と手を上げて店主を呼ぶ。
「おお、嬢ちゃんか。それに前来てくれた神官さんも。奥が空いてるから、座ってくれ!」
「うむ」
イナリは狭い店内を、客の背後をすり抜けながら進み、定位置と化しつつある最奥の席に座った。
「店主よ、以前我が持ってきたオリュザの方はどうなっておるかの?」
「ああ、バッチリ準備は出来てる」
「それは良いのう。では、それで我らに何か作ってくれたもれ」
「はいよ」
イナリの注文を聞くと、店主は手際よく料理を作り始める。
「ところでイナリさん、以前ウィルディアさんにポーションをお渡ししましたよね?あれって確か、ハイドラさんという方と協力して販売しているのですよね?」
「うむ。その時に渡したものとは別の時に作ったものを託しておるのじゃ」
イナリが以前、囮作戦を開始する少し前に作ったポーションを、リズがこの街を発つ直前にハイドラに渡しておいてくれたのだ。
「なるほど。いくらくらいになるのでしょうね?」
「さあの。寧ろ、我がポーションの相場を聞きたいくらいじゃ」
「うーん、ポーションは効果が多岐に渡りますし、その質もピンキリですからね、銅貨数枚のものから大金貨レベルのものまでありますし、同じ効果量でも店主の裁量による価格の振れ幅があります。大半の冒険者は、基本的には高ければ高いほど質が良い、程度にしか考えていませんし、それで事足りることが殆どですけどね。とはいえ、一応の基準を設定するとすれば、私たちが普段利用しているポーション店は銀貨五枚からのものが多いですね」
「ふむ、果たしてどの程度あてにしてよいものかはわからぬが……何となくは理解したのじゃ。我のポーションがいくらになるか、楽しみじゃな」
「そうですね。ただ、もし安かったりしても、悲しむ必要はありません。イナリさんは私が養うのですからね。気楽にいきましょう」
「……ううむ……」
イナリは返事を濁した。正直、ここ一週間、ほぼほぼエリスに養われている暮らしは、イナリが困っていたらすぐに助けてくれるし、美味しい料理も作ってくれるし、十分なお小遣いもくれるしで、寝苦しさによる目覚めの悪さ以外は、悪くないどころか、とても快適なのだ。
だが、ここで頷くと自分がダメになってしまう。わずか一週間で既に、そこそこ堕落しているからこそ、そんな予感もひしひしと感じているのだ。
しかし、だったら自立しよう、というのも何だかしっくりこない。既に確立した存在である神が人間社会で自立するというのも、妙な話ではないか?
それに、よく考えれば、イナリが実態として認識されているかどうかという違いだけで、地球に居たころの、豊穣神としての力の対価としてイナリの社に供物が捧げられる関係と、今の、エリスの癒しとなる代わりに様々なものを貰う関係とでは、そこには規模以外にさしたる違いは無いのでは?
それならば、ここは素直にエリスの言葉に頷いた方が――。
「……イナリさん?大丈夫ですか?」
「……ん?ああいや、少々思考の海を漂っていただけじゃ」
エリスがイナリの顔を覗き込んでくることで、イナリは沼に嵌りそうな思考を放棄することに成功した。
「そうですか。なにかお悩みでしたら、いつでも相談に乗りますからね」
「うむ」
イナリはとりあえず頷いたが、少なくとも今の思考についてエリスに相談することは無いだろう。
「オリュザ定食二人分、お待ちどう」
イナリ達の前にオリュザ定食が置かれる。最初にイナリがこの店に来た時と同じものだが、惣菜の内容が少々変わっていた。
「おお、来たのじゃ。店主よ、礼としてお主にも少し、我が作ったオリュザを食べさせてやろうではないか」
「……店主として、客から食事を分けられるのはどうなんだろうな?」
「お主が言い出したならともかく、我が言い出したことじゃ。文句を言うやつが居たら我が黙らせてやるのじゃ。ほれ、食べてみよ」
イナリは匙でオリュザを掬い、椅子を立ってカウンター越しに店主に差し出す。
イナリの隣ではガタリと椅子が音を鳴らしているようだが、エリスがバランスを崩したのだろうか。
「……嬢ちゃん、その食べさせ方は神官さんにしてあげるといい。そのオリュザはこの小鉢に入れてくれ」
店主は呆れたような声で小鉢をイナリの前に出してくるので、彼の言葉に従い、オリュザをそこに入れる。
「さて、我も食べてみ……何じゃエリスよ」
イナリは隣からの視線にむっとする。
「いや、何でも無いです。ただ……イナリさんの無防備さに慄いているというか……」
「何じゃ、よくわからんのう。……む、美味じゃ!エリスも食べてみよ」
イナリが先ほど店主にしたのと同様にオリュザを掬ってエリスに差し出すと、エリスは迷わずそれを口にし、涙を流す。
「……今まで食べたものの中で、一番、美味しいです……」
「そ、そんなにかや。まあ、喜んでいるのなら悪い気はせぬが……」
確かにイナリが育てたオリュザは通常より美味だろうが、イナリの家で収穫した他の作物をパーティの皆と食べたときは、そこまでのリアクションは無かったはずだ。その時と今では一体何が違うのだろうか?
強いて言うならばイナリが匙にオリュザを掬って差し出した点であろうが、イナリは普段エリスが自分にしていたことを真似しただけだし、そこまで意味があるようにも思えない。
あるいは、神であるイナリが直々に食べさせる、という点では意味があると言えるのかもしれないが、普段イナリと触れ合っているエリスが今更それに感動するのも意味不明だ。
「一体何故じゃ……?」
イナリは首を傾げて呟いた。
その傍ら、店主はオリュザを食べつつ、目の前の光景に呆れていた。
 




