151 囮
イナリは現在、一人、緊張感に包まれながら森を歩く。
作戦によればイナリの周辺には多くの兵士や冒険者がいるらしいが、とはいえ完全に一人というのは久しいだろう。しかも、今回は不可視術などは使っていないので、いつ茂みから魔物が出てきたり、例の組織の輩が飛び出てくるかもわからないのだ。
そのせいもあって、イナリは耳をピンと立て、常に警戒しながら歩いているので、精神的な体力はガリガリと削られていく。
「……!?……あ、木の枝を踏んだだけか。ううむ……」
そんなわけで現在のイナリは、意図せずとも設定どおりの、無茶をする駆け出し冒険者さながらの歩き方になっていた。
現在のイナリの装備は、普段着ている着物に、先ほど渡された魔力発信機、その辺で拾った木の枝、六つのブラストブルーベリーだけで、うち五つが爆弾、一つが食用である。指輪や硬貨入れ、イナリの短剣は奪われると困るので、家に置いてきた。
かなり心許ないように思えるが、イナリに金属製の武器や防具を持たせると碌に動けなくなってしまうし、そもそも武器の扱いもままならないので、致し方ないのだ。
「それにしても歩きにくいのう……」
今イナリが進んでいる道は、やがて一つ目の廃村へと繋がる道らしい。
魔の森の中でこそあるが、道というだけあって道幅はそれなりである。事前に聞いていた通り、馬車も一台は通れるだけの幅がある。
しかし、魔境化の影響もあって、木の根が道にせり出していたり、草がイナリの膝あたりまで伸びていたりと、なかなかに険しいことになっており、街とは違って整備が行き届いていないのが明らかである。尤も、放棄されているのだから整備する必要も無いのだろうが。
この状況も元はと言えばイナリのせいなのだが、この草木の煩わしいことこの上ない。普段のイナリは植物を遍く愛でているのだが、今回ばかりは早くも辟易していた。
唯一安心できる点を見出すとするならば、成長が頭打ちしたのか、イナリの成長促進の影響範囲内であってもあまり成長する様子が見られない点ぐらいだろうか。
それに、地面が妙に凸凹していて、草履を履いているイナリは、時折足を捻りかける。恐らくここもトレントが通っていった道なのだろう。
「……そういえば、トレントはもうおらぬよな……?」
エリック達曰くほぼトレントは全滅したらしいが、それを裏付ける証拠はない。ただ、イナリが引き付けたすべてのトレントを倒したから全滅しただろう、という見立てでしか無いのだ。
とはいえ、仮にトレントが居たとして、きっと周辺の仲間がある程度捌いてくれるはずなので、あまり気にする必要は無いだろうし、それは魔物も同様のはずだ。
イナリは一旦立ち止まり、肩の力を抜いて、深呼吸してから再び歩を進めた。
そしてしばらくして、一か所目の村がイナリの目に入る。
ここまで、人にも魔物にも一切遭遇していない。ついでに言えば、自分を守ってくれている仲間が着いてきているのかどうかもわからないので、不安は募るばかりだ。とはいえ確認しに行くわけにもいかないので、イナリは仲間がいると信じて村へと足を踏み入れる。
「……誰も居らんのか……?」
村にもまた、誰かがいる気配は一切無かった。イナリの耳が誰かの足音や呼吸音を拾うこともない。この村はハズレのようだ。
イナリはひとまず村へと侵入し、建物を観察する。村の建物は全て蔦や苔などの植物に包まれており、小屋の一つを覗いてみれば、板と板の間を草が貫いていたり、床板を貫いていたりと、いかにも廃墟といった様相であった。
しかし、建物の大まかな外観に反して、家の中にあるものの中には真新しいものも見受けられ、イナリが成長促進を発揮する前までは、誰かが普通の生活を送っていたことが窺える。
立ち入った小屋を出て近くの畑を見やれば、明らかに収穫可能な状態の作物の数々が目に留まる。
「……」
イナリは複雑な心境になりながら、村の中央辺りと思われる場所に立ち、次の行き先を確認する。作戦によれば道なりに進めば良いとのことなので、そう迷うこともなかった。
イナリは一つ目の村を立ち去り、次の目的地へと向かう。
結果から言うと、二つ目の村も一つ目と大して変化はなかった。
変化が起こったのは、候補地の中では、メルモートの街からの直線距離が一番遠い位置にある三つ目の村に向かっていた時のことであった。
「……ん?あれは……」
イナリは道の中央に放置された何かの死骸を発見した。近づいて見ると、大きな狼か何かの魔物のようで、その胴体には剣で切られた跡が深く残っているほか、いくつかの浅い傷もついている。もしこれが生きたままイナリの前に現れたら、丸呑みにされていたかもしれないだろう。
「これに遭わずに済んでよかったのじゃ」
イナリは己の幸運と、この魔物に対処してくれた者を称えつつ、死骸を跨いで道を進む。
「……いや、待つのじゃ」
村へと向かう足は止めず、イナリは考える。仮にイナリを守るとして、進行方向に仲間が展開しているというのは、囮の意味が無くなってしまいおかしいのではないだろうか。
あるいは、ディルのように素早く動いて一閃しての対処というならまだ理解できなくもないが、傷からしてそうではなさそうだ。そして、こんな道のど真ん中に死骸があるということは、あの魔物を倒した者もここで戦闘をしたわけで、死骸を放置しているという点も含めて、隠密作戦の意図に反する行いである。
ともすれば、イナリの仲間によるものではないと考えた方が良さそうだ。
「……少し警戒したほうが良いのう」
不可視術抜きで森を歩くことにもようやく慣れてきたところだが、ここは一度意識を改めた方が良さそうだ。イナリは改めて深呼吸して落ち着くことにした。
「よし、行くのじゃあぁ!?」
イナリは意気込んだ直後、イナリが踏んだ場所がズボリと沈み、イナリの身長をはるかに凌ぐ深さの穴に落下した。
「……何じゃコレ???」
イナリが想像していたのは、茂みから男が襲い掛かってきて颯爽と躱すとか、村の犯罪者たちに爆弾片手に心理戦を繰り広げるとか、そういうものだったのだ。
しかし現実はといえば、襲い掛かってくる男すらおらず、落とし穴に嵌る間抜けな狐が一匹いるだけだ。
不幸中の幸いであるのは底に棘が仕込まれていたりしなかったことだろうが、落とし穴に嵌ったという事実はイナリのプライドを大きく傷つけた。
「……これ、どうするんじゃ……?」
そして、イナリにはこの穴を脱出する手立てはなかった。ブラストブルーベリー爆弾を使えないか検討したりもしたが、下手したら生き埋めになりかねない。
イナリは地面に寝そべったまま、茫然と空を眺めた。
そして数分経つと、何者かの足音と話し声をイナリの耳が拾う。
「ったく、魔物の死骸の処分くらい自分でやれってんだよ。拠点に居ても碌に役に立たねえし、外でも役に立たねえ。しかも街での行動が難しくなったのもアイツのせいなんだろ?終わってるわ、マジで」
「まあ所詮は街でコソコソ動いてた小物だし、狼に噛まれてそれどころじゃなかったんだろ、大目に見てやろうぜ」
「魔境化して魔物が強くなったって言ったって、限度はあるだろ……。マジで、ボスは何であんなのを引き入れたんだか。あ?落とし穴に何かかかってるな。魔物か?」
「うわ、仕事が増えるのは勘弁してほしいんだが……あ?女の子が掛かってるわ」
「は?……マジかよ、しかも上物だぞ、とんだ収穫じゃねえか!……よう嬢ちゃん、ご機嫌いかがかな」
穴を覗き込む男のうち片方が、イナリを煽るように語り掛けてくる。
「最悪じゃ」
「ま、そりゃそうだわな。じゃ、手荒なことはしたくないから、ちょっと大人しくして、おじさんと一緒に拠点まで行こうね。……お前は死骸の隠蔽に行ってくれ」
「はいよ」
イナリを煽った男の指示に従って、もう一人が立ち去る。そしてイナリは、降りてきた男に手足を堅く拘束され、雑に持ち上げられてどこかへと運ばれていった。
 




