141 知ってる事全部吐け
「……我、ちょっとこれから用事が出来る気がする故、帰らせてもらうとするのじゃ。我の勘は当たるからの。というわけで、ウィルディアよ、紅茶、馳走になったのう」
イナリは紅茶の入った瓶を机の上に戻して素早く立ち上がり、扉を開いた。そして素早く回り込んできたリズに笑顔で扉を閉められた。
「今日は皆休みだから、そんなわけないよね?……あ、呪文に関する議論をするっていう用事ができたってことか、なるほどね!さ、イナリちゃん、知ってること、全部吐いてね」
「ひえ……」
「リズ君、そんな聞き方では教えてもらえるものも教えてもらえないぞ。イナリ君、ひとまず戻ってきて座ってくれないか?」
「……拒否権が無いのじゃ……」
「……リズ君も一回落ち着くんだ。ステイだ。ステイ」
ウィルディアはリズの肩に両手を置いて椅子まで移動させた。
その様子を見たイナリは、今すぐ全力で走って逃げる選択肢が頭によぎったが、その選択をとった後が怖いので、大人しく席に戻ることにした。
「協力感謝するよ。……それでイナリ君、きみは何故魔法言語を理解している?」
「いや、単に読み上げただけで、理解はしておらぬからの。現に、お主らが何を言うておるのかまるでわからぬ……」
「……そうか」
ウィルディアは一言呟くと机の中から小さな紙を一枚取り出し、何かを書いてイナリに見せる。
「……これを読んでみてもらっても?」
「『アイシクルスクエアジェイル』?……何じゃこれ?」
「これは狙った場所に立方体型の氷の檻を生成する魔法だ。この学校ではそれなりに魔法について研鑽してから習うものだな。少なくとも初学者に教えるものでは無いし、当然、一目で正しく詠唱が出来るような代物ではない。……君は出来ているがね。魔力があれば間違いなく発動しているに違いない」
「イナリちゃん、魔力があったら魔術師の天下を取れるのに……勿体なさ過ぎるよ……」
リズの悲壮感溢れる呟きを聞いて、ウィルディアがハッとする。
「……そうか、君に魔力があったら、先ほどの効果不明の魔法も発動していたのか……」
「我はただ読んだだけじゃからな」
イナリにも詳しいところはよくわかっていないが、魔法言語に該当するものをイナリが読んだ場合、イナリの発声と周りに実際に聞こえる音声に大きな差異があるようだ。
恐らく、この世界の言語がわかるようにアルトがイナリに何かをしたことが響いているのだろう。この世界の普通の文字と同様、魔術言語で何か書いてくださいと言われたら、間違いなく不可能であろう。
「……しかし理解に苦しむな。ただ読み上げるだけで正しく詠唱できるなんてことがあるのか?」
「まあ、我神じゃし。そういうこともあるじゃろうて」
「……そういえばそうだったな」
「まさかお主、忘れておったのか……?」
「……さて、イナリ君が詠唱をできるとなれば、尋ねたいことがある。ちょっと待ってくれ」
ウィルディアは露骨に話を逸らして立ち上がった。
「あー……確かこの辺に……ん?こっちか?……ああ、これだ」
ウィルディアは部屋の棚に置かれた大量の書籍の中から薄い冊子を取り出し、イナリの前に置いた。表題は『大賢者の遺跡の調査記録』であった。
「……これは?」
「これは私が大賢者の遺跡の調査に関する論文を執筆しようとして、途中で筆を折ったものだ。先ほど君が詠唱した呪文をはじめ、解読を途中で断念したものや、正しい詠唱が特定できなかった呪文の写しがまとめてある」
「そんなに難しいものなのかや?」
「ああ。そもそも遺跡に刻まれていた文章は文法や字体、言葉の意味合いが違っていることもしばしばで、しかも掠れていて読みにくい部分や崩落していて読めない部分も多いし、呪文かそうでないかの判断に時間がかかる。酷いと、呪文だと思って解読していた文章が、ただの怪文書だったりするからな。あるいは詠唱についても、どうあがいても、完璧に正しい発音など伝達のしようがなく、発動すらしなかった」
ウィルディアは過去の事を思い起こしながら説明する。何やら色々と苦労があったようだ。
「しかしイナリ君、きみは魔法が使えないにもかかわらず、一発で正しい発音の詠唱を行えたわけだ。君の力があれば、大賢者の謎の多くが解けるだろう。是非、君の力を貸してほしい」
ウィルディアはイナリの手を両手で握り頼み込む。
しかしこの話、イナリにとってはとても都合が悪い。この呪文の中に神を殺す魔法のようなものがあったら最悪だし、そうでなくとも魔法文明の発達に寄与したくはない。
断ることには中々勇気がいるが、流石に規模が規模であるし、後に尾を引く問題であるので、ここは割り切ることにした。
「断るのじゃ」
「……そうか」
ウィルディアは一言返事を返すと、それ以上何も言わずに部屋を出ていった。
隣からはリズの視線が刺さる。何となく、リズの方向を見るのが怖くなったイナリは、ひとまず椅子の背もたれにもたれかかった。
「……これは仕方のないこと。我にも事情というものがあるのじゃ。……ところで、あやつは何処に?」
「わからないけど……流石にリズ達を放置するようなことは無いと思う。少し待ってみよう」
リズに従って、二人はしばらく椅子に座って待つ。
部屋は静寂に包まれていて、居心地が悪い。先ほどイナリの逃亡を阻止しようとしたリズが何も言ってこないのも気がかりだが、かといってイナリから話しかけるのも危ない気がする。
イナリは尻尾の先端を膝の上に持ってきて手で弄り、気まずさを紛らわす。何でもいいから、さっさと部屋に戻ってくるなり帰らせるなりしてほしい。
そう思っていると、再び扉が開く。イナリが安堵しつつそちらを見れば、そこには小さな箱を抱えて戻ってきたウィルディアの姿があった。
「突然離席してすまないね。話の続きをしようか」
「……続き?我は断ったじゃろ、これ以上する話などあるまい」
イナリは顔を顰めつつ返した。
「確かに君の返事は聞いたが、交渉や説得の余地はあるだろう?私はそこに付け入ろうというわけさ」
「身も蓋も無いのう……」
「といっても、私は交渉事や煩雑な駆け引きは好きでは無いからね。単刀直入にやらせてもらうとしよう」
イナリは真っすぐウィルディアを見つめながら考えた。一体、このような前置きを置いての交渉とはどのようなものだろうか。まさか、イナリの正体を言いふらすなどと言い出さないだろうか。もしそのようなことがあれば、今後の付き合いを考えていかねばならない。
「……言うてみよ」
「この学校には菓子を方々から取り寄せるのが好きな教員が居てね。今私たちが飲んでいるこの紅茶も、その人から分けてもらったものなのだが……」
「……一体何の話をしておるのじゃ?」
単刀直入と言った割に、始まったのは脈絡のない話だ。イナリは首を傾げる。
そんなイナリをよそに、ウィルディアは小さな箱を机の上に置く。
「ここに、その人がなかなか手に入れるのに苦労すると言うクッキー……菓子を用意した。君が話を受けてくれるのであれば、これを君にあげよう」
「本当か!?……んん。いや、我は以前ギルド長から痛い目に遭わされて学習しておるからの、お主らの魂胆なぞお見通しじゃ」
イナリは席から立ち上がりかけたが、過去の経験から思いとどまって断った。食べ物でどうにでもできると思ったら大間違いなのだ。
それにしても、ウィルディアがイナリの弱点を知っているのは、きっとリズ伝いでそれを聞いたからだろう。油断ならないものだ。
「そうか。では勿体ないから今食べてしまうとしようか。……うん、美味だな。これは確かヴィサティベリーを使っているんだったか。やはりあそこの果実は違うな。リズ君も一つどうだい」
「じゃあお言葉に甘えて!」
ウィルディアがリズに向けて箱を傾けると、リズは笑顔でクッキーを摘み、チラリとイナリに視線を向ける。明らかに何かを狙っている人間の笑みである。
「……くっ……我は動じぬぞ……」
イナリは菓子から視線を逸らして考えを練ることにした。イナリの意思が傾く前に、どうにかこの場を切り抜けなくてはならない。
「そもそもじゃ。お主のような者が解けぬものを解くというのに、その報酬が菓子箱一つというのは、釣り合っていないとは思わぬか?」
「それは一理ある。……成果次第では、後からいくらでも報酬を請求してくれて構わないよ。それこそ、一生養えとか、全財産寄越せとか、それくらいの請求をしてもいい」
「さ、流石にそこまではせぬが……」
思ったよりも重めの覚悟をしているウィルディアにイナリはたじろぎつつ、別の方向から攻める。
「それに、そういった物は自力で見つけてこそ意味があるものじゃ。故に、神である我が魔法言語を解するからと言って、それで答えを知ってお主は満足するのかや?時間をかければ遺跡の調査を完了して、自力で答えを得ることも可能であろうに」
「それは出来ないな」
「……即答じゃな。何故じゃ?」
「遺跡が既に魔王によって更地にされているからだ。……更地というか、巨大な半球状の穴、と表現した方が適切かもしれないが……ともあれ、遺跡が消滅していることには変わりないな」
「それは気の毒じゃが……しかし、既に遺跡を調査しているのなら、考えることはいくらでもあるじゃろ?」
「簡単に言ってくれるが……そもそも、遺跡が見つかったのが魔王が現れる数週間前で、十分な調査もできていなかったんだ。だから、間違いなく欠落している情報は大量にあるし、他の調査員と情報を照らし合わせたところで、わかることも似たようなことばかり。今でもそれについて調査している学者も幾らかいるらしいが……あまりにも終わりが見え無さそうだったからね、私は早々に見切りをつけたよ」
「ううむ……」
なるほど、ウィルディアが筆を折った理由はここに起因するようだ。こういった話を聞くと不憫に思わないことも無いが、とはいえ後の事を考えれば、やはり頷くことは出来ない。
「思うところが無いことも無いが、やはり無理じゃな。断らせてもらうのじゃ」
「……きっと理由があるんだな。しかし、それならば、全てとは言わない。魔法の詠唱から、どのような効果があるか推測するだけでもいいんだ。それでも約束通り、この菓子は君にあげよう。どうだろうか?」
ウィルディアの声は必死さを隠さなくなってきているし、もはや交渉ではなく懇願に近い。リズもこのようなウィルディアの様子は初めて見るようで、クッキー片手に半ば困惑気味だ。
流石に居心地も悪いし、不憫に思い始めたイナリはこの辺で譲歩することにした。
「……魔法は、詠唱がわからねば使えないのかや?」
「……ああ、そうだな。詠唱を洗練させれば、変形や無詠唱に出来ることもあるが、基本的にはそういう理解で構わない」
「……そういうことならば、良いじゃろう。その書物を見せるのじゃ。ただし、伝えるかどうかは我が判断するのじゃ」
「……!そうか、ありがとう」
ウィルディアは珍しく笑顔を見せ、イナリの手を握った。
そしてイナリはウィルディアから冊子を受け取って中身を確認し、三ページほど捲ったところで天井を見つめた。
――マズい。読めるけど、書いてることが難しくてあんまりわからない。どうしようこれ。帰りたい。
……イナリは既に、己の判断を後悔し始めていた。
 




