よくある記憶喪失とよくあるファンタジー
いてもたってもいられなくなって駆けてきたはいいが、お貴族様の家の正面玄関に立ってみてようやっと『到底入れてもらえるはずがない』ということを思い出した。
焦った顔で立ち尽くす私を疑問に思うであろう門兵にどう説明しようかと考えていると、至極当然かのようにドアを開けてくれた。
「いいんですか?通してくださっても。」
恐る恐る私がそう尋ねるとああと少し気の抜けた声をあげたあと口を開いた。
「さっきまでペンキ塗りしてただろう?時々その高給について聞きに来る者や、お礼を言いに来る者がいるからな。お前も同じじゃないのか?」
聞いたことで逆に怪しまれてしまったらしく、言葉に詰まる。若干視線を泳がせているといかにも警戒しているという様子で私を覗き込む。
「じ、実はここで働きたいんです!お礼も兼ねて直談判しようと……。」
嘘だ。そんなつもりはさらさらないがとりあえず長くなっても言い訳ができるようにそんなことを言った。すると彼は納得がいったようでドアをもう一度開けてくれた。
「入れ。ご主人様は仕事に関して優しくはないから精々頑張るんだな。」
うまく騙せたようで、彼は優越感に浸ったような笑みを浮かべている。その顔に若干むかついてパンチでも食らわせてやろうかと思ったがそのままお礼を短くそして小さく告げながらお屋敷の中へと入った。
メイドさんたちに道を聞きながらなんとか辿り着いた貴族様の部屋のドアを三回ほど叩く。
「入って。」
優しく聞こえたその声の通りそっとドアを開けた。
「ああ、君か。いらっしゃい。何か聞きたいことでもあるのかな?」
物腰の柔らかい微笑みと優しい言葉にさっきまでの門兵への怒りも忘れる。
無意識の内に肩の力が抜けていった。安心するんじゃなくて聞きたいことがあるんだと思い出し慌ててしゃきっと立ち直す。
「さっき仰っていた伝承について、詳しく聞きたくて……。」
絞り出したような声ではあった。でも確かに彼には届いたようでああと頷いたあと嬉しそうに笑った。
「そのことなんだけど、気になるところがあってね。君にも話したかったからちょうどいいよ。」
言いながらソファーへと移動していく彼を目で追っているといきなり視線がかち合った。
私を見つめる彼はもう一度微笑む。
「さあ座って話そう。長くなるかもしれないからね。紅茶も持ってこさせるよ。」
指を指した先にあったソファーに腰掛けると今まで座ったどのソファーよりふかふかで柔らかくて思わず肩が跳ねる。
そんな私を見てご主人はくすりと笑って目の前に腰を下ろした。紅茶を待つ間にぐるりと周りを見回す。
目の前の奥に窓があり窓に背を向ける形でこれまたふかふかそうな革張りの仕事用と思われる焦げ茶色の椅子と大きなテーブル。
そして少しスペースをあけて今私たちが座っている向かい合わせに置かれた二つのソファーと装飾がさりげなく施されたガラスのローテーブル。
そして囲うように左右に本棚が一つずつある小さいけれども知性と品性を感じさせる部屋だった。
程なくしてメイドさんが温かい紅茶を持ってきてくれてわざわざカップにまで注いでくれる。ミルクとお砂糖もお願いして入れてもらった。
貴族様は甘党なんだねと言って笑っている。彼が紅茶を口に運んだタイミングで私も紅茶を口にした。
熱過ぎない温度の紅茶が喉を下っていってお腹の底から温まる。
「それで、何の伝承について聞きたいんだい?」
緩く弧を描いた口元のまま私にそう尋ねる。
慌ててしまい思わずむせそうになるがぐっと飲み下して事なきを得た。
一息ついて口を開く。
「さっき、あの……ペンキ塗りの親方のような方が私の髪色が赤に見えてそれが伝承みたいって言われたんで、気になって来たんです。」
紅茶を飲んでいたご主人は私の言葉を聞いて静かにコップを下ろす。静寂の中カップと受け皿がカチャリと微かな音を立てた。
「お嬢さん、お名前は?」
そう言えば名乗ってなかったなと思い出して申し上げていなかったことを先に謝る。
「すみません、申し上げていませんでしたよね……。エスタ・ルーセルです。」
「エスタさん、知っているだろうけど私はダニエル・クライトマンだよ。ミドルネームはないかな?」
ミドルネーム、そう言われて霞みがかった空に一瞬晴れ間が覗くように私は自分のミドルネームを思い出す。そんなことを考えている間にも私の口はもう動いていた。
「テュケ……です。」
それを聞いた瞬間、ご主人の顔から笑顔が一瞬消えた。
だが、思い出したように慌ててまた先ほどの笑みへと変わる。
「本当に、君のミドルネームで間違いないね?」
記憶喪失の自分としてはなんとも言えないその問いに答えを詰まらせているとご主人は首を傾げる。
「あの、私最近一か月の記憶しかなくて……今さっきまで自分のミドルネーム忘れてたんです。」
張り詰めた空気のせいで緊張して声が震える。そう口にするとご主人は少し肩を竦めた。
「でも、今思い出したんだね?」
そう聞かれてこくりと頷く。ご主人はため息を軽くつきながら彼が立ち上がった。
「十中八九君の名前で間違いないだろう。そうか、テュケか……。」
と私の名前を噛み砕くように繰り返しつぶやきながら本棚を漁っている。すると彼は一冊の本を取り出した。
「伝承はあの一句だけではないんだよ。きっと彼が君と似ていると言ったのはこれだろう。」
そう言って指差された先の挿絵には赤髪の女性だった。古い絵特有カクカクとした線の感じのせいか彼女がどんな顔立ちなのかは掴みづらいが女性だと言うことは体型から見てとれた。
「赤髪の、女性ですか。」
ぱらぱらと違う本を捲りながらご主人はそうだよと返す。もう三冊ほどローテーブルへ載せたところやっと腰を落ち着けた。
「伝承されている色には由来があるんだ。少し長くなるかもしれないけど、聞くかい?」
注ぎたされた二杯目の紅茶はさっきよりも熱く感じてカップを少しふうふうと吹きながら私は縦にうなずいた。
その後の彼の話を要約するとこうだ。
‟銀と赤が闇を討ち払う”
太古の昔に悪魔に身をささげた魔法使いと今では神官と呼ばれるような神に身をささげた魔法使いたちの間で聖戦が起きた。詳しい理由は風化された紙のせいで読めないらしい。
あろうことか戦いは悪魔に身をささげてしまった魔法使いたちの優勢へと進み、神官たちがあきらめかけたとき、赤い髪を携えた魔法使いの女性と銀髪と蒼い瞳を持った青年が神官側へと味方についた。
赤い髪の女性はその時代、いや今でも彼女以上はないと言われるほどの魔力を持ち、そして銀髪の青年は巧みな体術と剣術であっという間に神官側へと勝利をもたらした。
戦いで力を使い果たした神官たちは悪魔を魔界へ返すことはできたが、今では黒魔術と呼ばれる悪魔召喚の儀式を行った聖戦の元凶である魔女への裁きは下せなかったという。
赤い髪の女性と銀髪の騎士の最後の力で、黒き魔女と呼ばれる悪魔に身を捧げた彼女は地下深くへと封印された。
「とまあ、ざっとこんな感じなんだけど……最後の一句があるんだよ。」
と言って彼は声を出して読み上げる。
「闇が再び世界を覆わんとする時、赤と銀は再び巡り合う。」
なぜか聞き覚えのあるその言葉に背筋が凍った。
まだまだ続きます