8. 妖精の協力を得たものの
そろそろミネルは限界だった。ソールの癒やしが足りない。人間、一度覚えた甘露を絶たれると、どうにも駄目になるものだ。
「もう、ソールさんに会いに行きたい!あの笑顔に癒やされたい!抱きしめてほしいー!!」
「最後のは、どうせできないでしょ」
「いいの。口に出していたら、いつか叶うかもしれないから」
本当に叶ったらいいのにと、ミネルはため息を吐いた。
「いっそ、結界の穴を自分で作って、休憩時間にこっそり王宮を抜け出せば……」
「やめなさいって。ユノに捕まっておしまいよ」
「う、……」
結界の点検作業を二人一組としているのは、終わりの見えない作業に発狂した相方が脱走しないように、お互いが見張るという意味もあるのだ。相方を逃せば残りの作業をひとりで請け負うことになるので、脱走しても絶対に捕まる。
「だいたい、魔術師長や相談役様が張った結界に干渉できるわけないでしょう」
「うん。知ってた……」
王宮の結界魔術を編み上げたのは、魔術師長と相談役である。現在行っている結界の総点検も、ミネルたちは不都合な部分がないか調査をしているだけであり、何かあった場合に結界を調整するのは魔術師長の役目となる。ミネルのような並の魔術師がおいそれと干渉できるものではない。
だが、もちろんミネルは諦めなかった。
「ユノ、ちょっと協力してほしいのだけど!」
「あらあら。どうしたの、ミネル?」
気合いの入った顔でやや目を座らせたミネルに、ユノは面白そうだと寄って来る。
「あのね。明日の午後にこっそり王宮を抜け出したいの。だから、ユノは私が抜け出しても見ないふりをしてほしい」
言い募るミネルに、ユノがきょとんと眼を瞬く。
「昼すぎまでに絶対に仕事は片付けるから。ユノには迷惑をかけないよう、絶対にばれないように帰って来るから。お願い!」
「まあ。どうしたの、いったい?」
「……王都の街に、どうしても会いたい人がいるの。もうずっと会っていないから、いい加減干からびそう!我慢の限界!」
叫んだミネルに、ユノは手を合わせてぱあっと顔を輝かせた。
「まあ!つまり、恋のためね!」
「……う、そうはっきり言われると照れるけれど、まあ、そういうこと」
顔を赤くしたミネルが肯定すると、ユノはミネルの両手を握ってきた。
「素晴らしいわ!是非協力させて!」
「へ?」
「いつも話している、あの人でしょう?私も見てみたいわ!」
「はい?」
「助力は惜しまないから、何でも言ってちょうだい!」
妖精という種族は恋の感情が大好きらしく、あるときからミネルはユノにソールの話を聞いてもらうようになっていた。本当に嬉しそうに聞いてくれるので、ミネルも嬉々として話していたのだ。だからユノはソールのことを知っているのだが。
最大の難関であったはずの仕事仲間があっさり全面協力してくれることになり、どうやって説得しようか悩んでいたミネルは拍子抜けしたが、これは幸運だ。
つまり、なんとしてもソールに会いに行けということだろう、とミネルは力強くユノの手を握りしめた。
翌日の午前。
ユノが妖精の魔術であっという間にその日の予定分を終わらせてくれた。
ユノによれば、今日はたまたま場所との相性が良かっただけらしい。妖精の扉になる水鏡が近くにあったから云々と話していたが、今のミネルはソールに会いに行くことで頭がいっぱいだ。大事なのは、本日分の仕事が終わったという事実だけだった。
「え、ついて来るの?」
「大丈夫、絶対に邪魔はしないわ!愛し合う二人を見ているのがいいのよ~」
「あ、愛!?いや、あの、ソールさんとは別に付き合っているわけではなくてね。私が勝手に好きだというか、」
「ふふふ。照れなくてもいいのよ。さ、行きましょう!」
この時間を確保できたのはユノのおかげであるし、迷惑をかけているのも分かっているので、ミネルは断ることができず、しぶしぶ同行に同意した。ただ、ソールの前には出ないでほしいとは懇願した。ユノはもちろんだと笑って頷いていた。
多大な不安を抱きながら、パン屋へ向かった。
認識阻害の魔術をかけているので、周囲から二人は見えない。
「あのパン屋ね?」
「あ、ソールさん!」
ちょうど店の前にある看板を書き換えているのか、ソールがこちらに背を向けてしゃがんでいるのが見えた。きれいにまとめた卵色の髪が、背中でさらりと揺れている。
(……久しぶりすぎて、神々しい)
そこでぎょっとしたようなユノの声が聞こえた。
「ミネル!?どうして泣いているのかしら!?」
「え?」
言われて頬に触れると、たしかに濡れている。
どうやら、久しぶりのソールに感極まって涙が出てしまったらしい。我ながらソールのことが好きすぎるなとミネルは苦笑した。
「あ、ごめん。大丈夫。ちょっと嬉しすぎて……」
「そんなにあの人間が好きなのね。ああ、素敵よ。素敵な恋の感情……!」
今度は、ユノが感極まってしまったらしい。
「これよ、これなのよ!最近はこういう感情に飢えていたの!だって王宮魔術師たちって、魔術にしか興味のない人ばかりなのだもの……!」
「え、あの、ユノ。ちょっと落ち着いて……」
興奮したユノがあまりに騒ぐので、ミネルは少し心配になった。認識阻害の魔術は、周りから存在を隠すことができるが、それはあくまで自ら目立つような行動をとらない場合にかぎる。
このようにユノが騒いでしまうと。
(……今、通り過ぎた人と目が合った!)
魔術の効果は消えてしまうのだった。
しかもユノの興奮が収まらないので、少し注目を集め始めている。
「……まずい。ユノ、撤退よ」
「ええっ、あの人間に会いに来たのでしょう?」
「目立っているわ。騒ぎになったら、抜け出したのがばれてみんなからお説教よ!」
「まあ、それは大変」
ミネルはユノの手を掴んで、その場を走り去った。
すぐ目と鼻の先にソールの存在を感じながらの引き返しに、ミネルは本当に泣きたくなったが、ユノを連れて来たのは自分なのだから仕方がない。
今回は、ソールの姿を見られただけで満足するしかなかった。
なんとか王宮へ無事に戻って来ることができた。
ぜいぜいと息を切らしているミネルは、のほほんとしているユノを恨めし気に見つめる。
「ユノ…………」
「あら~、ごめんなさいね」
「…………はあ。いいよ」
けっきょくソールと対面で会うことはできなかったが、姿を拝むことはできた。それさえも、そもそもユノが協力してくれなければ不可能だったことだ。
「ミネルは、本当にあの人間が好きなのね。ちょっと興奮してしまったわ」
「う、……まあね」
「今回はわたしが邪魔をしてしまったみたいだけど、次は絶対にうまくいくようにするわ。あんな素敵な感情を生み出す恋は、絶対に成就させるべきよ!」
「うん。ありがとう、ユノ」
そうだ。今回は失敗しても、また次に成功するよう考えれば良いのだ。
なにせミネルは、もうソールの癒やしなしには仕事を続ける気力がわかないのだから。
「ということが昨日あった」
「……あ、そう」
翌日、ミネルはユノとの極秘作戦をテーナに報告した。これもソールに関わることであるので、報告はしなければならない。
「ユノを甘く見ていたわ……」
「いや、私もあなたを甘く見ていたわ。まさか本当に抜け出すなんて」
呆れたような目を向けられるが、ミネルは気にしない。ソールに会うためならばどんな障害も越えてみせる。
きりっとした顔で決意を示したミネルに、手のほどこしようがないとでも思ったのか、テーナは違う話題を振ってきた。
「そういえば、今日はパンの配達が来るみたいよ」
「パン……。ソールさんのおすすめパンが食べたい……。というか、ソールさんがパンをおすすめする声が聞きたい。笑顔が見たい」
「あー、悪かったわよ。パンの話なんかして。ほら、休憩室に行くわよ」
王宮には、定期的に食べ物関係の配達がある。
スナックや季節の飲み物など、そのメニューは豊富で、今日はパンの日であったらしい。
パンといえばどうしてもソールを思い出さずにはいられない。今日はサンドイッチでも買って、初めてソールと出会ったときの思い出に浸って自分を慰めようかと、ミネルは先に行ってしまったテーナの後を追って休憩室へ向かった。
休憩室近くの回廊まで来たところで、テーナが白い制服のようなものを着た人物と話しているのが見えた。こちらに背を向けているが、おそらくパンの配達員だろう。
テーナの知り合いだろうかと視線を向けていたミネルは、その背に流れるきれいな卵色の髪を見て、思わず立ち止まって目を見開いた。
「どうしよう。ソールさんの幻覚が見える……」
その呟きが聞こえたらしいテーナが、冷静に返してきた。
「いや、本人だと思うわよ」
「え、」
「……うん、本人だよ」
振り向いて少し困ったように笑うその人物は、まさしくソールだった。
「パンの配達に来てくれたの。あなたを探していたんだって」
テーナが何か言っているが、ミネルの頭は働くのを拒否している。
そのうちに、ソールの幻覚が近づいて来た。
「ミネル?」
ソールの手が、ミネルの頭にぽすりと置かれた。
そこでようやくミネルの意識は戻る。
「ソールさん!?」
触れた感触があるということは、これは幻覚ではなく本物のソールなのだ。
しかしそこで、ミネルはソールの手が置かれている頭に意識を向け、自分の髪色が濃い葡萄色のままであることに気づいた。王宮内であるから、当然、擬態などしていなかったのだ。
慌ててソールから距離をとり、頭を押さえる。
「あ、……」
ミネルの頭に乗せていたソールの手が行き先をなくしてなんだか寂しそうに揺れ、それ以上に寂しそうな顔でソールが声を上げる。
その顔をしっかり見てしまったミネルは、とてもそのまま放置することはできなかった。ソールに悲しい顔をさせるなど、許容できることではない。
すぐに元の位置に戻り、ソールの浮いた手を掴む。
すると、ソールがほっとしたように少しだけ笑った。
その顔を間近で見てしまったミネルは、もう駄目だった。昨日だって、目の前まで行ったのに我慢したのだ。これ以上は無理に決まっている。
「ソールさんに、会いたかったです!」
感情が制御できなくなり、目の前の体にぎゅっと抱き着いた。
初めて自分から触れた体は、心地よい体温を伝えてきて、こうして触れることでも癒やされるのだということをミネルは知った。
このままずっとこうしていたいなと思ってしまったところで、頭の上から声が聞こえた。
「ミネル、」
名前を呼ばれて、はっと我に返ったミネルは慌てて離れようとした。
だが、その前にソールの腕が背中に回り、叶わない。
ますます近くなった体温に、なにが起こっているのだろうかとミネルが混乱していると、耳元で小さな呟きが落ちた。
「……俺も、会いたかった」
ソールの安堵したような切実な声に、ミネルは抱き着く腕にさらに力を込めた。