ブクマ300件お礼話:兄の恋人
「こんにちはー」
素朴な木枠の扉を開ければ、ふんわりと鼻をくすぐる芳ばしい香り。
次いで目に飛び込むのは、丁寧に並べられた多彩なパンたち。
定番のクロワッサンやバゲットはもちろんのこと、かぼちゃの形をしたパンやマロンペーストを練り込んだパンなどの季節商品もある。
噴水広場にあるこのパン屋は、立地が良いことだけでなく、なによりもそのパンの美味しさで人気を集める店なのだ。
「おや、リトさん。いらっしゃい」
店内ではじめに目が合った店長が、柔和に笑ってリトを歓迎してくれる。
それに挨拶を返して店内をさりげなく見回してみるが、目的の人物らしき女性は見当たらない。
むむっと眉をひそめたところで、ひとりの店員が寄って来た。
「リト、いらっしゃいませ」
「……兄さん。ミネルさんは?」
卵色の長い髪をまとめた店員……リトの兄であるソールは、仕事中であることから妹に対しても丁寧な口調を崩さない。そういった姿勢は、兄の好きなところのひとつだった。
だが今はそれどころではない。リトがこの店を訪れるのは、あるひとに会いたいからだ。
「今日こそ、ミネルさんに会わせてくれるよね?」
「…………リト。そういう話は、仕事が終わってから聞きましょう」
もう少しで終わるから、とソールに店内飲食用の席へ連れて行かれた。
有無を言わさぬ態度にむっとしたが、サービスだよとこっそり店長が入れてくれたコーヒーが美味しかったので、リトは逸る気持ちを抑えて大人しく待っていた。
リトの兄ソールは、噴水広場のパン屋で働いている。
優しいこの兄が、リトは大好きだ。
実家を出た兄と会う機会は多くないが、リトのお願いはたいてい聞いてくれたし、たとえば買い物に付き合ってほしいと言えばいつでも快諾してくれていた。
だがその兄が、先約があるから駄目なのだと断ってきたことがあった。珍しいなと思ったリトが軽い気持ちで理由を問えば、恋人が家に来るからという。
家に呼ぶほどの恋人が兄にできたことなどまったく気づかなかったので、リトはとても驚き、根掘り葉掘りその恋人のことを尋ねた。
それによれば、どうやら付き合ってそれなりに経つらしい。そういえば、以前に一度だけ街中で顔を合わせたことがあったかもしれない。そのときの彼女だろうか。順調に関係が続いているのはいいことだなと思って続きを促せば、なんとその彼女は王宮魔術師であるという。
王宮魔術師とは、おいそれと就くことができない上級官僚職だ。王都の職業斡旋所で働くリトには、そのすごさがよく分かる。
まず魔術師というのは、斡旋所でも常に需要が上回る、売り手市場の職業である。
魔術師になるにはそもそも生まれ持った魔力が多くなければならないし、さらにそれを上手く扱う技術と知識が必要となる。そのためには魔術学校で学ぶのが一般的で、そこで優秀な成績を修めた上で教師から推薦された者だけが、王宮へ上がる機会を得る。
王宮魔術師とは、本当に選りすぐりの人材なのだ。
そんな女性が兄の恋人だと聞いて、リトはとても興奮した。
ソールはほとんど魔力を持たないくらいに薄い卵色の髪だが、リトはもう少し濃い山吹色の髪を持っている。魔術師になれるほどの魔力はないが、ソールよりは魔術に対して理解と関心がある。
しかも、どんなひとなのかと聞けば、とても可愛いひとだよとソールは即答したのだ。
王宮魔術師で、かつ、とても可愛いひと。
これは是非とも会ってみたいと、リトは思った。
その結果、彼女がしばしば訪れるという噴水広場のパン屋へ、このところ頻繁に通うようになったのだった。
「なーのーにー。全然、ミネルさんに会えないじゃない!」
仕事を終えて出て来たソールと街を歩きながら、リトは不満をぶつける。相手が兄だから、遠慮がない。
「うーん、仕方ないよ。彼女も忙しいひとだからさ」
「でも今日だって、この時間なら会えるって兄さんが言うから、仕事の時間を調整したのに」
「会えるかも、だよ。俺だって、ミネルがいつ来てくれるのか知りたいくらいだ」
眉を下げるソールを見て、兄を困らせたいわけではないと冷静になったリトだが、それでもまだ疑問があった。
「……そう言いながらさ、本当は会わせてくれるつもりないんじゃない?」
「え?」
これほど足繁く通って一度も会えないとなると、わざと会わせないようにしているのではないかと、つい疑ってしまうのも仕方ないだろう。
恋人の話を聞いたとき、ソールが彼女のことをとてもとても好きだというのが伝わってきた。
リトがミネルと会えたなら、もちろん絶対に仲良くなる気でいる。きっとソールも妹の性格を分かっているだろう。だから、リトのせいで恋人との時間が減ることを危惧しているのかもしれない。
「兄さんが独り占めしたいんでしょう、ミネルさんのこと」
「は、……いやいや、そんなわけは、」
「……………………」
明後日の方向へ顔を向けるところが、ますますあやしかった。
そんなふうにソールと話していると、前方で人のざわめきがあった。
なんだろうと辺りを見回してみると、どうやら角の屋敷が騒ぎの元らしい。
深刻な様子ではなく、どちらかというと何かを応援しているような楽しげな熱気を感じられたので、リトとソールは少し興味を引かれて。せっかくだからちょっと覗いてみようかと、行ってみれば。
「そっちへ行ったぞ、逃がすな!」
「はいっ!」
野次馬たちに囲まれた屋敷の中で、なにやら暴れているような音がする。いや、誰かが走り回っているのか。それに、小さな爆発音も。
その度に、周囲からはどよめきや歓声が上がる。
「なんだろうね?」
「さあ…………」
外から見ているだけではどういう状況なのかよく分からず、すぐそばにいた男性にソールが尋ねた。
「あの、これは何が……?」
「ああ、王宮の魔術師さんが仕事をしているらしいですよ」
「えっ」
「えっ」
野次馬の口から出てきた言葉に驚き、ふたりで声を上げたところで。
「ミネル、庭に行ったぞ! 敷地外へ出すなよ!」
さらに聞き覚えのある名前が響き、窓からひとりの魔術師が飛び出して来た。
王宮魔術師の黒いローブに映える濃い葡萄色の髪をなびかせ、その女性は軽やかに庭へ降り立つ。
「どこっ? いい加減、隠れていないで出て来なさい!」
堂々と仁王立ちして辺りを見回すその姿に、リトはぽうっと頬を染めた。
獲物を探すような緊張感をみなぎらせた真剣な様子が、とても格好良い。
「……出て来ないなら、辺り一面、水浸しにしてやるから」
「おい、やりすぎるなよ」
「相手次第です!」
屋敷の中からかけられた声に答え、魔術師は両手を広げて集中するように一点を見つめる。
すると、ひんやりとした空気が徐々に屋敷の外にまで漂ってきた。それに加え、ひたひたと音が聞こえると錯覚しそうになるほどの、濃密な水の気配。
魔力が少しだけあるリトには分かる。おそらくあの魔術師は、魔力で水を練り上げようとしているのだ。もしも言葉通りに辺り一面を水浸しにするとしたら、どれほど魔力を消費するのか想像もできない。だが、きっとこの魔術師になら可能なのだろうと思えた。
いよいよ魔術師の魔力の気配が高まってきたところで、不意に庭の植木が揺れた。
次いで、ぴょーんと飛び出した黒い小さな塊。
「はい、捕まえた!」
そこへすかさず魔術師が動き、ぱちんと捕まえてしまった。
なんと、素手で。
「おー、よくやったな」
思わぬ力業だったことに驚いていると、屋敷の扉からもうひとり出て来た。
こちらも王宮魔術師のローブを羽織った、まるで天鵞絨のように艶やかな濃赤の髪の男性。
あまりに人間離れした髪色に、リトはまた別の驚きでぽかんとした。人間がこれほどに濃い色の髪を持つことができるのか、と。その身に保有する魔力は、いったいどれほどのものだろう。
リトが呆けている間にその男性は女性に近づき、箱のようなものを取り出した。
女性が箱へ向けて手を開けば、黒い塊はその中へ逃げるように飛び込み、自ら蓋を閉めた。
それを見た男性魔術師は、くくっと笑う。
「お、さすがの煤の魔獣も、ミネルの拘束は怖かったか? これに懲りたらもう逃げ出すなよ」
「ええっ、私だけ悪者にします? 魔術師長ならもっと簡単に捕まえられたし、煤の魔獣はきっと恐怖で気絶してますよ」
「俺がやったらお前のためにならないだろう。なんならユノも連れて来ようかと思ったが、ミネルひとりで十分だったな」
「ユノがいたら、たぶん被害は大きくなります…………」
和やかに話すふたりに、どうやら事件は解決したらしいと見た野次馬たちは、やれやれ終わりかと散って行く。
だがその場を動かないリトとソールに、しばらくして女性魔術師が気づいた。
「えっ、ソールさん?」
慌てたようにこちらへ駆けてくるのは、先ほど辺りを水浸しにするほどの魔術を使おうとしていた、王宮魔術師の女性。
そして男性魔術師に呼ばれている名前と、ソールを知っていることを考えれば。
おそらく、リトが会いたかったひと。
「ミネル、お疲れ様。仕事?」
「あ、はい。ちょっと逃げ出した煤の魔獣を、」
「そっか。怪我はないね?」
ソールが手を伸ばして親指でやさしく顔を拭えば、女性魔術師は頬を染めてこくこくと頷いた。よく見れば、その顔はあちこち黒く汚れていて、捕獲した魔獣との格闘の大変さを物語っていた。
箱に入る前にちらりと見えたのは、粉をまき散らすような黒い塊だった。煤の魔獣と言っていたから、おそらく煤なのだろう。
捕獲対象が煤の魔獣であれば、女性魔術師が水の魔術を用いようとしたのも頷ける。煤なのだから、濡らしてしまえばそれまでだ。
だがそんなことよりも。
(やっぱり、この女性がミネルさんだった……!)
ようやく兄の恋人に会えたのだとリトが静かに感動していると、ミネルのうしろから男性魔術師が顔を出した。
近くで見ると、この男性魔術師はえらく顔の整った美形だった。年齢はソールよりもう少し上だろうか。男性的な艶やかさのある人物だ。
「お、ソールか」
「え、はい。えっと、お久しぶりです、魔術師長さん」
信じられない名前を口にしたソールに、リトは男性魔術師を凝視した。
たしかに、目の前の男性は人間とは思えないほどに濃い髪色を持っているし、王宮魔術師のローブも着ている。おまけに、ミネルに対する態度から上役だろうと察せられたし、そういえばミネルもそう呼んでいたような記憶があるが。
(まさか、王宮の魔術師長…………!)
王宮の魔術師長といえば、王の側近とも言えるほどに高い地位にいる人物だ。
そんなひとが、こんな街中に。
しかも、いたって気軽な様子でソールに話しかけている。
「……ああ、そうだ。昨日の焼きドーナツは美味かった。俺もミネルに分けてもらったんだ。礼を言う」
「あ、はあ。お粗末さまです」
それどころか魔術師長は、いくらか熱のこもった目でソールを見ているような気さえした。
リトの兄は、いったいこの魔術師長とどんな関係なのだろうか。恋人の上司とはいえ、こんなふうに親しげにされる理由とは。
リトがひとりでぐるぐる考え込んでいる間に、他の三人は話を進めていく。
「ミネル、戻るのはもう少し後でいいぞ。ここ数日はこいつのおかげで忙しかったからな。ソールと休憩してこい」
こいつ、と、魔術師長は持っていた箱を掲げる。中に入っている煤の魔獣が、さわさわと動く音がした。
「え、でも報告書が、」
「あー、明日までに出れば構わない。どうせ今回は俺も同行したしな」
そう言って魔術師長は、話は以上だとばかりに踵を返す。
「ありがとうございます、師長! お疲れ様です!」
ミネルが頭を下げて叫べば、魔術師長は軽く片手を上げて去って行った。そんな仕草さえも、妙に様になるひとだ。
上司を見送り、ミネルがちらりとソールを見上げる。
「……あの、そういうわけで休憩をいただいたのですが、ソールさんは、」
「うん。もう俺の仕事は終わったから、いくらでも付き合うよ」
にっこり微笑んで答えたソールに、ミネルはむずむずとした笑顔を返した。
「えへへ。ゆっくり会えるの、少し久しぶりですね」
「うん。最近は忙しかったみたいだね。店の方に来てもすぐに帰ってしまうから、ちょっと心配してた」
「うう、ごめんなさい。このところ、ちょっと仕事が立て込んで……」
なんだか、ミネルはもちろんソールにさえ存在を忘れられているようで、リトは少しばかり途方に暮れた。
(どうしよう…………)
ちらりとふたりへ目をやれば、ソールはもちろん上機嫌でにこにことミネルを見つめているし、先ほどまできりりと凛々しい顔で魔術を行使していたミネルは、今は頬を染めて嬉しそうにソールを見上げている。
(きっと、この落差に兄さんはやられたんだろうなあ……)
しばらく見守っていようかとも思ったが、さすがに置いて行かれてはたまらないので、ちょいっとソールの服の裾を引く。
するとソールが、あっ、というように目を見開いた。
「そうだった。……あの、ミネル、紹介するよ。俺の妹のリト」
「…………こんにちは、ミネルさん。リトです」
「はっ、妹さん? えっ?」
久しぶりだったらしい恋人との逢瀬の最中にその妹が突然に登場したことで、ミネルは大いに慌てた。
ひょえっ、だとか、ひゃぁっ、だとか、なんだか小さく奇声まで発していて、その混乱具合が年上ながら微笑ましく、リトはつい笑ってしまった。
たしかに兄の恋人は、とても可愛いひとだ。
ブックマーク300件の、お礼話でした。
いつも読んでいただき、ありがとうございます(^^)




