2. 魔術師が恋に落ちた経緯
時はしばらく前に遡る。
連日の業務とユノによる事故への対応により、ミネルは疲れ果てていた。思うことはいつもひとつだ。
(癒やしがほしい……)
望んで就いた職ではあるが、最近は家と王宮を往復するだけの日々。
家で帰りを待っていてくれるような存在もいない。生き物でも飼えば気が紛れるかとも思うが、ほとんど家に居られない状況ではそれも無理な話。
とにかくミネルの今の生活には、癒やしが足りなかった。そっと寄り添ってくれる、あたたかい存在を欲していた。
そして、ユノと中庭の噴水を調査していたあの日。
言い訳をするなら、そのときのミネルは、疲労のために少し注意が散漫になっていた。
「ミネル!」
「わっ、」
ユノのいつにない鋭い声が聞こえたと思えば、突然目の前が煙に覆われたことでミネルは悲鳴を上げた。
「じっとしていて!」
すぐにユノが魔術を編み上げる気配があり、周囲の空気が入れ換わっていく。どうやらミネルを覆う煙を吹き飛ばしてくれるつもりのようだ。
こういうときにユノは間違わない。だからミネルは、どれだけ話が通じなくても、ユノのことを憎めないのだ。
「……はあ、びっくりした」
しばらくして開けた視界に、特に異変はなかった。問題はなさそうだなと、煙を飛ばしてくれた同僚を振り返ると、ユノは目を丸くしてミネルを見ていた。
「あなた、髪が…………」
「ん?」
指で示された頭に触れて、背中に流している髪を一房、前に持ってくると。
「え、」
王宮魔術師らしく濃い紫の葡萄色であるはずのミネルの髪が、色が抜けたような淡い紫になっていた。
髪色の濃さは、魔力の強さを示すもの。まさかと思い魔力を確認するが、どうもそちらは変わりないようで、息を吐く。
「これ、髪色だけだ。魔力は使えるみたい」
「……そうなの。それなら良かったけれど、どうしてそうなったのかしらね」
お互いに首を傾げながら、ひとまずその日の調査は終了として、ミネルは上司の魔術師長のもとに報告へ向かった。
魔術師長の執務室の前で扉をたたき、入室を許可する返事をもらう。
重厚な扉を開けると、そこにはいつも麗しい魔術師長が窓を背にして書類に向かっていた。
歴代の魔術師長の中でも際立って若く才能がある現魔術師長は、その容姿もとても美しい。
天鵞絨のような艶のある深く暗い赤の髪は、特に魔術師から見ればその魔力量からも威圧感のある美しさで、金色の瞳がとろりと妖しさを添えている。
書類から顔を上げた上司は、ミネルの淡い紫の髪を見て、その美しい金色を軽く見張った。
「お前、それはどうした?」
「はあ、噴水の調査中に何か障りを受けたみたいで。色が変わっただけで、魔力に変化はありません」
「ふうん。ちょっとこっちに来い」
呼ばれて、ミネルが上司の近くへ寄ると、髪を一房その手に取られた。どうやら、部下を心配して診てくれるらしい。
金色の視線が、じっとミネルの髪に注がれる。
「…………不思議な気配ではあるが、確かに、魔力に影響はなさそうだな」
「はい」
「おそらく、ユノの魔術に妙な反応を起こしたんだろう」
「え、」
満足したらしい上司が離した髪に、ミネルは目をやる。本当に、淡い紫だ。まるで一般人といえるほどではないだろうか。
「しかし、そんな失敗は珍しいな」
「申し訳ありません……」
たとえユノの魔術が原因だとしても、あのとき注意を怠っていたのはミネルだ。自分でも情けないと思い、それでよけいに疲労を感じるので、謝罪の声も力のないものになる。
その様子を見た気遣いの上司は、疲弊した部下を不憫に思ったのか、休ませることにしたようだ。
「お前……。ちょっと王都へ出てお遣いに行って来い」
「え?それなら他に、」
「いいから。お前はちょっと外の空気を吸って来い。上司命令だ」
「…………はい、申し訳ありません」
「あー、いい。謝らなくていいから。悪いのは全部、連絡を寄こさなくなったあいつだ。お前にも苦労させて悪いな。ちょっと休憩して来い。しばらく帰って来るなよ」
この魔術師長は、とても部下思いの良い上司だ。自分も休みなど無いのに、こうして部下は休ませようとする。
しかし今は、その優しさが逆に辛いと思ってしまった。優しさを素直に受け取れないとは、相当に重症だ。
(これは、本当に疲れているかもしれない……)
それならいっそ、上司の言うように街へ出て気分転換をして来るべきだと、ミネルは諦めて王都へ出ることにしたのだった。
その日は素晴らしくいい天気で、疲れた目に太陽がまぶしかった。王宮内でも太陽は感じていたはずだが、外の風にあたるとこんなにも視界が開けるものなのかとびっくりする。
特にすることも思いつかなかったので、ミネルはなんとなく噴水広場のベンチに腰を下ろし、じゃばじゃばと吹き出す噴水をぼうっと眺めていた。
王宮の中庭の噴水ほどの優美さはないが、通常の水が問題なく出ているだけで、その正常な様子に安心できた。なによりここには、ユノが居ない。少しは癒やされるような気がする。
上司に頼まれたお遣いもあるが、それはミネルを外に出すための理由を作っただけだ。急いで済ませる必要もないだろう。
そうしてしばらく噴水前で時間を過ごしていると、焦がしバターの香りがふわりとミネルの鼻をくすぐった。
辺りを見回すと、広場の近くにパン屋がある。
ふと、そういえば朝から何も食べていないなと思ったミネルは、ようやくベンチから立ち上がり、パン屋へ足を向けてみることにした。
そこは、こじんまりとした佇まいの可愛らしい雰囲気の店だった。扉の横には、手書きで本日のおすすめメニューと書かれたボードが立てかけてある。
最近は王宮と家の往復ばかりだったので、こういう和やかな雰囲気は久しぶりだなと少し嬉しくなった。
中に入ってみても、やはり外観の雰囲気そのままの店だった。飲食用の机と椅子が二組ほどあり、店内はそれほど広くはない。落ち着いた、地元の人に愛される店という印象だ。
(……いい匂い…………)
店の中は、焼きたてパンの香りでいっぱいだった。大きくはない棚に、様々な種類のパンが並べられている。
その香りと光景だけで、ミネルはなんだか癒やされるようで、自然と頬もゆるむ。
その中から、サンドイッチをひとつ選んだ。
今は疲れ切っていて、それほどたくさんは食べられそうにない。どれも美味しそうなのに残念だなと、小さくため息を吐く。まあしかたない。
ぼんやりと手に取ったサンドイッチを見つめていたときだった。
「…………あの、よかったら、これもどうですか?」
遠慮がちにかけられた声に振り向いたミネルへ差し出されたのは、リボンで可愛く包装された小さな箱。
表面に、チョコレート、と書かれている。大きさからすると、数個ほど入っているだろう。先ほど見かけた棚に並んでいた商品だ。
そこから目線を上げると、微笑んでチョコレートを差し出している店員が目に入った。
袖や襟に赤の縁取りが入った白い制服を着ている青年で、前髪は帽子に収めて、さらりと長めの髪を後ろで一本にきっちり結んでいる。
ぱっと見で派手さは無いが、穏やかで、いかにもパン屋のおにいさんという印象を受ける、ミネルよりも少し年上らしき青年だ。
「なんだか、とてもお疲れみたいです……。そういうときは、美味しい甘いものを食べると元気になれますよ」
にっこり笑った青年は続ける。
「王宮の魔術師さんですよね?お仕事が大変ですか?いつもご苦労様です」
ミネルは、王宮魔術師の制服である黒に水色の縁取りのローブをそのまま羽織って出て来たので、王都の住人なら見れば所属はすぐに分かる。
「あれ、でも髪色が……」
青年の目がミネルの髪に注がれた。
そういえば、ミネルは今、魔術の障りで淡い紫の髪になっていたのだった。この色の薄さでは、王宮魔術師と言うには無理があるかもしれない。
「あ、……この髪は、」
だが、魔術の障りを受けているなどと一般人に言うのは躊躇われて、ミネルが言いよどんでいると、青年は優しく言葉をつないでくれた。
「可愛い色ですね」
「…………」
(可愛いって言われた……!)
目を見張って頬を赤くしたミネルは、もう自分の髪色が本当は違う色だと言うことはできなかった。
(これは、まずい……)
この青年は今の疲弊したミネルには危険だった。癒やしのオーラがすごい。
青年の持つこの雰囲気は、ミネルが今もっとも欲しているものだ。
取り返しのつかなくなる前に、ひとまずこの店を出て冷静になるべきだとミネルは判断した。
「あの、じゃあ、それもお会計をお願いします!」
決意の余韻で勢いよく言ってしまったミネルの言葉に、青年はきょとんと目を瞬いた後、ふわりと笑った。
「いやだな、これはサービスです。このチョコレートであなたが元気になってくれたら、それでいいですよ」
「え?」
「せっかく店に来てくれたのに、そんな疲れた顔で出て行かないでほしいですから」
悲しそうな笑顔を向けられ、青年が本当に自分のために心を痛めてくれているように感じてしまい、ミネルは言葉が出ない。
まるで自分に寄り添ってくれるようなこの青年の態度は、本当に危険だ。
ミネルの疲れた心が、それが欲しいと手を伸ばしてしまう。
「あ、でも、もし気になるようだったら、またうちの店に来てくれたら嬉しいです。そのときは、元気なあなたで」
ね、と言いながら、袋に入れたサンドイッチとチョコレートを優しく手渡してくれる青年に、自分の心に注意喚起していたはずのミネルは気づけば肯定の返事をしていた。
「……また来ます」
「ふふ、ありがとうございます。では、そのときは、是非このソールを指名してくださいね」
王宮勤めの魔術師が相手だからか、おどけて騎士のように胸に手を当ててお辞儀をする青年ソールに、ミネルは心の中で天を仰ぎ、もう駄目だと悟った。
「ソールさん、…………あ、私はミネルと申します。近いうちにまた、来ます」
「ミネルさん。はい、お待ちしてます」
見送ってくれたソールの笑顔も、やはり癒やしオーラでいっぱいだった。
パン屋を出たミネルは、すぐに上司のお遣いを済ませて王宮へ戻り、同僚のテーナのもとへ走った。
特攻魔術師ミネルは、決めたらいつも一直線である。
「テーナ!!」
「うわっ、ちょっと、どうしたのミネル?」
いきなり抱き着いてきた同僚を、テーナはよろけながら受け止めてくれた。
「テーナ!見つけた!私の癒やし!!」
「はあ?」
怪訝な表情で返事をするテーナに、ミネルは先ほどの運命の出会いを熱く語った。
「……なるほど。それでころっと落とされたと」
「這い上がれないほど深いところまで落ちたわ」
「…………、あなた、思い込み激しいものね」
「とにかく、ソールさんともっと仲良くなりたい!協力して!」
こうして、テーナを協力者に据え、ミネルのパン屋通いが始まったのだった。