小話:侍従ごっこ
「お帰りなさいませ、お嬢様」
仕事を終えた夕方。ミネルがソールの家の扉を開けると、穏やかな笑みをたたえた恋人からそんな出迎えを受けた。
「え?」
いつからそこで待っていたのか、ソールは入ってすぐの場所に姿勢よく立っていた。自宅の中であるのに髪をしっかりと結って珍しく前髪まで上げ、服装もかっちりしたシャツに黒いズボンを合わせていて、さりげなく品の良い青年となっている。
そんな風にいつもとは雰囲気を変えているソールは、それだけでミネルの目には輝いて見える。
「………………」
前髪を上げると印象が変わるのだなあと、ミネルがぼうっと見惚れていると、ソールは微笑んだまま台詞を続けた。
「仕事で疲れたあなたを癒やす栄誉を、わたくしにお与えいただけますか?」
ここでミネルが叫ばなかったのは、とてもきらきらしたソールにうっとりしていたことに加え、突然のことに戸惑いが大きかったからだ。もしも冷静に受け止めていれば、感情が爆発してミネルは力尽きていただろう。
「え、あの? ソールさん?」
状況が飲み込めずにおろおろと名前を呼べば、ソールの笑みが深まった。
「お嬢様。わたくしのことはどうぞ、ソール、と」
「え……、ソールさん?」
だがソールは、にこにこと笑うばかりで今度は返事をしてくれない。
もしや、ソール、と呼び捨てにしなければ、会話をしてくれないのだろうか。
(ど、どうしよう…………)
なにが始まったのか理解できないままに、それでもソールが望むのならばと、ミネルは力を振り絞ってその名前を口にした。
「そ、………………ソール、」
「はい、お嬢様」
輝かんばかりの笑みを向けられ、もうミネルの余力はわずかだ。
「あ、あの。これは一体なんなのでしょうか……?」
「ふふ。先日、お嬢様が侍従を気に入ってらっしゃるようだったので、こういった趣向はどうかなと思いまして」
ここでようやく、ミネルはこの事態の引き金を知った。
ミネルは王宮に勤める魔術師だ。だが、問題児であるユノと一緒に仕事をすることが多いために、あまり王族の居住する宮の案件へ関わることがない。
そんなミネルに、珍しく王族の付き人である侍従と仕事をする機会があったのだ。
普段は接することのない侍従という存在は、その優雅な物腰が素晴らしく、まさに貴人の付き人だなあと感心した。
そういう話を、先日ソールの家を訪れたときにミネルはしたのだ。そのときのソールは、にこにこと笑って話を聞いてくれていた。
確かに、珍しい存在と接する機会を得たことで、少し興奮気味に語ってしまったかもしれない。あのときの侍従は壮年の男性で、年齢を重ねた者らしい落ち着いた雰囲気がミネルには好ましかったのだ。
だが、だからといって、ソールにそうなってほしいとはもちろん思わない。
「いえ、あの、ソールさんはソールさんのままで、」
「ソール、ですよ。お嬢様」
呼び名を訂正するソールは、とてもとても楽しそうだ。
よく分からないが、ソールはこの侍従ごっこを気に入っているようだ。では、この遊びはまだ続けた方がいいのだろうか。
(王宮っていう非日常の場所に、興味があるのかな……?)
ミネルにとって王宮は職場だが、ソールからすれば非日常だ。以前にパンの配達にやって来たことがあるが、あのとき立ち入ったのは魔術師棟のほんの一部で、滞在時間もわずかだった。
今の、どこか上品な仕草や格好も、ソールが想像する侍従なのだろう。ミネルの話を聞いて、興味を持ったのかもしれない。
少しだけ状況を整理する余裕を持ち始めたミネルを、だがソールはさらに揺さぶってくる。
「さ、お嬢様。先にお食事になさいますか? それとも、わたくしと触れ合って休憩されますか?」
「ふっ、触れ合い……?」
前者の選択肢は理解できた。ミネルは仕事終わりにそのまま来ているので、もちろんソールと夕食を共にするつもりだった。
だが、後者の触れ合いとは。
「承知いたしました。わたくしとの触れ合いですね」
動揺して言葉を繰り返しただけなのだが、わざとなのかどうなのかソールはそれを意思決定だと取ったらしい。
足音を立てずに優雅に近づいてくるソールに、ミネルは思わず後退る。そろそろ心臓が限界だ。
「おや、怖がらせてしまいましたか? …………では、」
ミネルの動きを察したソールは足を止め、ゆっくりと両手を広げた。
「お嬢様から、どうぞ」
「…………っ」
それはつまり、その腕の中へ飛び込んで来いということだろうか。
この、いつもと雰囲気を変えている、とてもきらきらしたソールの腕の中へ。
「………………もう、無理です」
負荷が限界を超えたミネルがなんとか絞り出した儚い声に、ソールは破顔して最後の距離を詰めた。
ぎゅうっと抱きしめられて、くすくすと笑う振動が伝わってくる。
「ふふ。俺の勝ちだね」
いつの間に勝負になってしまったのか不思議だったが、この際なんでもいいと、ミネルは素直に負けを認めてソールの胸に顔を埋める。
そうすると、美味しいお菓子を作る繊細な手が、頭を優しく撫でてくれた。このぬくもりはいつものソールだ。ということは、ミネルの心臓への試練は終わったのだろうか。
「…………ソールさん、前髪を上げると雰囲気が変わりますね」
「そう? じゃあ、たまには上げてみようかな」
ためしに話しかけてみれば、通常通りの返答があった。
やはり侍従ごっこは終わったようで、ミネルはほっと安堵の息を吐いた。
「うー、いきなりだから、びっくりしました……」
「ふふ、ごめんね。ねえ、俺の侍従はどうだった?」
「すごくっ、格好よかったですっ!」
「やった。嬉しいな」
言葉どおり、ソールは嬉しそうに笑って、さらにミネルをぎゅうっと抱きしめた。
「ソールさん、王宮に興味がわいたんですか?」
「んー、そういうわけじゃないよ。さっきも言ったけど、ミネルが侍従を気に入っていたみたいだから、そういうのが好きなのかなと思って」
「え、…………」
ということは、これはミネルのための遊びだったのだと気づいて、ミネルはソールの胸に埋めていた顔を上げた。
「あ、あの。たしかに先日の侍従の方は好ましかったのですが、それは珍しさもあったというか。特に侍従が好みだというわけではありません」
「あれ、そうなの?」
「はい」
ふうんと呟いたソールは、認識を訂正してくれたようだ。ミネルを抱きしめていた腕を解いた。
「でも、けっこう楽しかったから、またやろうかな」
「…………私の心臓がもちません」
「あはは。じゃあ、夕飯にしようか。……それとも、俺との触れ合いにする?」
悪戯っぽく笑って差し出された手に、ミネルは自分の手を置いた。
「普通の侍従は、触れ合いなんて提案しません……」
「それはもちろん、ミネル専属だからだよ」
繋いだ手にソールの指が絡んで、くいっと引かれて共に歩き出す。
「……ソールさんと触れ合ってから、夕食にします」
「承知いたしました、お嬢様」
専属というなら好きなだけ堪能しても構わないはずだと、ミネルは前を歩く背中に思いきり抱きついた。
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