ブクマ100件お礼話:パン屋から見た魔術師
店の扉が開く音がしてソールがそちらへ顔を向ければ、入って来たのはひとりの女性客。
柔らかく巻いた葡萄色の髪を背中に流し、黒地に水色の縁取りという王宮魔術師のローブを羽織っているそのひとは、ソールの恋人ミネルだ。
「こんにちは」
「いらっしゃい、ミネル」
営業用の笑顔を自然と緩めてしまうソールに、ミネルが近づいて来る。その視線に込められた愛しいという感情に、ソールの心は浮き立った。
この恋人は最近、秋風の呪いというものを受けた。ミネルは王宮で魔術師として働いているので、そういったこともあるのだろうと理解はしている。
だが呪いを受けたと知るまでは、急に姿を見せなくなったミネルをただ店で待つばかりの日々だった。扉が開いて入ってくる人の姿を確認する度に、求めている恋人ではないことにソールは落胆していた。ミネルの同僚からようやく事情を知らされたとき、呪いという響きは魔術に縁のないソールにはずいぶんと重く、とっさにミネルの身を案じた。
秋風の呪いは、心配したようにミネルの身体に影響を及ぼすようなものではなかった。だが恋人への愛情が冷めるという、幸せだったソールを谷底へ突き落とすものだった。
思い返してみれば、ソールはそれまで、ミネルから好意的な目しか向けられたことはなかったのだ。だが、秋風の呪いで愛情の冷めたミネルは、ソールのことをひどく平坦な目で見つめてきた。呪いが解けた後、しっかり仲直りはしたが、その視線を思い出すと今でもソールは少し落ち込む。
だから、このようにミネルの視線に込められた愛情を再び感じられることが、ソールには嬉しくてたまらないのだ。
きっと自分は、とろけるほどに甘い視線を返しているのだろうなと思いながら、恋人を見つめると。
「…………あの、ソールさん」
「はい、なんでしょうか」
「その、あまり見つめられると、あの、ちょっと恥ずかしいというか…………」
ここお店ですし、ともごもご呟くミネルに、ソールはやりすぎたかなと目を瞬く。
ちらりと店の奥をうかがえば、店長がとても良い笑顔で頷いている。店長は自分の奥さんが店の客だったことから、ソールたちのことを他人事のように思えないらしい。これは後でからかわれるだろうから、うまく逃げなければならない。
ひとまず目の前の恋人が困っているようなので、ソールは気を取り直して商品棚へ案内することにした。
この続きは、また家で過ごすときにしよう。
ミネルは王宮に勤める人だ。それも、才能と実力が無ければ務まらない、王宮魔術師。本人はそのような素振りをまったく見せないが、王宮魔術師は上級官僚といえる立場だ。きっと、職場である王宮では有能な人たちに囲まれているのだろうし、ミネルも凛々しく働いているに違いない。
どうしてそんな人がソールのことを好きになってくれたのか。
その理由は本人から聞いたが、疲れきったミネルにあの日たまたま出会えたことは本当に幸運だった。あのパン屋での出会いより前から、ソールはミネルに好感を持っていたのだから。
その幸運に感謝しながら、今日もミネルとふたり、ソールは寛いだ時間を過ごす。
「休憩室でソールさんにもらったお菓子を食べようと思ったら、そこに上司がいて。おすそ分けしたら、あまりに美味しくて驚いていました」
「ああ、このまえ渡したクッキー?」
「そうです、ナッツとチョコチップの。歯ごたえがあって、チョコの甘さにナッツの香ばしさもあって、すごく美味しかったです……」
クッキーの味わいを思い出しているのか、ミネルがうっとりと目を閉じた。
チョコレートはミネルの好きなものの中でも上位に入る。それをナッツと一緒に練り込んで、クッキーとして焼き上げたのだ。
自分の作ったものをそんな風に喜んでくれることが嬉しくて、ソールはくすくす笑いながら恋人を引き寄せた。
「そんなに美味しかった? じゃあ、また作るね」
「はい! どこで買ったのかと聞かれたので、上司も気に入るほどだったみたいですよ」
ここで魔術師長の反応は特に聞いてはいないのになあと、ソールは笑みを深めた。
「……魔術師長さんは、休憩室にはよく来るの? たしか、自分の執務室もあるんだよね?」
「そうですね、よく休憩室でコーヒーを飲んでいるところを見かけます。上司は部下の様子をこまめに見る方なので」
ミネルの腰に回した手に、少しだけ力が入る。
それに気づいたミネルが、おやという顔をしたので、なんでもないよと首を振る。
「ミネルも一緒にコーヒーを飲んだりするの?」
「うーん、あまりお邪魔しても悪いので、呼ばれたときだけですね」
「呼ばれることがあるの……」
「どうも、ユノと一緒の仕事の後は気遣ってくださっているみたいで」
悪気なく問題を起こしがちな妖精の同僚と、ミネルは今も一緒に組むことが多いらしい。だんだんとその同僚の扱いに慣れてきたようだが、彼女が引き起こす騒動には振り回されているようだ。それを魔術師長も心配しているのかもしれないが。
こうしてミネルの話を聞いていると、魔術師長に目をかけられているようにソールには思えた。もしかすると、将来を期待されているのかもしれない。
だがそれもそうだろうなとソールは納得する。
ミネルが魔術を使うところを、ソールは数えるほどしか見たことはないし、どれも遠巻きに見かけただけではあるが。その姿はとても格好いいのだ。
普段は柔らかい表情をしていることの多い顔をきりりと引き締め、大きな魔術をいとも簡単に操ってみせる。その濃い葡萄色の髪に見合うだけの魔力をミネルは持っているのだということが、改めてよく分かる。
それに素直で可愛いから、部下として可愛がりたくもなるだろう。
「いい上司さんだね」
「はい! とてもいい上司です」
一点の曇りもないその笑顔に、ソールはなんだか意地悪がしたくなり、ミネルの頬へ手を伸ばす。
「…………えっ、な、なんで頬を引っ張られたのでしょうか?」
「んー、なんとなく……」
目を白黒させている恋人の頬を、ソールはよしよしと撫でた。
ミネルはわけも分からず意地悪されたことに不満そうだったが、お詫びに夕飯は好きなデザートをつけると言えば、素直な恋人はすぐに機嫌を直してくれる。
「じゃあ、プリンがいいです!」
「わかった」
ミネルはソールのことを癒やしだとよく言うが、それはミネルこそだろう。なんといってもミネルは、ソールへの好意を全身で伝えてくれるのでとても可愛い。
今のようなときでも、美味しいプリンを作るソールのことが大好きだとその目を輝かせているし、ご機嫌ですり寄ってきてくれる。
そんな恋人の頭を、そっと撫でる。
「ふふ、」
ミネルがくすぐったそうにふわりと笑う。
それなりに関係を深めてきた今でも、こうしてソールが少し触れただけでミネルは嬉しそうにする。そんな恋人が、ソールはとても可愛いと思う。
撫でていたソールの手が、ミネルの髪に挿された花の髪飾りに触れる。
これはまだ付き合う前、市場で偶然出会った日に、なにか意識してもらえるようなことをしたくてソールが贈ったものだ。当時の一生懸命な自分が少し懐かしくて、ソールは髪飾りをそっと撫でてみる。
パン屋で出会ってからしばらくの間、ミネルは髪色を淡い色に変えていた。だからソールは、その淡い色と本来の濃い色、どちらにも似合うものを選んだつもりだ。当時の選択は正解だったようで、暗めの緑色が艶やかな髪飾りは、葡萄色の髪によく映える。
それをミネルは、今も大事にしてくれている。こうして髪飾りをつけたミネルはそれだけで可愛いのだが、それがソールの贈ったものだと思うと、ますます可愛い。
だから思わず、そのまま抱きしめてしまう。
「ミネル…………」
「ふふ、どうしました?」
「うん、夕飯を作る前に、ちょっと休憩……」
ミネルを抱きしめると、柔らかいし、あたたかいし、抱きしめ返してくれるしで、ソールの心は愛しさでいっぱいになる。
抱きしめただけで幸せになれるのだから、癒やし効果は抜群だろう。
それに、とにかく可愛いのだ。
夕食の片付けを終え、幸せそうにプリンをすくうミネルの横で、ソールはコーヒーを飲んでいた。
ちらりと時計を見て、プリンを食べ終えたらミネルを帰さなくてはと考える。急かすつもりはないので、口には出さないが。
最近、ふと思うのは、ソールはミネルの家に行ったことがないということだ。
ミネルはソールの家に何度も来てくれている。外でデートした後も、最後はソールの家でゆっくり過ごすのが当たり前になりつつある。
だが、ソールの家で過ごすと、あまり夜遅くに外を歩かせたくないので、どうしても早めに別れることになる。もちろん送って行くが、それも大通りまでだ。以前に市場で出くわしたくらいだからミネルの家までそれほど遠くはないのだろうが、心配なものは心配だった。
その点、ミネルの家で過ごせば多少遅くなろうとソールは構わないから、もっと長く一緒にいられる。
それに、ミネルの私的な空間に入れてもらいたいとも思う。ミネルは全力で愛情を伝えてくれるので、家に呼びたくないのだろうかという不安はないが。
(ミネルのことだから、また変に考えすぎて言い出しかねているのかな……)
ミネルの考えはどうなのだろうと、たまにじっと見つめてみたりするが、いまいち分からないし、ソールの意図も伝わってはいないようだ。
今も、視線を向けてもミネルはプリンに夢中でこちらには気づかない。
ソールが言い出せばすむ話なのかもしれない。だが、ミネルをソールの家に招いたときは、ソールから行動を起こした。
だから今回はミネルから言ってほしいと思うのは、わがままだろうか。
だとしても、それくらいのわがままは許される関係だという自信がソールにはある。
「……まあ、まだ焦る必要はないかな」
つい口に出してしまった言葉は、隣の恋人の耳に入ったようだ。なにがですかと振り向くその口元にプリンのカラメルがついていて、それがあんまり愛しいものだから、ソールはそこへ唇を寄せた。
ブクマ100件のお礼話でした。
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