奪われて、奪われて……
「ヒル、コ?」
黒い何かがヒルコの身体を蝕み始める。
慌てて触手を引っ込めたが無理だった。
稲穂のナイフで切り裂くが浸食の方が速かった。
ヒルコの細胞に複雑に食い込み蝕んで行く、それは、先程まで私達の仲間だった……黴。
いや、黴自身に仲間としての意思はない。
彼らにとっては食えるか、喰えないか、それだけしかない。
食えれば繁殖し、喰えなければ宿にする。
それ以外の思考ほぼ皆無。
だから、例え先程まで仲間だったとしても、触れれば、喰らう。
「ヒルコ、ヒルコッ!!」
「有伽。……走って」
「……ヒルコ?」
「走って。私が時間を稼ぐからっ」
何を、言って?
ヒルコ? 待ってよ。なんで、なんで私から離れるの?
「走れ、走ってよ有伽ッ! 分かるでしょッ!」
見たことのない人型になるヒルコ。
見たことはないけど分かる。
その姿こそ、ヒルコの原型。
妖能力に目覚めて姿形を不定形へと変える前の、お淑やかそうで、髪の長い、可愛らしい女の子。
その少女が、切羽詰まった顔で私を睨む。
「走れ……走れよ有伽ッ! ワタシを犬死にさせる気かッ!!」
物凄い形相で叫ぶ彼女に、私は……私は弾かれるように走りだす。
待って、ヒルコ、ダメだよ。だって、あんたは、ずっと、ずっと私と一緒に居るって、真奈香みたいに死んだりしないって、言ったじゃんっ、言ったじゃんかッ!!
「走れ有伽ッ! 振り返るなッ! 走れ走れ走れぇッ!」
全身を黒く染め上げて、少女だったナニカが叫ぶ。
心の底から生まれた力強い叫びに、私の身体は意思と無関係に走りだす。
待って、ダメだよ。止まって。止まれよ私の身体ッ。ヒルコ居ないのに、なんで私の意思通りにならないのよっ!
……いや、違う。意思通りだ。逃げなきゃいけないってのは分かってるから。自分を今動かしているのは、ヒルコでも他の誰でもない。自分自身の意思だった。
眼から涙が溢れる。
本当なら、立ち止まりたい。ヒルコと一緒に闘って、母さんと玉藻を、けど、だけど……
ああ、畜生。なんで、私は……
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「そうだよ……それでいいんだよ、有伽」
走り去る有伽を見送り、不定形のナニカは呟いた。
一瞬にしていろいろと失って、前後不覚で動けなかった少女が動き出した。
だから、ナニカは笑顔で彼女を見送る。
「大丈夫、貴女が居る限り、大丈夫だから。だから……。まかせたよ」
逃げる少女を追うために、二人の処刑人が走りだす。
だからナニカは動くのだ。
食われながら、動くのだ。
彼女のために。
行かせないために。
生かすために。
不定形の身体を使い、広く広く、沼のように。
黒い黒い底なし沼に。
触れたら最後、全てを溶かす黴の沼。
さすがの玉藻もそこに入るのだけは躊躇する。
気にせず入った留美には、ナニカ自ら絡まり付く。
「おぉ!? 動けない!?」
「有伽が逃げ切るまで、ここに留まって貰うわ」
「いいの? あんた死ぬんだけど? それが、あの娘のための足止め? ヒルコという妖名だけの名も無き誰かさん、人生の最後、それでいいの?」
「ここに居るワタシができるのはそれだけだから」
「……そう。じゃあ、あんたが喰われ切ってからゆっくり行くわ」
そう言って、留美は追撃を諦めた。
ただ、その場に立ち尽くす。
両足を絡め取ったナニカが力尽きるその時まで、ずっと、ずっと静かに佇んでいた。
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「なんじゃのぅ……折角の妖が妖使いに肩入れして抹殺のマネゴトか。それでしてやられては、世話ないのぅ」
少女が居た。
狐の耳を持ち、ふさふさの尻尾をたゆたわせた少女が、横たわる男の傍で、座り込み、見降ろし、馬鹿にする。
「高梨有伽はどうじゃった? 主の眼鏡に適ったか? のぅ……ケンムン」
問われ、横たわっていた男はぴくりと動く。
「まさか負けるとは思わなかった」
男の声。それは確かに倒れた男のモノだった。
「安心せい、監視はもうおらん。主が死んだと早々見切りを付けて去っていったぞ」
少女の声に、ゆっくりと、身体に刺し傷のある男が起き上がる。
「にょほほ、主、ようもやられたのぅ」
身体を起こし、汚れた服の汚れを払う。
男、ケンムンは溜息一つ、身体をコキコキと鳴らし、全身を確かめる。
「全く、暗殺班の潜入任務もなかなか面倒だ。監視が一人一人に付いているとかやっとれん。殺したくない相手でも全力でやらんと殺されるのはこちらになるからな」
「じゃが、死んだと思えば即引き上げる。お仕事ご苦労さん、じゃの、止音の元に戻るのかや?」
「現状報告はせねばな。俺の役目も終わった。高梨有伽を殺さない程度に追い詰める、だったか? こんなところでいいのか? 俺以外が殺すかもしれなかったんだが? 今も死んでるかもしれんぞ?」
「妾に聞くでないわ。止音とやらのことは妾関わっとらんし? 妾は妖仲間の主がなんぞ面白そうなことやっとるから立ち寄っただけじゃし」
「そうか。俺は戻るが、お前はどうする? 葛之葉を名乗る妖よ」
「そうじゃの、この島におると妖狩りに遭いそうじゃし、とりあえずついていくかの。脱出じゃ脱出」
「そうか。お前の待ち人を待たなくて良いならば行くか。ファミレスで待ち合わせだそうだ」
「あそこでか。すぐ敵に見付かりそうじゃのー」
「黙れ。嫌なら来るな」
「にょほほ、嫌とは言うとらんわい。守るべき場所も潰れてもうたし、妾を縛るモノはないわい」
さっさと歩きだすケンムン。その後ろを狐娘はちょこちょこと小走りで追っていった。