瞳の奥までのぞかせて
末期患者用のホスピス病棟へ移され、二週間が経った。
その間、私を訪問する者はいない。
両親は既に他界している。彼らの死により、親戚との関係も自然消滅した。
そして唯一の家族である妻は、私が不治の病──そして残された時間もわずかだと知った途端、行方知れずとなった。
他に愛する男がいることは、薄々勘付いていた。
私との関係が、惰性であることも。
だから残念だったが、悔しさや憤りはなかった。いや、怒る余力が無かっただけか。
日々自由が奪われていく身体を叱咤し、ロビーへ赴く。
この静謐な鳥籠から出ることは叶わないけれど、動ける内に、出来るだけ歩いておきたかった。
それは病とは無縁だった頃、一度も感じなかった欲求である。
とはいえロビーでやることなど限られている。
煙草など、吸えるわけもない。
虚ろな目で備付のテレビを見ていると、人影が視界をかすめた。
振り向いた先に、彼女がいた。
病気とは無縁な、艷やかな髪と頬。きらめく瞳。しなやかな身体。
彼女は目が合うと、はにかみ会釈した。
私も医療関係者以外との久方ぶりの接点に、年甲斐もなく心をときめかせ、
「お見舞いの方ですか?」
自ら声を掛けた。ええ、と彼女は可愛らしい声で小さく言った。
誰かの見舞客であろう彼女とはその後も、何度かロビーで会話を交わし──そして気付けば、病室にまで訪問してもらえる間柄となっていた。
初めての訪問者に、私は浮かれていた。
それは酷く滑稽に映っただろう。
しかし彼女は穏やかに微笑み、私の語る薬と治療に塗れた陰鬱な日々にも耳を傾けてくれた。
諦めていた、静かだが煌めきを孕んだ日常が過ぎて行く。
「見ず知らずのおじさんまで気に掛けてもらって、すまないね」
「いえ。私もおじさまに声を掛けられて、救われたんです」
彼女は少し悲しげに笑った。
私たちが初めて出会った日、彼女は一般病棟に入院している友人を訪ねていた。
だが、大怪我によって消えない傷を負った友人は、彼女の励ましを突き放してしまったのだという。
拒絶の言葉にショックを受け、病院をさまよう内にホスピス病棟へ迷い込み──私と出会ったのだと言われた。
「だからおじさまに、優しい声で話し掛けてもらえて、とってもホッとしたんです。それに……おじさまの目が、彼に似ているので」
「そうだったのか」
ほんのりと頬を染める彼女に、私は苦笑した。彼とはきっと、大怪我を負った友人のことだろう。
恥ずかしそうな声音と仕草から、二人が友人以上の関係だと察する。
実のところ、わずかに嫉妬したのも事実だ。
だがそれ以上に、年若い、まだ未来ある二人が上手くいけばいいのに、とも思えた。
純粋に願えたのはきっと、彼女が日々、私が気まぐれに与えた以上の優しさを返してくれているからだろう。
その後も彼女は、彼を見舞った帰りに必ず、私の元を訪れてくれた。
人間とは現金なもので、入院当初はロビーに行くのも一苦労なほど弱っていた私の体も、「彼女と話がしたい」「彼女が幸せになるのを見届けたい」という欲求を抱き始めると、病状を持ち直したのだ。
医師たちにも驚かれ、そして称賛された。
だが、それも一時のあがき。
どれだけ強い願いを支えにしても、病魔の進行を打ち破るには至らなかった。
とうとうベッドから起き上がれなくなった私のそばに、今日も彼女が来た。これが最期になるかもしれない、と私は漠然と感じていた。
「残念だよ。実はね、君が友人君と仲良くしている姿を、一度で良いから見たかったんだ」
「おじさま。そんなこと言わないで。また明日も、明後日も、お見舞いに来ますから」
潤んだ瞳で健気にほほ笑む彼女に、私はかすかに首を振る。
「分かるんだ。自分の体だからね。もう限界なんだ……君の幸せを見届けられないのが、本当に残念だよ」
精一杯、私は笑った。せめて哀れに見えないよう。
「いいえ、おじさま。方法はあります」
だが強い意志のこもった声が、私の情けない見栄を退けた。
重たくなった頭を持ち上げると、彼女は涙をぬぐい、爛々と輝く瞳で私を見据えていた。
何故だろう。獲物を狙う肉食獣の姿と、彼女が重なった。
「ねえ、おじさまの目を一つ頂けませんか? 彼、大怪我で片目を失ってしまったの。おじさまの目を移植すれば、その目はこれからも生きていけるでしょう?」
彼女の提案は、無茶苦茶なものだった。
「それは……気の毒だが、しかし……眼球の移植だなんて、聞いたことがない、上手く行きっこない」
角膜の移植なら、聞いたことがある。しかし彼女の願いは、それよりもずっと貪欲だった。
必死に首を振る私へ、彼女は泰然と笑う。
「大丈夫です。だって前に言ったでしょう? おじさまと彼の目は似ているの。だからきっと、上手く行くわ」
論理性など破綻した根拠だ。
だが上気する彼女の表情は、狂気をたたえてなお美しかった。
ああ、そうだったのか。
彼女はホスピスに迷い込んだのではない。
この病棟は他の施設から切り離された、敷地内の最奥にある。最初から、彼女は自らの意思でここを訪れていたのだ。
訪れた理由は当然、失くした眼球の代用品探しだ。
私が今までその考えに至れなかったのはきっと、私自身が彼女に迷わされていたからだろう。
だが、彼女の想い人に眼球を明け渡し、その眼球はずっと彼女を見つめ続ける。
その提案を馬鹿げていると思いながらも、酷く魅力的に感じる自分がいた。
ぼんやり考える私へ、彼女が何かを振りかざした。
それがアイスピックだと気づいた瞬間にはもう、私の意識も視界も、赤く染まっていた。
結局私は、彼女に迷わされたままだった。