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誘われる男

作者: 三坂淳一

『 誘われる男 』


 今年も、『じゃんがら』の季節が巡って来た。

 私にとって、八月の夏は『じゃんがら』の夏を意味している。

 『じゃんがら』。

 正式に言えば、『じゃんがら念仏踊り』と言わなければならないが、私が住んでいる街では、単に『じゃんがら』と縮めて呼んでいる。

 『じゃんがら』は新しく死者となった人を新盆で(まつ)る民俗芸能である。

 『じゃん』は(かね)であり、『がら』は太鼓(たいこ)を意味するのだそうだ。

 鉦と太鼓を打ち鳴らし、念仏踊りを舞い踊る、いわき市周辺の民俗芸能である。

 歴史はかなり古い。三百五十年ほど(さかのぼ)る。

 千六百五十六年を起源とするいわき市在住の民俗研究家も居る。

 江戸の明暦(めいれき)年間であり、江戸の市中を焼き尽くしたと言われる明暦の大火、別名振袖(ふりそで)火事の前年にあたる。

 それは、新盆を迎えた家に夕暮れと共に、(おとず)れる。

 真夏の太陽もその勢いを失くし、あたりが薄暗くなり始めた頃に、チャンカ・チャンカと、道中(どうちゅう)太鼓と呼ばれる太鼓と鉦の音と共に、その一行は忽然(こつぜん)と現われる。

 鉦の音は陽気な音で響いてくるが、同時に、紅く染まった夕闇の空を鋭く切り裂きながら近づいて来る。

 新盆の盆飾りで飾られた家の軒先に、提灯(ちょうちん)を持った羽織、浴衣(ゆかた)姿の男が入って来る。

 その提灯は、中に蝋燭の火が灯され、頼りなげな光を周囲の夕暮れに揺らめきながら鈍く放っている。

 提灯に照らされた男は死者を(いた)むかのように、沈鬱そうな表情を(たた)えている。

 提灯持ちの男の後ろから、三人ほど、浴衣姿で長い(しろ)(だすき)を掛けた太鼓持ちが現われる。

 太鼓は腰のところから吊るされ、男たちの太ももあたりで揺らいでいる。

 太鼓持ちの後から、鉦を左肩に掛け、丁子(ちょうじ)()を持った、やはり(たすき)掛けで浴衣を着た男たちが十人ほど列を作って、薄暗がりの中から現われる。

 家の中庭あたりで浴衣姿の集団が整列するのを待って、一番先に入って来た提灯持ちの男が新盆の家の人に提灯を軽く上に掲げて挨拶をする。

 それから、提灯持ちが家の中に上がり、精霊(しょうりょう)(だな)位牌(いはい)の前でお線香を上げる。

 提灯持ちが家の中から庭先に下り立ち、庭の片隅に控えるのを待って、太鼓持ちが中央に進み出て、太鼓を鳴らす。

 鉦を持った男たちが歌いながら、太鼓に合わせて左回りにゆらゆらと踊り始める。

 その歌詞は掛け声と唄という二つの歌詞に分かれる。


 (掛け声)

 ハーハーハイ、モーホーホーホイ、ナーハー、ハーハーメー

 ※ アセー、サーヨー、ホイ、モーホーホーサーエー

   コリャナー、ヨーホーホーホイ、ナーハーハー、メーサーエー


 (唄)

 盆でば 米のめし おつけでば なす汁 十六ササゲのヨゴシはどうだい

※掛け声繰り返し


踊りおどるのは 仏の供養 田の草とるのは 稲のため

※ 掛け声繰り返し

 

閼伽井嶽から 七浜見れば 出船入り船 大漁船

 ※ 掛け声繰り返し

 

誰も出さなきゃ わし出しましょか 出さぬ船には 乗られまい

※掛け声繰り返し


いわき平で 見せたいものは 桜つつじに じゃんがら踊り

 ※ 掛け声繰り返し

 

アコリャ ブッツケナンショナー ハイ モーホーホーサーエー

 ※ 掛け声繰り返し


 一通りの念仏踊りが済むと、(かね)(たた)きは踊りを止め、太鼓に合わせて鉦を叩き出す。

 鉦敲きの男たちは鉦を調子よく叩きながら、拍子を取って輪を作りながら後ずさりしながら右回りに回る。

 ひとガラ(一曲)済むと、先に来た時と同じように、提灯持ちを先頭にして、一行は道中太鼓を打ち鳴らしながら、夏の深い闇の中に消えて行く。

 闇の中に姿を消して行く(さま)はさながら、冥土に帰って行く死者の列のようにも思える。

 後にはただ、夏の夜の()(だる)げな静寂だけが残る。

 真夏の夜の静寂は深い。


 お盆の前日、実家の隣にある良夫叔父の家に立ち寄ってみた。

 今年の春先に亡くなった良夫叔父の家は新盆を迎える準備に入っていた。

 地元の青年会の会長を長く務め、また現職の市会議員であった叔父だけあって、新盆の手伝いに駆けつける人は多かった。

 良夫叔父は胃がんで亡くなった。

 享年四十という若さだった。

 若く、それまでは病気一つしなかった頑健な体の叔父を(むしば)む癌の進行は早く、昨年の年末に癌が発見された時にはもう末期の癌と宣告され、四ヶ月ほどの闘病生活を送った後、本当にあっけなく、この世を去った。

 由美子叔母は手伝いに来る人に茶菓子を出し、お茶を()れたり、接待で忙しく立ち居振舞っていた。

 奥の座敷には親戚の女たちが何人か座って、お茶を飲みながら、かしましくお喋りをしていた。

 「ねぇ、ほんとに癌って怖いわねぇ。良夫さん、癌が人間ドックで見つかった時には、もう末期癌で手の打ちようが無かったんですって」

 「未だ、四十という若さで亡くなるなんて、本人もさぞかし心残りだったでしょうね」

 「良夫さんは四十、ここに居る紀美子(きみこ)さんのご主人は何歳で亡くなったのかしらん。もっと若かったと思うわ。ねぇ、紀美子さん?」

 旧姓小林、今は小野という苗字になっている紀美子も来ていた。

 「うちの主人? 三十五よ」

 「そうよねぇ。三十五歳で亡くなるなんて。お可愛そうに。新妻の紀美子さんと赤んぼだった正樹ちゃんを残してねぇ。でも、早いものね、もうかれこれ十年になるもの」

 「十一年になるわ」

 「そう言えば、紀美子さん。再婚する気は無いの。もう、小野の家に義理立ては無いと思うけど。だって、(しゅうとめ)の民江さんも去年亡くなったし、ねぇ」

 「民江さんも、あんなに元気だったのにねぇ。少し、肺炎をこじらせたばっかりに」

 「おばさん、私、再婚する気、あるわよ。いい人さえ、現われれば」

 「紀美子さんなら、引く手あまたよ。こんなに若くて、美人なんだから」

 「紀美子さん、何なら私、何人か紹介しましょうか? あなたなら、絶対、話はすぐ纏まるわよ。子持ちでも大丈夫。あたし、太鼓判押すわ」

 「あら、本家の健一さんが来たわねぇ」

 「ほんと、随分と大人になったこと」

 「健一さん。お久し振り、こちらにいらっしゃいよ」

 「健ちゃん、こっちへいらっしゃい!」

 「まあ、紀美子さんったら、そんなに威張って」

 「昔のままねぇ、紀美子さんったら。健一さんを弟扱いにして」

 「弟じゃ、なくて。昔は子分だったのよ、健ちゃんは。ねぇ、健ちゃん、そうでしょ」

 「おばさんたち、お久し振りです。紀美子姉(ねえ)さんには(かな)いません。いつまでも、腰ぎんちゃくの子分扱いですから」

 「そうよ。小さい頃からの約束なの。健ちゃんは一生、私の子分よ」

 紀美子は白の地色に(すず)牡丹をあしらった浴衣を黄色の伊達(だて)〆(じめ)で締めていた。

 髪はまとめ髪というのであろうか、後ろでまとめ、白い襟足を覗かせていた。

 白い滑らかな首筋に、ほつれ毛が数本かかり、官能的な美しさを見せていた。

 紀美子に手招きされ、私は紀美子の隣に座った。

 浴衣から立ち上って来る紀美子の甘い体臭が私の嗅覚を(くすぐ)った。

 昔と同じだ、紀美子は昔と同じままだ、と私は軽い眩暈(めまい)を覚えながら、そう思った。

 「健ちゃんったら、ほんとに水臭いんですよ。四月に帰って来たというのに、今まで私に何の挨拶も無くて知らんぷり」

 「いろいろと、忙しくって。何せ、新入社員で会社では未だ実習中の身ですから」

 「言い訳は無し。この紀美子お姉さんに何の挨拶も無いなんて、許されることじゃ無いのよ」

 「まあ、まあ、紀美子さん。そんなに、とんがらないでよ。健一さん、とても困った顔をしていますから。○○高校のエース・ピッチャーも形無しねぇ」

 「ほんと、紀美子さんは高校生の頃と変わらないわねぇ。十一の子供も居る母親とはとても思えないわねぇ」

 「でもね、おばさん。私は今三十二で、健ちゃんは七つ下だから、今二十五歳よ、ねぇ。でも、健ちゃんの顔を見ると、私、十歳とか十五の頃に戻ってしまうのよ。あの頃はほんとに楽しかった。健ちゃんが居たし、道夫ちゃんも居た。俊ちゃんも居たし、美紀ちゃんも居た。裏山でみんなの小屋を作って、中で漫画を読んだり、ゲームをしたり。私は一生このまま、健ちゃんたちと一緒に居られたらいいなあ、といつも思っていたのよ」

 紀美子の話を聞きながら、私もいつしか、紀美子たちと過ごしたあの頃、楽しかったあの頃の自分に戻っていった。


 今もはっきりと覚えていることがある。

 小さい私にとって、それは大きな出来事であり、事件だった。

 それは、私が小学校に入学した年の夏休みのことだった。

 紀美子に連れられて、私たちは近くの海水浴場に出かけた。

 いわき市は市内に七つの大きな海水浴場を持っている。

 いわき七浜と言われる由縁だ。

 その他にも、小さな浜辺、磯を含めると、長く広がる海岸線の殆どが、水遊びが出来る行楽地となっている。

 私たちのグループは中学二年の紀美子を筆頭として、佐藤俊二が小学六年、馬上美紀が小学五年、比佐道夫が小学三年、そして私が一番年少で小学一年という五人であった。

 この五人が隣近所の遊び友達だった。

 紀美子がボスで、後の四人が手下という関係だった。

 俊二が副ボスになりたがっていたが、紀美子にすげなく却下され、そのまま手下に甘んじることになった。

 五人しか居ないのに、副ボスなんて必要ないわ、私一人がボスで十分よ、というのが紀美子の言い分であり、俊二を除く全員がもっともな話だと思い、紀美子に従った。

 私たちは浮き浮きとして路線バスに乗り、海水浴場に向かった。

 美紀の親戚の家で着替えをして、私たちは元気よく浜辺に飛び出して行った。

 真夏の太陽が照りつける浜辺には沢山の人が居り、ボールで遊んだり、砂遊びをしたり、波打ち際で水をかけたりして、夏の浜辺の遊びを楽しんでいた。

 「紀美ちゃん、ナイスバディ! かっこいい!」

 俊二がませた口振りで紀美子を冷やかした。

 紀美子はスクール水着ではなく、大人が着るような形の水着を着ていた。

 私の眼には、長身の紀美子は一人の大人の女性に見えた。

 暫く、波打ち際でボールの投げっこをして遊んでいたが、ふと気が付くと、道夫が居なくなっていた。

 紀美子を始め全員で、遊んでいた周辺の浜辺を探したが、道夫は居なかった。

 私たちの顔は徐々に青ざめて行った。

 「どうすっぺ、紀美子ちゃん。道夫が居ないよ。海にさらわれたのかなぁ」

 俊二が震える声で紀美子に言った。

しかし、紀美子はしっかりしていた。

「そんなことはないわ。海にさらわれたなら、監視所の人が気付くはずだもの。きっと、浜辺のどこかに居るはずよ。みんなで手分けして探しましょ!」

 集合場所と時間を決めた上で、広い浜辺を手分けして探すこととした。

 私はまだ小さかったので、迷子になる恐れがあるということで、紀美子が私を連れて探すこととなった。

 紀美子は私の手をしっかりと握り締めて、分担した方を小走りで駆けながら、道夫を探した。

 しかし、道夫を発見することは出来なかった。

 やがて、決めてあった集合の時間が来て、集合場所に戻ってみたが、誰も道夫を発見していないということが分かった。

 美紀がおろおろと半べそをかき始めた。

 その内、紀美子は思いついたらしく、一人で監視所の方に走って行った。

 やがて、迷子連絡のアナウンスが監視所のスピーカーから浜辺一帯に響いた。

 そして、十分ほど経った頃、道夫がしょんぼりとした顔で監視所に現われた。

 紀美子が眉を吊り上げた不機嫌な顔で(たず)ねてみると、浜辺で遊んでいる時に学校の仲良しと会ったので、その友達と一緒に、遠くの磯の方に行って蟹を取っていたのだと答えた。

 道夫は、紀美子に頭をコツンと叩かれ、ごめんよ、と泣きそうな顔でみんなに(あやま)った。

 私は道夫が波にさらわれたのではないかと思い、ドキドキしていたが、道夫の顔を見た時は本当に嬉しかったことを今でも記憶している。

 これは幼い私にとっては、胸をドキドキさせた大きな事件だった。

 道夫失踪事件で私は疲れてしまい、帰りのバスの中で、私はぐっすりと眠ってしまった。

 目が覚めてみると、私は紀美子の肩に凭れるようにして眠っていた。

 紀美子は目を覚ました私の頭を撫でながら、ニッコリと微笑んだ。

 その晩、日焼けした膚が痛くて、お風呂には入れなかった。

 しかし、布団の中で、何かひとつ、大きな冒険をしたかのような心持ちがしてなかなか寝付かれなかったことも懐かしい記憶として残っている。

 

 私は紀美子を、紀美子お姉ちゃん、或いは単に、お姉ちゃんと呼んでいた。

 私の家と紀美子の家は遠い親戚であるとは言われていたものの、ここ何代かは特に血の繋がりと言ったものは無く、お姉ちゃんと呼ぶのは適当では無かったであろうが、いつの間にか、私は自然と、隣の家の紀美子のことをお姉ちゃんと呼んでいた。

 もしかすると、紀美子がそう呼ぶように幼い私に強要したのかも知れない。

 私は中学校あたりまで、紀美子のことをお姉ちゃんと呼んでいた。

 高校生になった頃からは、さすがに、お姉ちゃんとは呼べず、いつしか、紀美子ちゃんか、紀美子さんと呼ぶようになった。

 私がお姉ちゃんと呼ばず、紀美子ちゃんと呼んだ時の紀美子は少し複雑な表情をした。

 一瞬、怒ったような顔をした。

 それから、ふぅーと、ひとつ溜息を()いて、しょうがないと諦めたような表情になった。

 紀美子が怒ったような顔をした時、正直に言うと、私は胸が締め付けられるような思いをした。

胸が急にドキドキと高鳴った。

怒ったような表情が消え、諦めたような表情になった時、私の心も平静さを取り戻した。

今から思えば、その時、その瞬間が、少年から脱皮した時だったのかも知れない。

七つ下の弟のような存在から、七つ年下の一人の男になった時だったと思っている。


いったい、私はいつから紀美子という存在を知ったのであろうか?

物心とやらがつき、紀美子という存在が私の生活の中に入り込んで来たのは、幼稚園の頃だったかと思う。

その前はどうも覚えていない。

小学校入学前の六歳の時、紀美子は既に中学の一年だった。

いきなり、私の前に現われた紀美子はセーラー服を着た美しい女の子であった。

中学のセーラー服を着た紀美子は本当に美しい少女だった。

自信ありげな表情で少し微笑み、私を見た紀美子は私にチョコレートを一かけら呉れた。

私は、ありがとうと言って、素直にそれを貰い、口に運んだ。

甘いが、少しほろ苦かった。

それ以後の記憶はとても鮮明だ。

紀美子は近所の子供たちには女王様として振舞った。

美しい顔立ちだったが、気は強く、何をするにも自分が一番で無ければ気が済まない性分であった。

女のガキ大将だった。

私のことは健ちゃんと呼んだ。

小学校に入学した頃、私は紀美子から宣言された。

「健ちゃんは私の子分よ。何かあったら、私に言ってくるのよ。私が何とかしてあげるから。いいこと、健ちゃんは大きくなっても、私の子分なのよ。忘れないでね」

私は今でも、そう宣言した時の紀美子の顔を覚えている。

私の肩を両手でしっかりと掴み、眼をキラキラとさせながら言ったのである。

私は思わず、頷いてしまった。

紀美子は私の従順な反応に、満足そうな笑みを浮かべた。

頭も良く、通った中学では一番を通し、中学卒業後は市の中心にある、その地域では名門の県立女子高に入学した。

但し、高校での成績はそれほどでも無かったらしい。

無理も無かった。

その高校に入って来る女の子は全て、中学の頃はクラスでトップクラスの女の子ばかりだったから。

或る時、紀美子の評判を聞いたことがある。

私が市立中央図書館に本を借りに行った時のことだ。

本をいろいろと物色しながら歩いている時、二、三人の男子高校生の会話が聞こえて来た。

その男子高校生はやはり名門とされる県立男子高の生徒たちだった。

私が住んでいる地域では、男はその男子高、女は紀美子が通っている女子高に入るというのが子供を持った親たちのひそやかな願いともなっていた。

「おい、見ろよ。あの子が居るぜ」

「しかし、すっげえ、可愛い子だよな」

「ほら、タレントの東ちづると似ているんじゃない?」

「いや、もっと綺麗かも知れない」

「通学の電車の中でも評判の女の子だよ」

「彼女の乗る電車に合わせて乗る生徒も結構居るってさ」

「そう言ってる、お前がそうじゃん」

「お前だって、そうだろ」

「あの女子高でピカイチの子だってさ」

「顔、スタイル、それに頭も良しか。天は二物を与えず、と言うけれど、例外もあるんだよな」

「ボーイフレンドは居るのかい?」

「居ないっていう話だ。あまり美人だと、男は遠慮して寄って来ないものさ」

進学校の生徒にしては、あまり知性を感じさせないお喋りだったが、私も小学生ながら興味を惹かれ、話の対象となっている方向に視線を向けた。

そして、驚いた。

そこに立っていたのは、ほかならぬ、紀美子その人だった。

右の額から左の眼の方にかけて少し髪を垂らし、細面(ほそおもて)の白い顔を横に見せて立っていた。

小学生の私も思わず見惚(みと)れるくらい、紀美子は綺麗で輝いていた。

少し、誇らしく嬉しい気持ちになったものだ。

紀美子が十六歳、私が九歳の頃の思い出である。


 「小林の家には、ひいお爺さん、つまり長太郎爺様の叔父さんが婿に行ってね。そう、名前は何と言ったか、・・・。そうそう、吉次郎さんと言ったよ。その叔父さんが婿に行きました。小林の家の娘のちかさんと夫婦になって、一男一女に恵まれ、婿としての役割は果たしたものの、四十にもならぬのに、脳卒中で死んでしまったとか。お酒が大好きで、結局はそれが寿命を縮めたということですよ。健一も、お酒には十分注意しておくれ。酒は百薬の長でもあるけど、気狂い水とも言うからね。とにかく、度を越したら、いかんのよ。吉次郎さんも頭も良く、男が良かったという話ではあるものの、酒好きが祟ったわけで、酒を飲んでお風呂に入って、それっきりになってしまったということです。紀美子ちゃんの旦那様は酒を飲まない方だったけれど、親戚の家の新盆に呼ばれて行って、そこでお酒を飲み過ぎて、その晩に急死してしまったもの。確か、くも膜下出血であったかねぇ。紀美子ちゃんには本当に気の毒なことだったわねぇ」

 いつだったか、鈴木の家と小林の家の関係について、私が祖母の美代ばあちゃんに尋ねた時の返事はこのようなものだった。

 祖父の宗太郎じいちゃんもお茶を(すす)りながら、こう話しを続けてくれた。

 「小林の家の娘は昔から器量良しが多くてな。吉次郎さんもいい男だったせいか、娘は別嬪だったそうじゃ。近在でも評判の美人で、金持ちの商家に嫁ぎ、吉次郎さんが早く亡くなって、小林の家が左前になった時、いろいろとお金を工面して送り、家を支えたという話だ。また、嫁も器量良しが来る家で」

 「おじいさん。悪うございましたねぇ。鈴木の家に来る嫁は器量が悪くて」

 美代ばあちゃんが宗太郎じいちゃんの湯飲みにお茶を継ぎ足しながら、口を尖らせて言った。

 「いや、お前は器量良しじゃよ。別嬪(べっぴん)さんだから、わしは嫁に貰ったんじゃから。お前は愛嬌もあってのぅ。じゃんがらの唄の文句にもあるわね。ほれ、このような文句だっぺ。踊り踊るなら、しな良く踊れ、しなの良い娘は、嫁に取る。健一、分かるか。しな、というのは愛嬌ということじゃ。・・・、はて、どこまで話したかのぅ。途中で、ちゃちゃを入れられると、どこまで話したか、忘れてしまうがね。そうそう、思い出した。嫁が器量良し、という話じゃった。その良い例が、紀美子さんのお母さんの美知子さんだ。縁があって、秋田から純一のところに嫁に来たそうだが。秋田美人の典型で、色が白く、餅肌で、あの頃、ひとしきり、評判になった嫁であったわ。純一は勤め人で、それほど裕福では無かったと思うけど、結婚式は盛大じゃった。かなり、借金もしたようであった。嫁に来た頃の美知子さんは、テレビで観るあの演歌歌手、何と言ったか、あっ、そうそう、藤あや子に似た美人だった。眉が綺麗で、ぽってりとした唇で。少し、流し目で人を見る癖もあり、それが色っぽいと、健一、お前のお父さん、正男もひとしきり、純一を羨ましがっていたものよ」

 「おじいちゃん。紀美子ちゃんも高校生の頃、男子高校生の間で評判になっていたよ」

 「ああ、そうだろうなぁ。紀美子ちゃんならば、そうだっぺ。健一、お前も男がいいから、もう少し年が近かったら、紀美子ちゃんとは似合いの夫婦ということもあり得たかも知れないねぇ」

 「おじいさんは、男だから、そういう風に見ますけれど、女のあたしゃ、反対ですよ。健一にはもう少し堅実なお嫁さんのほうがいいと思いますよ。確かに、紀美子ちゃんは美人ですけれども、女の眼から見たら、危なっかしくて見ちゃ居られませんよ。健一には紀美子ちゃんほどのとびっきりの美人ではなくとも、いっぱい相応(ふさわ)しい人が来ますよ」

 「時に、健一、好きな人は居るのかい? お前も二十歳だし、大学生であるし、恋人の一人や二人、居ても不思議はないけれど。そうそう、じゃんがらにはこんな文句もある。鍋釜売っても、良い(かか)持てよ、良い嬶持たねば、一生損だよ」

 「おじいちゃん。居れば、夏休みになって、こんなに早く、すぐには帰って来ませんよ。仙台七夕祭りでも好きな人と二人で観てから、ゆっくりとこっちに帰って来ますよ」

 「それもそうだっぺかや。おばあさん、どうも健一は正男と同じで、晩生(おくて)のほうだよ。正男も堅いほうだったから。わしに似ないで」

 「でも、正男は由紀さんという良いお嫁さんを貰うことが出来ましたよ。決して、美知子さんに引けをとってはいませんよ」

 ふと、私は紀美子のことを思った。

紀美子の夫であった小野信一に私は好意を持ってはいなかった。

全ての面で、紀美子とは不釣合いであるとさえ、子供心にも思っていたのだ。

紀美子が結婚したのは東京の短大を出てすぐの時で、まだ二十歳の頃だったかと思う。小野信一は十四も年上で三十四歳だった。

私は、当時は十三歳の少年で、中学で野球をやり始めた頃だった。

小野信一を紀美子が選んだ理由が私には理解出来なかった。

齢も離れているし、紀美子より背も低く、エネルギッシュで精悍な感じを与える男ではあったものの、どちらかと言えば、醜男の範疇(はんちゅう)に属する男だった。

紀美子には、綺麗な男と結婚して欲しかった。

しかし、小野信一には財産があった。

家業は土建屋で数十人の従業員を抱え、羽振りの良い社長だった。

私は紀美子の極めて打算的な一面を知った。

不愉快で嫌悪すべき一面だった。

紀美子は贅沢な暮らしが好きな女だったのかと少し幻滅を感じたものだった。

その反面、私はお金さえあれば、紀美子のような女性と結婚出来るのかとも思い、今から考えると甚だ幼稚ではあったものの、上昇志向の動機付けとはなった。

高校は進学校に入り、良い大学に入り、良い会社に就職し、重役となってお金持ちにな

る、という、今では笑い話になってしまうが、そのような幻想も抱いた。

私は、紀美子の結婚のおかげで、野球と共に、よく勉強もする中学生に変身した。


 中学の一年、二年は野球で明け暮れた。

  私自身、小学校の頃はサッカーの方に魅力を感じていたが、野球で自分がエース・ピッチャーとして投げるとなると話は別だった。

 まして、勝つも負けるもピッチャー次第という弱小チームなら、なおさらヤル気が違う。

 私は野球にのめり込んで行った。

 野球、そして野球、また野球、最後にしょうがなく勉強、といったスタンスだった。

 それでも、勉強の方は自分で言うのもおこがましいが、授業だけを真剣に聴いていれば、学年のトップクラスを維持するのは簡単だった。

 球種はストレートとカーブの二種類に磨きをかけた。

 ストレートの球速はそれほど出なかったが、私のボールは回転が綺麗な回転をするということで、伸びのあるボールを投げることが出来た。

 シュートは投げなかった。

 「健ちゃん、シュートは必要ないわ。それに、シュートを投げ過ぎると、肘を痛めるというじゃない。シュートは高校に取っておきなさい」

 紀美子は私たちの学校が出る試合はほとんどと言ってよいほど、観戦に来た。

 試合が終わると、汗びっしょりの私をつかまえ、あれこれとうるさく批評した。

 へとへととなっている私をつかまえ、()めたり(けな)したり、忙しい女だった。

 チームの仲間たちは紀美子を私の実の姉と思っていたようだ。

 「健一の姉さんって、凄い美人だなぁ。俺もあんな美人の姉さんが欲しいよ」

 「お前の姉さんも綺麗じゃないか」

 「いやいや、健一の姉さんと比べたら、月とスッポンさ。比べられないよ」

 「健一はいつも、あの姉さんに激励されたり、怒られたりしているのか。怒られてもいいさ、あの姉さんなら、怒った顔も超美人だものな。次は死ぬ気で頑張る気になるよ」

 二年になって、市の中学野球大会では私はさんざんの出来で簡単に打ち込まれ、優勝候補の一つであった私の中学は早々に敗退した。

 紀美子が丁度お産となったため、試合を観に来ることが出来なかったのも、あまり言いたくはないが、私の不調の原因の一つだった。

 試合前から、紀美子のお産が心配で、どうも今いち気分が乗らず、何となく変だなと思いながら、試合に臨んでしまった。

 案の定、ストレートは走らず、カーブも曲がらず、コントロールもばらつく、といった様で打たれる度、チームのみんなに悪くて、マウンドで身の縮む思いをした。

 後で、紀美子からこっぴどく叱られた。

 「健ちゃん、あなたは、精神力が弱いのよ、精神力が。私は観に行けなくとも、あなたに念を送っていたのよ、念を。ああ、嫌だ、こんな健ちゃんは、本当に不甲斐ない、嫌だ、嫌だ。もっと、遣れる健ちゃんだと思っていたのに」

 私は試合の時以上に、身が竦む思いだった。

 紀美子のお産はことのほか安産で済んだが、紀美子には大きな不幸が待ち構えていた。

 紀美子の夫の信一さんが急死したのだ。


 紀美子の夫の信一は親戚の家の新盆に出向き、少し酔って帰宅してからすぐ、家で倒れた。

 救急車に乗せられて、救急病院として指定されている市内の病院に運ばれたが、脳内出血がひどく、朝方に亡くなった。

 享年は三十五という若さで、死因はくも膜下出血とのことだった。

 紀美子は嫁いで一年と少しで未亡人となり、後には正樹という生まれたばかりの男の赤んぼが残された。

 もう、十一年も昔のことだ。

 その後、舅の正信は四、五年ほど前に亡くなっており、元気者だった姑の民江も昨年の年初めに肺炎をこじらせて亡くなり、今は広い家に正樹と二人で暮らしている。

 土建会社の方は父の正信が代表取締役に戻り、きりもりをしていたが、正信が亡くなった後は古くから居る者に経営を委ね、小野の家としては身を引いていた。

 信一が亡くなった当初、紀美子は再婚するものと紀美子を知る者は全て思っていたが、予想に反して、紀美子は再婚せずにそのまま嫁ぎ先に残った。

 「三十路、四十路の後家は通せないが、二十代の若後家は通せると言うからね」

 「紀美子さんはそれほど信一さんに惚れていたのかねぇ」

 「まさか、そんなことはあるめえ」

 「正樹ちゃんが大きくなるのを楽しみに、後家でのんびり暮らすつもりだっぺよ」

 「もったいない、と言えば、もったいない話ではあるわさ。あれほどの美人はそうは居ねえっちゅうに」

 口さがない者たちはこのように紀美子のことを話していた。

 信一が亡くなったのはもう十一年前のことで、紀美子は二十一歳で、私は十四歳だった。


 翌年、紀美子の夫、信一の新盆があった。

 本来は父が行くはずであったが、所用が出来、代理として母と私が行った。

 紀美子は洋装の喪服で私たちを迎えてくれた。

 来客がひっきりなしという中で、紀美子はかいがいしく母と私をもてなしてくれた。

 外には盆提灯が飾られ、室内の精霊棚の傍らには回転行灯が置かれ、走馬灯が涼しげに絵模様を回転させていた。

 精霊棚には位牌、季節の野菜、果物の他に、馬に見立てた胡瓜(きゅうり)と牛に見立てた茄子(なす)がそれぞれ置いてあった。

 胡瓜の馬と茄子の牛は、故人が来る時は馬に乗って早く、帰る時は牛に乗ってゆっくりと、ということだそうだ。

 盆は嬉しや、別れた人も、晴れてこの世に、会いに来る。

 じゃんがらの唄の文句がふと頭をよぎった。

 挨拶が済み、帰ろうとした時に、紀美子が私を呼んだ。

 「健ちゃん、高校でも野球は続けるんでしょう。文武両道で頑張ってね。大丈夫、健ちゃんなら、きっとやれるわ。野球を続けるのよ、これは紀美子と健ちゃんの約束よ」

 紀美子の言葉に私は思わず頷いてしまった。

 正直に言うと、野球はもう続けたくは無かったのだ。

 中学だけで十分だと思っていた。

 高校になると、いくら進学校と言えども、三年の夏までは試合が続くことになる。

 まして、進学するつもりの高校は甲子園にも数回出場している高校で練習はきついという評判だった。

 かつて、甲子園で準優勝した時など、或る選手は、僕たちほど練習している高校生は居ない、その意味でも、練習で劣っている学校には絶対に負けるわけにはいかないんだ、と堂々と公言していたくらいだ。

 そんな高校に進学して、野球に没頭したら、どうしても勉強がおろそかになる、野球は好きだが、中学までとしよう、と既に心に決めていたのだった。

 しかし、私の心を全て見透(みす)かしたように、紀美子から前もって言われてしまった。

 しかも、約束よ、とキラキラした眼で駄目を押されてしまった。

 あのキラキラした眼はどうも苦手だ。

 私は、幾分憂鬱な思いを抱いて、母と家路に着いた。

 この夏はじゃんがらを見物することは無かった。

 信一の新盆では、じゃんがらが来る前に母と私は紀美子の家をお(いとま)していた。

 帰りの街角で、夕闇の中を、道中太鼓を敲きながら消えていくじゃんがらの一行の後姿を見ただけだった。

 白い浴衣姿の一行は三途の川を静かに渡っていく死者の群れのようにも思えた。

 賑やかな道中太鼓に私はそこはかとない(さび)しさと(さみ)しさを感じ、暫く(たたず)んでじゃんがらの一行を見送った。

 赤トンボが目の前を飛んで、過ぎ去って行った。

 じゃんがらが終わると、季節はもう秋になる。

 夕焼けの空に消えていくじゃんがらの響きはいわきという街の夏の終わりを告げる晩鐘(ばんしょう)の音色だと思った。

 紀美子が二十二歳、私が十五歳の夏だった。


 少し恥ずかしい思い出もある。

 紀美子が東京の短大から夏休みで帰省していた頃のことだ。

 私はその時、父が教師をしている関係で実家から引越しをして、父の学校に近い街で暮らしていた。

 お盆の中日に、実家と紀美子の家にお線香を上げに行った時のことだ。

 私たちが来るということは紀美子にも伝わっており、案の定、紀美子は私を待っていた。

 小林の家に着くなり、私は、「健ちゃん、こっちへいらっしゃい」という紀美子の言葉で、私は奥の紀美子の部屋に行った。

 部屋で私は、いろいろと近所の子供たちの動静を紀美子に訊かれた。

 紀美子は紀美子なりに、東京に行っている間の自分の子分たちの様子が気になっていたらしく、根掘り葉掘り訊かれた。

 また、中学に入ったら、野球をするように、と私に命じた。

 私は別に野球など興味が無かったが、肩は強く、速いボールが投げられるということで、小学校ではいつもピッチャーをやらされていた。

 健ちゃん、私は野球が好きよ、中学では野球部に入りなさい、と何回も繰り返した。

 野球より、サッカーの方がいい、と言うと、駄目、と恐い顔をした。

 野球をするの、とゆびきりげんまんまでさせられた。

 蝉がうるさいほど仰々しく鳴いていた。

 その内、裏山に行って蝉を捕まえようということになった。

 私はそれほど、蝉が好きでも無く、いわばどうでも良いことではあったが、言い出したらきかない紀美子のこと故、渋々紀美子の後を付いて行った。

 樹に止まっている蝉を二人で眺めている時だった。

 足元でごそごそという音がした。

 ふと見ると、紀美子の足元に蛇が這っていた。

 毒を持つ蛇では無く、しま蛇だった。

 紀美子がキャッと叫び声を上げ、私に抱き付いて来た。

 蛇も紀美子の声に驚いたように素早く逃げ去った。

 気が付くと、私の頭を抱えるように紀美子が私を抱き締めていた。

 私は紀美子の胸に顔を押し付けられていた。

 しかし、奇妙なことに、紀美子の胸の感触は覚えていない。

 何秒か経って、押し付けられていた私の顔はふいに紀美子の胸から離され、代わりに、紀美子の顔が私の顔に覆い被さって来た。

 一瞬のことで何が起こったのか、私には分からなかった。

 唇に生温かい感触が残った。

 「内緒。内緒にするのよ。いいわね、健ちゃん」

 紀美子は私を押しのけるように離し、小走りに裏山を駆け下りて行った。

 その夜のことだった。

 久し振りに帰った実家の布団が馴染めず、寝苦しくてなかなか寝付けなかった。

 しょうがない、とばかり、布団から抜け出て、家の外に出た。

 家の外は案外涼しかった。

 風も少し吹いており、私はぼんやりと庭の敷石に座り、紀美子の家の方を見ていた。

 夜も遅く、十一時は過ぎていた頃だったと思う。

 門の外で誰かの話し声が聞こえた。

 男女の話し声だった。

 密やかな語らいで、恋人同士の甘い会話のようにも聞こえた。

 私は好奇心から足音を忍ばせて、近づいて行った。

 月明かりで、会話の主が判った。

良夫叔父と紀美子が闇の中で抱き合って、囁いていた。

良夫叔父はじゃんがらの太鼓敲きとして近辺を廻っていたはずだ。

別に、じゃんがらの格好はしていなかった。

あれは、誰かを良夫叔父と見間違えたのか、或いは、真夏の夜の夢、だったかも知れない。

その女の人が本当に紀美子だったのかどうかも、今となっては定かではなくなっている。

 紀美子が十九歳、私が十二歳の時のことだ。


 高校は地域では名門とされる進学校に進んだ。

 昔ほどの猛練習は既に影を潜めており、その分、野球のチーム力は弱くなっていた。

一年、二年とベスト8止まりといったレベルだった。

私は二年から投げさせてもらっていた。

 エースとなったのは、三年生の時だった。

 高校野球の夏の甲子園の県予選が始まり、私はエース・ピッチャーとして四試合登板した。

 ベスト4まで、予想外だったが、意外と順調に勝ち進み、四試合目は準決勝となった。

 相手は第一シードの中通り地方にある私立の強豪校だった。

 コールドゲームで勝った試合はあったものの、それまでの三試合をほとんど全て投げてきた私の肩は相当重かったが、その日は自分でも信じられないほど、球がよく走っていた。

 ストレートは百四十キロを越す相手ピッチャーと比べ、私はせいぜい百三十キロ程度のスピードしか無かったが、ボールの回転が良く、いわゆるキレのあるボールとなっていた。

 カーブ、シュートも思ったところにコントロール良く、きまっていた。

 自分で言うのも何だが、私は回が進むにつれて、自分の投球に酔ってきた。

 相手ピッチャーはプロも注目するような県下屈指の剛速球ピッチャーであり、ヒットはそう打てなかったが、プレーボール開始直後の初回の表の攻撃で幸運な一点が入り、一対〇のまま、試合は有利に展開し、回はどんどんと進んでいった。

 相手は焦ってきた。

 こんなはずではないと思ったのであろう。

 その焦りは十分私にも伝わってきた。

 相手の打ち気をそらすように私は投げた。

 打つ気のなさそうな時は、ど真ん中に投げて、相手をびっくりさせてやった。

 ピッチャーゴロに打ち取った時は、母校の甲子園準優勝時の憧れのピッチャーがしたように、ボールを一旦腰のズボンで拭いてから、一塁に速いストライクを投げてやった。

 相手のピッチャーは私たちの高校との試合は八分程度の力で投げ、本命の第二シードとの決勝戦に備え、力を蓄えるつもりで当初はいただろうが、回が進むにつれて、むきになって、全力で投げるようになってきた。

 当然、私たちは打てなくなった。

 一対〇のまま、九回裏までいった。

 相手を二安打におさえ込み、完封勝利が目前だった。

 最初のバッターを三振に打ち取った。

 高めのボールで空振りさせた時は思わずガッツポーズが出た。

 二番目のバッターはショートゴロに打ち取ったが、一塁への投球が外れ、二塁に進塁されてしまった。

 三番目のバッターにはレフトへのポテンヒットを打たれ、一・三塁とされた。

 四番目のバッターはキャッチャーフライに打ち取った。

 ツーアウトとなり、アウトあと一つで試合は終わるところまで漕ぎつけた。

 五番目のバッターにはカーブを投げ、大きなセンターフライを打たれた。

 しかし、深めに守っていたセンターがゆっくりと後退し、捕球動作に入った。

 センターフライでゲームセット、と思った瞬間、センターが落球した。

 一塁ランナーまでホームに帰り、一対二のサヨナラとなり、私たちの高校は敗れた。

 私は悲劇のエースと翌日の新聞には書かれた。

 三年最後の夏の野球はこうして終わりを告げた。

 一週間、私はボーと家で本を読んだりして過ごした。

 読む本も無くなったので、ぶらぶらと歩いて、駅前の本屋に行った。

 ふと、見たら、紀美子が居た。

 私には気付いていないようだった。

 紀美子はノースリーブの淡い赤色のムームー姿といった軽やかな服装で雑誌に眼を通していた。

 二の腕と云うのであろうか、肩と肘との間の上膊(じょうはく)が私の目に飛び込んできた。

 それは、磁器のようなすべすべとした滑らかさを持ち、乳白色に輝いているようにさえ見えた。

 私は官能的な、その肌に魅せられて、紀美子に声もかけられないで茫然と立っていた。

 その内、紀美子が気付いた。

 「あら、健ちゃん。久し振りね。今日は、本探し? この間の試合、本当に惜しかったわねぇ。私もテレビで観ていたのよ」

 私が黙って微笑んでいると、紀美子は更に続けた。

 「あの相手の投手は健ちゃんとの投げ合いで力を全部使い果たしたのね。決勝戦では簡単に打ち込まれて負けてしまったもの。あの試合に限っては、健ちゃんの方が断然良かったわ。私はとても嬉しかった。ねぇ、野球をやっていて良かったでしょう」

 「あのピッチャーは必ずプロに行くピッチャーですよ。僕たちは打てなかったけど、僕にとっては残念だったけど、良い思い出となりました」

 「よし、よし。さて、野球も終わったし、今度は、健ちゃん、大学入試ね。センター試験に向かって、頑張らなくっちゃ。いつまでも、野球のことを引きずっていちゃ駄目よ」

 健ちゃん、私の傍に立って、という紀美子の声に私は紀美子と並ぶように立った。

 「健ちゃん、随分と背が高くなったわねぇ。これなら、私は漸くハイヒールが履ける」

 亡くなった信一さんは紀美子より背が低く、紀美子は結婚してからハイヒールは履かなかったとのことだった。

 「健ちゃん、あなたなら、私はハイヒールを履いても大丈夫ね。お婿さんにしてあげてもいいわよ」

 冗談はよして、と紀美子を見たら、紀美子は真面目な顔で私を見ていた。

 結局、その本屋で私は大学入試関連の本を数冊買った。

 本当は、軽い感じのベストセラーの本を買うつもりで行ったのだが。

 紀美子と居ると、いつもこんな感じになってしまう。

 その後、私は紀美子にコーヒーをご馳走して貰った。

 似合うでしょ、これはハワイ土産なのよ、と言ってムームーの肩の部分の布をつまんでみせた。

 白くすべすべした肌が私の眼に飛び込んで来た。

 紀美子が二十五歳、私が十八歳の時のことだった。


 私の大学入試勉強は三年の夏休みから始まった。

 センター入試までは実質五ヶ月しか無かった。

 この間の勉強は我ながらよく頑張ったと思う。

 中学そして高校と、野球で鍛えた体力がものを言ったのか、睡眠時間を極力減らし、入試勉強に励んだ結果、何とか第一志望の大学に入ることが出来た。

 大学に入り、迎えた最初の夏季休暇、仙台から帰ると、私は紀美子の家に週に二回ほど行くようになった。

 紀美子の息子の正樹の家庭教師を押し付けられたからだ。

 私は昔の紀美子と同様、正樹の親分的存在となった。

 紀美子はそんな風に正樹に対して振舞う私を少し揶揄するような眼差しで見ていた。

 昔の自分を見るような感じだったのだろう。

 紀美子の嫁ぎ先はかなりの豪邸であった。

 部屋の数はゆうに十部屋はあったろうか。

 (しゅうと)の正信さんはもう亡くなっており、この広い家で暮らしているのは(しゅうとめ)の民江さん、紀美子、そして正樹の三人だけだった。

行く度に、民江さんが機嫌よくお茶とケーキを出してくれた。

 「済みませんねぇ。こんなところまで、通って戴いて」

 「いえ、自転車で来れば十分程度ですから」

 「お義母(かあ)(さま)、いいのよ。健ちゃんはどうせ暇なんだから」

 「まあ、紀美子さんったら。健一さんと言えば、中学、高校と、野球のエースで、ここらへんでは大変なヒーローなのよ。大学も難しいところに入りなすったし」

 「いいの。健ちゃんは私の言うことなら、何でも聞くんだから」

 「また、そんなことを言って。怒らないでね、健一さん」

 「いいんですよ。おばさん。小さい頃から紀美子さんはいつもこうなんですから」

 「でも、折角の夏休みがちっちゃな子供相手では、ねぇ。女の子とデートする時間が無くなってしまうわよ」

 「お義母さん、心配すること無いの。健ちゃんのお嫁さんは私の眼鏡にかなった人で無いと駄目なの。私の許可が必要なんだから」

 「そんな、紀美子さん。それじゃあ、健ちゃんは一生結婚出来ないわ。紀美子さんの見立ては厳しいんだから」

 そんなことを言いながらも、この「夏限定」の家庭教師は大学の四年間、大学院の二年間の計六年間、何とは無しに続いた。


 しかし、大学院修士課程の二年の時、変化が起こった。

 春先、民江おばさんが亡くなり、新盆の夜のことであった。

 じゃんがらが二グループ来て、供養の踊りをして去って行き、新盆にお線香上げに来てくれた人も去り、私は紀美子と正樹の夕食に付き合っていた時のことだった。

 「健一お兄ちゃん。ママと結婚しない? ママは健一お兄ちゃんのこと、好きなんだよ。健一お兄ちゃんが家に来ると、いつも機嫌がいいんだもん」

 正樹が突然、私と紀美子を前にして言った。

 私はどぎまぎして、何も言えずにいると、紀美子もとんでもないことを口に出した。

 「正樹もそう思うでしょう。お母さんもそう思っているのよ。健一お兄ちゃんがいつ結婚を申し込んでくれるのかと」

 「紀美子さん。正樹君の前で止めて下さいよ、そんな悪い冗談は」

 「健一お兄ちゃんはお母さんの言ったことを冗談だと思っているのよ。正樹はどう思う? ほんとのこと、それとも、冗談?」

 「お母さんはほんとのことを言っているんだ。僕は知っているよ」

 「さあさあ、そんなことを言っていないで。正樹君、勉強しようよ」

 私と正樹は二階に上がり、いつもの勉強を開始した。

 三十分ほど経った頃であろうか、部屋のガラス窓に稲妻が閃き、雷鳴が轟いたと思ったら、雨が激しく降りだして来た。

 紀美子がお茶を持って、部屋に入って来た。

 雨は止みそうに無く、激しく降っていた。

 「今夜は、この雨では自転車は無理ね。私が後で、車で送っていくわ」

 「止めばいいんですけど。なかなか、止みそうにないですねぇ」

 ふと、気が付くと、正樹は机の前でこっくりこっくりと居眠りをし始めていた。

 民江さんの新盆で、いろんな人が来て、正樹も正樹なりに疲れていたのだろう。

 起こしても、またすぐに眠ってしまうという様子だった。

 「しょうがない子ね。お風呂にも入らずに、寝てしまうなんて。健ちゃん、正樹をだっこして、ベッドに運んでくれる」

 正樹のベッドは隣の部屋だった。

 私は正樹を抱えて、隣の部屋に行った。

 正樹をベッドに寝かし、部屋のドアを開け、廊下に出た時のことだった。

 薄暗い廊下に紀美子が腕を胸のところで組んで立っていた。

 稲光が紀美子の顔を一瞬照らし出した。

 紀美子の顔は凄絶なくらい美しかった。

 私は小さい頃から紀美子の顔は見慣れているが、その時の紀美子ほど美しい顔は見たことが無かった。

 思い詰め、緊張した顔で私をじっと見詰めていた。

 紀美子の唇が動いた。

 「健ちゃん。さっきの話。結婚は冗談だけど、気持ちはほんとよ。私も女よ。女に恥を掻かせないで」

 その時、遠くで雷鳴が轟いた。

・・・・・

真夜中、私は紀美子に送られて家に帰った。

運転しながら、紀美子は私に言った。

「私は悪い女なの」

咄嗟のことで、私には意味が分からなかった。

「夫の信一には、愛人が居たの。駅裏のスナックのママよ。男好きのする顔をしていた。私とは異なるタイプの女」

紀美子の独白は続いた。

「私は口惜しかった。私以外の女を愛する夫が許せなかった。夫を憎いと思ったわ。話

は変わるけど、完全犯罪って、本当は簡単なのよね。わざわざ危険を冒して、手を汚して殺す必要なんて本当は無いのよ。相手が勝手に死ぬように仕向ければいいの。言葉だけで自殺させるのも一つの完全犯罪。病気を放置し、悪化させて死なせるのも完全犯罪よ。私が夫に対してしたことを言って上げましょうか」

私は黙って、紀美子の言葉を聴いていた。

「夫は高血圧だったの。薬を飲んでいたわ。でも、よく飲むのを忘れる人だった。いつ

も、飲むのを忘れてない、と注意するのは私の役目だった。でも、あの日は注意しなかった。飲むのを恐らく忘れていたと思うわ。次は、お酒ね。外見とは違って、お酒は弱く、ほとんど飲まない人だった。でも、あの日は新盆まわりで、あの人にしては結構飲んでいたみたい。家に帰った時はいい機嫌でかなり酔っていた。丁度、私と民江お義母さんが養命酒を飲んでいたの。どういう風の吹き回しか、私たちが飲んでいる養命酒を飲みたいと言い出したの。よしなさいと止めるのが普通よね。だって、高血圧で酒の弱い人にお酒はご法度ですものね。でも、私は止めなかった。グラスに注いで飲ませたの。さすがに、お風呂は止して、ベッドに横になった。十分ほど経った時、いきなり大声を出したの。お義父(とう)さん、お義母(かあ)さん、それに私、びっくりして駆けつけたわ。でも、もう、意識は無かった。救急車を呼んで、救急病院に搬送して貰った。でも、あの人はそのまま死んでしまったの」

 紀美子は急に黙り込んでしまった。

「紀美子さん、こんなことを訊いていいですか?」

「何?、健ちゃん」

「もしかして、信一さんを死なせてしまったのは自分だと、思っているの?」

「それどころか、誰にも分からない完全犯罪をしたと思っているのよ」

「そんなことはないよ、紀美子さん。僕が聞いたところによると、信一さんは前日の夜、

同業者の集まりで遅くまで麻雀をしていた、ということで、かなり寝不足の状態だったんだ。寝不足、疲労、お酒、高血圧、それにストレスもあったのかも知れない。これらの複合要因で、くも膜下出血になったと思うんだ。けっして、紀美子さんのせいではないんだ。自分を責めているのだったら、もうそろそろ自分を解放してあげたら」

 紀美子は黙って、前方を見ていた。

紀美子が小野家を去らなかった理由の一つはこの紀美子しか分からない罪の意識であっ

たのかも知れない。

 急に、紀美子が淋しく、気の毒な女のように思えた。

 私の家の前に着いた。

紀美子は別れ際に、私を呼び止めた。

忘れ物がある、と言う。

怪訝な顔をする私に、キスして頂戴、と言った。

私たちはその日何回目かの口づけを交わした。

紀美子が三十一歳、私が二十四歳の時のことだった。


 翌年、私は大学院の修士課程を終え、郷里にある化学会社に就職した。

 大きな会社では無かったが、紀美子の父が勤めている会社であり、いろいろと話を聞いて、何とは無しに親近感を持っていた会社だった。

 私が入社して一番喜んだのが、この紀美子の父の純一だった。

 遠い親戚の私を会社でも相当自慢していたらしく、わざわざ就職祝いまで持って来てくれた。

 「健一君が入ってくれて、これでうちの会社の野球部も強くなる。何と言っても、母校をベスト4まで導いたピッチャーだもの。未来の社長候補だし。健一君は俺の誇りだ。健一君、頑張ってね」

 純一の言葉に父の正男も笑顔だった。

 しかし、純一おじさんが帰った後、父が私に言った。

 「健一よ。じゃんがらの文句にこういうのがある。親の意見とナスビの花は、万にひとつの無駄はない。地元に帰ってくれたことは親としてはありがたいが、また何で、郷里のあの会社を選んだんだ。お前ならば、もっと大きな会社を選べたと思うんだが。どうも、俺にはお前の気持ちが分からない」

 父が幾分酔い気味に、私にビールを注ぎながら言った。

 「何か、郷里に帰りたかったんだよ。別に、深い理由はないけど。ここの風土が好きなのかなぁ」

 答えながら、私はどうして地元の会社に入ることにしたのだろう、と思っていた。

 私自身、明快に答えられないもどかしさを感じていた。

 「兄さん、そんなら、ここの青年会に入り、じゃんがらをやりなよ」

 二十歳になる弟の修二が言った。

 修二は高校を出て、そのまま地元の企業に就職して二年になる。

 今は、青年会にも入って、じゃんがらで鉦を敲いている。

 兄さん、見ててよ、来年あたりは太鼓を敲くようになるから、俺も良夫叔父さんのように太鼓を敲き、ゆくゆくは提灯持ちになるんだ、と無邪気に話していた。

 修二は私と違って、もう恋人も居るらしい。

 俺とあなたは、米なら五合、合わせて一升にしてみたい、とか、お月様さえ、夜遊びなさる、わしの夜遊び、無理はない、などと酔いに任せて、覚えたじゃんがらの唄を口ずさんでいた。

 父もかなり酔っ払った様子で、浅い川なら、膝までまくり、深くなるほど、帯をとく、といった色っぽいじゃんがらの唄を歌い、母から嫌な顔をされていたのも面白かった。

 一方、私は、星の数ほど、女はあれど、めざす女は、ただひとり、と昔どこかで聞いたじゃんがらの唄を心の中で呟いていた。

 しかし、その反面、私は紀美子とはやはり一緒になるべきではないのだろう、とも思っていた。

七歳も年上、正樹という十一歳の子供もある女と結婚したら、親戚からどのようなことを言われることやら、親父もお袋も反対するのに決まっているし、小林の家からも思い止まるよう、直接私に言ってくるかも知れない。

後先を考えない、無鉄砲なことは私には似つかわしくないのだ。

 計画を立て、計画通り、着実な人生を歩むというのが、私には相応(ふさわ)しい。

 昨年の紀美子とのことは、あれは雷雨がさせた悪い夢、悪夢だったのだ。

 今度、紀美子に会ったら、はっきりと言ってやろう。

 僕の人生は僕が決める、紀美子さん、もうあなたの出る幕ではないのだ、もう僕に構わないで欲しい、と。


 ハグロトンボが飛翔する季節となっていた。

 祖父の宗太郎じいちゃんはこのトンボのことをオハグロトンボとかカネツケトンボと呼んでいた。

 羽根が黒いトンボということで、羽黒トンボと思っていたが、お歯黒トンボとか鉄漿付けトンボとなれば、羽黒は歯黒でなければならないことになってしまう。

 どっちが正しいのか?

 そんなことを思いながら、私は実家に続く畦道(あぜみち)を歩いていた。

 ハグロトンボはお盆のトンボにふさわしい、と思いながら歩いた。

 畦道にはようやく夏の夕暮れが訪れ始めていた。

 しかし、この六センチほどのトンボは実に頼りなく情けない飛び方をする。

 オニヤンマ、ギンヤンマ、シオカラトンボとか赤トンボといった普通のトンボは敏捷に威勢よく空中をすいすいと、人の目の前を(かす)めるように飛ぶものであるが、このハグロトンボは実にトンボらしくないトンボで、地面近くを黒い羽根を蝶のようにひらひらとさせながら、舞うように羽ばたき飛んで行くのだ。

 飛ぶ速度は当然遅い。

 しかも、長くは飛ばないのだ。

 二、三メートルほどひらひらと飛んでは、疲れてしまったかのように、(くさ)(むら)或るいは地面に(ちょう)ちょうのように、羽根を垂直に上に立てて止まる。

 人が近づくと、しょうがないな、とばかり、また二、三メートルほど、えいやとばかり飛んではまた止まる、といった具合にまことに元気が無いトンボである。

 ヤル気のない、まるで覇気が感じられないトンボだと、私は思い、トンボの勝手であるにもかかわらず、そう思ってしまう自分に独り苦笑した。

 五月から十月あたりまでがこのトンボの季節とされているが、特によく見かけるのは七月、八月の二ヶ月である。

 この二ヶ月は新暦、旧暦のお盆の季節でもある。

 もし、霊魂といったものがあり、何らかの生き物にのりうつって人のところに来るものならば、私は何となく、このハグロトンボがその生き物としてはふさわしいと思った。

 夏の気怠(けだる)薄暮(はくぼ)時、ハグロトンボがひらひらと舞い飛ぶ畦道を、白装束にも似た浴衣姿のじゃんがらの一行が道中太鼓をチャンカ、チャンカ、ドン、ドンと打ち鳴らしながら歩いて行く光景はまさに、懐かしい死者を迎え、慰め、もてなした上で、また冥界に送り出すという優美な習俗であるお盆の季節にふさわしい光景であろう。

 人はこの世に人として生まれ落ちた限りは、一回は死ななければならない。

 長く生きるということは、自分以外の数多くの死者を見送るということでもある。

 そして、こんなに殺伐とした世の中だから尚更、死者を思い出すという優しい季節はあっても良い。

 紀美子も私もいつかはこの世から消えて無くなる。

 こればかりは受け入れざるを得ない約束事だ。

 私は死ぬ時に紀美子が私の傍に居ることを望んでいるのか、いや、逆もあるだろう、紀美子が死ぬ時に紀美子の傍に私が居ることを望んでいるのか、或いは、どちらの場合だろうと、臨終の場に紀美子も居なければ、私も居ない、ということを望んでいるのか、そんなことをとりとめもなく、ぼんやりと考えながら、私は草いきれで重く澱んだ畦道を、汗を掻きながら歩いていた。

 要は、お互いが死ぬ時に、居て欲しい相手なのか、居なくても構わない相手なのかどうか、ということだ。

 居て欲しい相手ならば、決して逃がしてはならない、全身全霊を傾けて何が何でも掴まえておかなければならない。

 一生、悔いが残る。

 そして、愛するということは、相手を大事にしたいと思うことだ。

 去年の夏、紀美子が私に言った言葉を思い出す。

 「正直に言うわ。私は嫌な女なの。よく言うでしょ、愛があれば、貧乏なんて苦にならないって。でも、私は嫌。貧乏は嫌なの。健ちゃんの家はお金持ちだから、お金の無い暮らしがどういうものだか知らないでしょうけど、貧乏なんて、するものじゃないわ。私の場合もそうよ。本当は、四年生の大学に行きたかったのに、短大で我慢しなくてはならなかった。小野の家から是非にと縁談が持ち込まれた時も、先方が財産家であるということが大きな決め手になったもの。そう、私は嫌な女なのよ。愛する限りは、相手も私を愛してくれなきゃ嫌なの。でも、これはおかしいことなのよね。愛してくれるからといって、その人を愛さなければならないという理由なんてありはしないもの。健ちゃん、私はあなたが好きよ。昔から、好きだったの。初めて、健ちゃんを見た時、あなたは綺麗な男の子だったもの。私は綺麗なものが大好きなの。でも、健ちゃん、私があなたのことを好きだからと言って、私のことを好きになる必要は無いのよ。私のこと、嫌いだったら、嫌いと言っていいのよ。私は、健ちゃんが知っているように、我儘で傲慢で自分のことしか考えない女なんだもの。嫌なところは全て、知っているわよねぇ。これまで、私の我儘にずうっと付き合ってくれたのは健ちゃん、あなただけよ。後は、みんな、いつの間にか、私から逃げてしまったわ。だから、健ちゃん、あなたのことは大事にしたいの。ずっと、大事にしたいの。初めてのキス、覚えてる? 本当のことを言うと、これは嘘じゃないわ、私にとっても初めてのキスだったの。今度のことも怒っちゃ駄目よ。健ちゃんの初めての女の人に私はなりたかったの。後悔はしないでね。後悔されると、私辛いから。でも、こういう関係になったからといって、私と結婚しなきゃならないなんて、悩む必要はないわ。七つ違いの子持ちの女と結婚しなくても、健ちゃんには一杯女の人が自然と寄ってくるもの。でも、今私はとっても幸せな気分よ。今まで、こんな満ち足りた気分になったことなんか、一度も無かったわ。大事にしたい人と一緒に居ることがこんなに幸せな気分をもたらすなんて、本当に知らなかったもの。ごめんね、健ちゃん。自分勝手な女で。勘弁して頂戴ね」


 さて、私にとって、紀美子はどういう存在なのだ。


 畦道にはセグロセキレイという小鳥もいた。

 羽根が黒く、胴体が白で、尾を細かく上下に振りながらせわしなく歩く、体長二十センチほどの小鳥だ。

 ジュッ、ジュッとさえずりながら、畦道を歩き回っていた。

 何か、俺に似ているな。

 紀美子に言われるまま、尻尾振り振り歩いている。

 私はいささか自虐的にそう思い、ますます紀美子から離れなければならないと思った。

 このままの関係をいつまで続けるつもりなんだ。

 紀美子の呪縛(じゅばく)から逃げ出せ!

 今が潮時だよ、健一!、という声がどこからか、聞こえて来た。

 自由にならなきゃ、このままでは、待っているのは破滅と云う煉獄(れんごく)だ。

 紀美子の呪縛から飛び出すのは今しか無い。


 私は実家に立ち寄り、祖父母に軽く挨拶をした。

 祖父は縁側に座って、じゃんがらの唄を鼻歌で唄っていた。

 「色で迷わす、西瓜でさえも、中にゃ苦労の、種がある。お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪の、生えるまで。健一、この世をおさらばする時に、その時一緒に居たいと思う女を見つけろよ。これは、おじいちゃんの遺言だぞ」

 「健一、おじいさんは私のことを言ってるんだよ。ねぇ、おじいさん」

 縁側の陽だまりの中で、老夫婦が穏やかに話していた。

 

紀美子の実家に向かった。

 門を出たところで、また、ハグロトンボに出遇った。

 ハグロトンボは私が歩く先の地面にひらひらと舞いながら止まった。

 私が歩くと、またそのトンボはひらひらと飛び、少し先に止まった。

 トンボが止まっているところに、私は歩いて行った。

 トンボは飛び、少し先に止まった。

 私が歩くと、トンボが飛び、そして少し先に止まる。

 この繰り返しが十回ほどあった。

 ふいに、トンボが思い切ったように、空中高くひらひらと飛び始めた。

 私は飛んで行くトンボの方に、目を向けた。

 その視線の先に、浴衣姿の紀美子が立っていた。

 黒の地色に紫の花を散りばめた浴衣を着て、燈色の帯を締めた紀美子が立っていた。

 肩口に垂れた髪が夏のどんよりと気怠げな風に少し揺れていた。

 紀美子は垂らしていた両手を少し動かした。

 手のひらが私の方を向いた。

 いらっしゃい、私のところにいらっしゃいという仕草のように思えた。

 私の心の中で、崩れていくものがあった。

 私は紀美子のところに、急ぎ足で歩み寄って行った。




【 参考として 】

昔のじゃんがら念仏踊りに関しては、明治時代に書かれた大須賀筠軒おおすが いんけん著「歳時民俗記」という文献がある。(引用文献:夏井芳徳著「ぢゃんがらの夏」)


【 本文 】


 ぢゃんがら念佛トハ即念佛躍ニテ、男女環列、鉦ヲ敲キ、鼓ヲ撃ツ。鼓者両、三人、中央ニアリ。白布頭ヲ約シ、袖ヲ括ル。之ヲ白鉢巻、白手繦トイフ。鼓ヲ腹下ニ着ケ、頭ヲ傾ケ、腰ヲ屈メ、撥ヲ舞シ、曲撃ス。鉦者数名、打粧鼓者ニ同ジク、鉦架ヲ左肩ニシ、丁子木ヲ以テ摩敲ス。鼓ノ数ヲ幾からトイヒ、鉦ヲ敲クヲきるトイフ。踏舞スル者、之ニ雑リ、鼓者ヲ環リ、鱗次輪行ス。鉦鼓ニ緩急アリ。其急ナルヤ、走馬燈ヲ観ル如ク、張三李四、手ヲ振テ走ル。其緩ナルヤ、一斉ニ唱ヘテ曰ク、なァーはァーはァーなァーはァーはァーめェーへェーへェーめェーへェーへェー。媚舞巧踏、手ヲ拍テ節ヲ為ス。所謂じんくおどりニ類似シテ非ナルモノナリ。其中、男ニシテ女粧スル者アリ。女ニシテ男粧スル者アリ。或ハ裸體ニシテ犢鼻褌ヲ尾垂シ、其端ヲ後者ノ犢鼻ニ結ビ、後者モ亦こん端ヲ尾垂スルアリ。或ハ菰莚ヲ鎧トシ、蓮葉ヲ兜トシ、箒、擂木等ヲ以テ大小刀トシ、假面ヲ蒙リ、武者ニ扮スル者アリ。務テ新ヲ競ヒ、笑ヲ釣ル。其醜態目スルニ忍ビザルモノアリ。此ぢゃんがら念佛ハ、獨リ盂蘭盆ノ節ノミナラズ、各神社佛閣ノ宵祭リニモ躍ル。或ハ開帳、入佛供養、大般若會等ニモ躍ル。領主ノ法事執行ノ時モ其菩提寺ニ来リ、堂前ニテ躍ル。當坐ニ酒肴ヲ賜フ。但、盆中ト宵祭ノ外ハ、男女粧ヲ異ニスル如キ醜態ハナカリシ。縣治以来、其弊害アルヲ察シ、禁ゼラレタリ。今ヤ稍々舊ニ復スル模様ナリトゾ。


【 意訳 】・・・夏井芳徳氏の現代訳を参考にさせて戴いた。

         誤りがあれば、それは全てこの物語の作者の責に帰する。


 じゃんがら念仏はすなわち念仏踊りであり、同じくらいの人数の男女が列をつくったり、輪になったり、鉦を敲いたり、太鼓を敲いたりするものである。

太鼓を敲く者は二人か三人で、踊りの中央に位置する。

白い布を頭に巻いて結び、やはり白い襷で袖を括る。

これを白鉢巻、白手甲と云う。

太鼓を下腹部のところに付け、頭を傾け、腰を屈めたりして、撥を舞うように扱って太鼓を曲打ちする。

鉦を鳴らす者は数名おり、太鼓を鳴らす者と同じ装いをして、鉦架を左肩に掛け、丁子木で鉦を摩るように鳴らす。

太鼓の数を何「から」と言い、鉦を敲くことを、鉦を「きる」、と言う。

踊る人々はこの太鼓と鉦を敲く者たちに混ざり、太鼓を敲く者のまわりを取り巻くようにして、魚の鱗のような輪をつくって踊る。

鉦、太鼓の調子には緩急がある。

早い速度で忙しく敲き鳴らされる時は走馬灯を見るようなもので、踊り手たちは手を振りながら走るように踊る。

鉦・太鼓の調子がゆっくりになると、みんな一斉に、なァーはァーはァーなァーはァーはァーめェーへェーへェーめェーへェーへェー、と唱える。

媚を売るかのようにしなやかに色っぽく舞い、巧みに足をさばき、手拍子を打って節をつける。

この踊りはいわゆる、甚句踊りと似ているようであるが、異なる種類の踊りである。

踊り手の中には、女装する男も居るし、男装して踊る女も居る。

中には、褌一本の裸体となり、褌の端をお尻に垂らし、その端を後ろの人の褌に結びつける。

その後ろの人も褌の端をお尻に垂らし、同じようにして列をつくる。

また、中には、菰・莚を鎧のように着、蓮の葉を兜とし、且つ箒とか擂粉木などを大小の刀に見立てて腰に差し、お面を被って、武士の扮装をする者も居る。

あい争って、新奇さを衒い、人々の笑いを取ろうとする。

あまりの醜態さ故に、見るに忍び難いものも見受けられる。

このじゃんがら念仏は、盂蘭盆の時にだけ踊られるものでは無く、各神社仏閣の宵祭りにも踊られる。

その他、ご開帳、入仏供養、大般若会などでも踊られる。

殿様の法事が行われる時には、菩提寺に人々が集まり、お堂の前で踊る。

その時は、踊った人々に酒肴が振舞われる。

但し、盂蘭盆と宵祭りを除けば、女装・男装といったような醜態振りは無かった。

明治の世になって、じゃんがらを弊習として、その弊害が指摘され、禁止となった。しかし、現在ではやや昔に戻り始めてきたようだ。


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