大野小百合(1)
8 大野 小百合
北陸の冬は、雪に閉ざされる。
雪の中で身をかがめ、ジッと春を待つのだ。
冬の間、町中でも、雪は積もったり解けたりする。車道は車が走るので解けやすいが、人の歩く道にはいつまでも雪が残っている。3月になってだんだん雪が消えて行き、卒業式の頃は、日陰に小さな塊が残るだけとなる。
空気に鋭角的な張り詰めた感じがなくなって、日差しが丸くなると、だんだん気配が緩んで来る。
そこここの土の下から小さな緑が顔を出し、木々も新芽を膨らます。
春が近づいていた。
柴山の百合の家は、どうなってるだろう。
俺と祐樹が提案した融雪装置は役に立っただろうか。
そんなことより、冬の間、百合から何の連絡もなかった。こっちからも連絡しなかったからお互いさまと言えばお互いさまなのだが、あんなに頻繁に連絡しあったのにメールも電話もないってのが、ちょっと寂しかった。
あのおばさん、元気にしているだろうか。
俺たちは、柴山へ行きたくてたまらなかった。大体、メールや電話をするより、向こうへ行って直接話をする方が多かったのだ。
規格外のおばさんだけど、裏表がない。
滅茶苦茶だけど憎めない。
百合は信用するに値する大人だ。
結局、俺たちが柴山で秘密基地を作っていたことは、大っぴらにならなかった。
約束を守ってくれたのだ。
百合は、あの話を井上にもしなかったようだ。
僻地で殺人事件が起きる新作『死にゆく村の限りない闇』の登場人物に明らかに俺と祐樹だと思われる高校生が出てくるのに、井上は容姿や性格だけ参考にした創作だと思ったようだ。
でも、そういう誤解は大事にしよう。
ようやく雪解けを迎えた春休み、俺と祐樹は、柴山の百合さん家を目指した。
くねくねと曲がりくねったアップダウンの多い道。柴山への道には、まだ少し雪が残っていた。
空は、霞がかったぼんやりした青。
春の空だ。冬の名残で、空気に凛とした気配が残っている。
モンシロチョウやモンキチョウがひらひらと飛んでいる。
春が来るのだ。
集落の入り口の大きな木が見えると、もうじき百合の家だ。
百合に会えると思うとワクワクした。
百合の家に着くと、留守だった。
軽四はあるが、自転車がない。きっと、自転車でどこかへ出かけたのだろう。
井上がヒステリーを起こしそうな日常が予想され、笑いたくなった。
預かっていた鍵で玄関を開けて家に入り、そのうち帰ってくるだろうと、高をくくって待つことにした。
だが、いつまで経っても百合は帰って来ない。だんだん心配になって来た。そんなに遠くまで出かけたのだろうか。あの人の体力じゃ、そんなに無茶なことはできないはずだけど。
こんなことなら、事前にメールでもしとけば良かった。
泊まるつもりで来たけれど、留守のとき泊まってっても気にしないだろうけど、俺たちだけの秘密基地じゃなくなった家に勝手に泊まるのは抵抗があった。
仕方がない。今日のところは帰ろうか、と相談していると、自転車が帰って来た。百合のクロスバイクだ。
やっと、帰ってきた。遅かったじゃないか。と、文句を言おうと玄関へ向かうと、入って来たのは、俺たちと同じ年頃の少女だった。
想定外なものを見て、俺たちは固まった。
少女も同様だったようだ。
互いに固まって、しばらく気まずい沈黙があった。
最初に我に返った少女が口を開いた。
「もしかして、俊哉くんと祐樹くん?」
向こうが何者か分からないのに、こちらが何者か知られているというのは、面白くない。
面白くないというより、怖さが先に立って超ヤバい感じがする。
「そういうあんたは、誰だ?」
祐樹が例によってドスの利いた声で尋ねた。こういう場合は、祐樹の担当だ。
すると、少女があっけらかんと答えた。
「ウチ、大野小百合いうん。百合おばさんの姪や。ウチのお母さん、百合おばさんの妹なんや」
百合の姪っ子が、小百合(小さい百合)だってか?
見顔つきも髪型も何もかも、見れば見るほど百合に似ていた。身長も同じくらいだ。
だが、何かが決定的に違っていた。
五十代のおばさんと十代の女の子は、全く別の生き物なのだ。
小百合によれば、百合は、井上にホテルに拉致されて、原稿を書かされているという。
小百合は、留守番を頼まれたのだ。
「留守番?」
「俺たち、あんま信用されてないんだろうか?」
二人して肩を落とすと、小百合がクスクス笑いながら慰めてくれた。
「あんたたちのこと信用してへんわけやないんや。雪が解けて自転車に乗れるようになったら来はるやろ、て言うてはった。そやけど、いつ来はるか分からへんやろ?」
確かに。
「ウチ、井上さんに頼まれて、百合おばさんのお世話することになったんや。当分、こっちにいるさかい」
その言葉に、あっけにとられた。
あのスマホ没収事件の後、井上からは何も言って来なかった。
バイト料を払わず済んだことをラッキーだと思っているのかもしれない。あの人なら、十中八九そう思うだろう。
ただ、冬を迎えるお別れパーティーのとき、別の手を考えると言っていた。
それは、こういうことだったのだ。
聞けば、先週から柴山にいて、家事や執筆の手伝いをしているという。
どう見ても、高校生なのに。春休みだからだろうか。
小百合が、再び口を開いた。
「ウチ、百合おばさんから、あんたたちのこと聞いてるんや。
偶然、柴山で会って仲良くなって、一緒に自転車で走ったり、いろんなことしたりしてくれてるって。
おばさん、あんたたちの考え方とか反応、ごっつう参考になるって言うてはったわ」
いつもフェアな百合のやることとは思えなかった。
小百合が俺たちのことを知っているのに、俺たちが小百合のことを知らないってのは、理不尽だと思った。
でも、小百合は俺たちの屈折した思いに気が付いていないのだろう。ニコニコしながら話し続けた。
「あんたたちの話聞いて、ズッと会いたいて思とったんや。山の中でおばさんと二人きりじゃ寂しいし、井上さんもおばさんの前だけ良い顔する人やから信用できひんし」
同じ年頃の女子にニコニコされて嫌がる男はいない。思わず、会話に乗ってしまった。
「井上さんって、やっぱり百合さんの前だけ良い顔する人だと思いますか?」
「側におったら、すぐ分かることや。あの人は、おばさんにっていうより、原稿に頭下げてるお人や。
原稿に関係ないウチやあんたらは、相手にせえへん」
その通りだ。小百合の観察は正しい。
結局、俺たちは小百合を受け入れた。
百合を真ん中にして、井上は敵だ。敵の敵は味方。この理屈でいうと、井上の敵、小百合は味方だってことになるからだ。
大人の井上と対決するには、小百合がこっちの陣営にいた方が心強い。
「ウチのこと、小百合って呼んでくれへん。できれば、ファーストネームで呼び合いたいし」
と、百合と同じことを言う。じゃあ、こっちも同じことを言おう。
「ファーストネームねえ。じゃあ、俺のことは、祐樹と呼んでくれ」
「じゃあ、俺は、俊哉だ」
俺たちが互いにファーストネームで呼び合ったら、もしかして、百合が悔しがるかもしれない。悪戯心も手伝って、俺たちは小百合の提案に乗った。
ファーストネームで呼び合うことで、親近感が一気に増した。この調子で、俺たちの親密さ井上に見せつけてやろう。
買い置きのパスタソースを使って三人でパスタを作って食べた。
いつもは、百合がいろいろ作ってくれるけど、こんな風に自分たちで作るのも悪くない。
小百合は、楽しそうにパスタをゆでたりソースを絡めたりしてて、見ていて気持ちが良い。そんな小百合を見ていると、微笑ましくて、何となく胸が暖かくなった。
百合の姪だというからには、容姿だけじゃなく性格も似ているんだろうか。もしそうなら、裏表のないさっぱりした性格のはずだ。
待てよ。いくら親戚でも、性格まで似てるってことはないだろう。
ふと、見ると祐樹も同じように思っているようで、俺は何となく焦った。
俺と祐樹が、同じ人を好きになる。
いかにも、ありそうな展開だ。何しろ、同じ幼稚園から始まって、同じ小学校、同じ中学校、同じ高校へと進んだのだ。
ズッと一緒に行動して来たから、同じ本を読んで、同じアニメにとち狂い、同じ漫画に夢中になった。
女の子の趣味が似てて当然なのだ。
俺にとって小百合が好ましいということは、多分、祐樹にとっても好ましいはずだ。
とんだ三角関係だ。
いや、まだ、恋愛に発展すると決まったわけじゃない。大体、学校にいる生徒の3分の1は女子だ。それなのに、俺も祐樹も相手がいないということは、俺たちが、まだ恋愛に関心がないってことだ。
恋をする前から、親友と恋人を争うことを心配するのは馬鹿げてる。
恋をしてから悩むことにしよう。
そんなことを考えていたら、祐樹が小声でささやいた。
「俊哉、どう思う?こいつ、学校どうしてるんだろう?
もしかして、私学かな?ほら、私学って学校によっちゃ春休みが早いだろう?」
祐樹も小百合のことが気になるようだ。
「もしかして、不登校とか」
俺が茶化すと、祐樹も無責任な憶測をささいた。
「引きこもりってことはないだろう」
本人を目の前にして失礼な話だが、聞こえるとは思っていなかったからだ。
ところが、これが、しっかり聞こえていたらしい。というのは、小百合が意味深に笑って言ったのだ。
「大丈夫。ウチ、不登校でも引きこもりでもないし。気にせんといて」
穴があったら、入りたいってこのことだ。
申し訳なさで身が縮む思いがした。
しかし、さすがに百合の姪はたくましかった。
俺たちの失言をスルッと無視し、笑いながら誘ったのだ。
「明日も暇なら、サイクリングせえへん?どうせ、おばさん、締め切りまで解放されへんし」
俺たちはこの提案に乗った。
この少女に興味がわいたからだ。
そして、百合がギブアップしたサイクリングコースへ出かけることにした。
百合の姪は、小百合です。親戚でも、ものすごく安易な名前です。




