40.
「・・・お母さん?」
その響きに、冬乃は顔をあげた。
「冬乃の家庭事情は聞いてるけど・・やっぱり、ほら、親じゃん?」
不意に脳裏によぎった母の姿は、
お決まりのように、昔の楽しかった頃の優しい母の笑顔だった。
ここ数年、見たことのないその笑顔を、
今さら思い起こすのは結局、自分がこの世界を捨てる覚悟ができはじめているせいなのだろうか。
(母には、義父がいるからいい)
あんな男でも、母のことは愛してくれているから、
自分がいなくなっても、きっとやっていける。
(むしろ、私がいなくなれば、せいせいしたりしてね)
・・・冬乃のほうは母のことを、また、あの蔵の時のように恋しく想うだろうか。
(でも大丈夫、私には、あの世界がある・・)
「冬乃、もう少し寝ておきな?ね?」
冬乃は頷いて、布団を被り再び横になった。
(・・・この二人も、私がいなくなっても二人でやっていけるよね)
大丈夫だよね・・。
「おやすみ、冬乃」
どうか、
もう一度あの世界へ、
「いい夢を見てね」
行きたい。もう二度とさめなくても。
この世界を捨てることが条件ならば、
私は捨ててでも、あの人の傍へ行きたい・・・
「入っていい?」
戸口に立った姿が、不意に声をかけた。
「え。あ、」
千秋と真弓は一瞬、目を白黒させた後、
「どうぞっ」
慌てて招き入れた。
「どうも。忘れ物したらしくてね。確かそこのボードに・・」
遠慮がちに先ほどの白衣の男が入ってくる。
「あれ、無いな」
「何を探してるんですか」
「黒の携帯用のケースなんだけど、見なかった?」
「いいえ・・どのくらいの大きさですか?」
「このくらい」
男と千秋たちの会話を遠くで耳にしながら、冬乃は被った布団の下、眠りのなかへと引かれていた。
「冬乃はケース見なかった?・・って、あれ、もう寝ちゃった・・?」
「やっぱり疲れてたんだね・・」
「あ、この部屋っていつまで借りてられますか」
「六時までは大丈夫」
「じゃあまだ、時間はたっぷりありますね」
「あ、あの黒いのって、ケースじゃないですか」
「ああ、あれだ。よかった、ありがとう」
ざわざわと冬乃の耳の奥、三人の会話とはべつの音が聞こえ始めていた。
(この、霧・・・・)
薄れてゆく意識のなかで、
冬乃はいつかに見た霧を目のまえに見始めて。
行くのだと。
あの世界へ戻ってゆくのだと、
冬乃は霞む意識のなかで、安堵に、微笑んだ。・・・・




