97.
―――離れたくない
冬乃は、
抱き締められるうち、今ふたりがまだ許されるなかで最も近いこの距離からも、やがては離れる時が来るを、恐れて震えはじめてさえいる自分に、
今こうしていても、その強烈なまでの喪失感、絶望感に覆われはじめている心内に、驚愕して。
もう永遠にこのまま離れず、腕の中に居させてほしいと、
不可能な願いを心の底から本気で口にしてしまいそうで、
気づけば、思い詰めた声が零れてしまっていた。
この世界がこのまま止まってしまえばいい
何度、祈ったことだろう。
(ほんとうに、・・もう、)
「・・・無い・・んです・・・」
茫然と冬乃は声を零したまま俯いた。
貴方を喪っても、
この記憶だけで
生きていける自信が。
あれほど、次世での魂の再逢に、真の永遠の誓いに、
一度は希望を見出せたはずが。
このいまの瞬間も、確かに、その希望があるからこそ救われている。
なのに何故いま、
この現世で、その時を迎えるまで待ち続けていられる自信が、粉々になってゆく絶望をも同時に感じてしまうのか。
また沖田の腕を離れた刹那に、あの疎外感の凍える壁が、冬乃を覆うのだろう。
早まっているその再来は、
冬乃を怯えさせる。あと数月のうちに、それが二度と超えられない壁と成る日の来るを今から思い知らせるように。
「・・今、何て言った?」
冬乃は顔を擡げた。
沖田の心配そうな眼とかちあい。
「何かが、無い、と聞こえた気がした」
貴方を喪った後
生きてゆく自信が無い
もうそんなことを、
再び彼に言ってしまえるはずがなく。
冬乃は、心の声を再び漏らしていたことに、今さら困惑して首を振った。
「・・離れたく・・ない、って言いました・・」
「・・・」
嘘を言ってはいない。
これが冬乃の心にいま、最終的に鬱積して止まない想いなのだから。
それでも何か感じ取られたのか。
沖田が黙って只、顔を伏せた冬乃を再び抱き寄せた。
ふたりはそれから、
束の間でも時が止まっているかのように。
長くそのまま身を寄せ合っていた。
沖田が、
つと近藤の気配に、冬乃の身をそっと離すまで。
「総司、此処か?」
冬乃も襖を見遣れば、
沖田が短く返事をしながら開けた。
「部屋を別に取りに行ったと歳に聞いて・・お、やはり冬乃さんも一緒か」
冬乃が恐縮して頷く前で、近藤が嬉しそうに微笑む。
「丁度良い部屋が空いていて良かったな」
「はい」
それへ沖田がにこやかに頷いてみせる。
「歳は文句を言いそうだが・・、さすがに旅籠なんだから、いいさ」
歳が文句を言ってもここは任せとけと、言わんばかりに近藤がその四角い顔を今度は大きく笑ませた。
「で、本題なんだが、」
近藤がそして一呼吸を置いて。
「明日にでも、江戸御城へ参上致すことになった。おまえも一緒に来てほしい」
(江戸城・・)
冬乃は、近藤のなぜか感極まった様子の表情を見つめた。
「おまえと歳と、三人で行きたいんだ」
近藤が、そう言う理由に、冬乃はすぐに思い至った。
もう身分など在って無いような世になってしまったとはいえ。
幕府直轄地“天領” である多摩の地に、農民の子として生誕し、徳川を主君と仰いで生きてきた近藤が、
京都での働きを認められ、遂には江戸城へ参上できるほどの身の上の、まごうことなき武士の身分と成って、この地に戻って来たのだから。
皮肉にも近藤の生まれた世が泰平の世であったならば到底、成し得なかった事だった。
(近藤様・・)
それでも、遂にこんな時世にまで堕ちることなく、泰平の世が再来したうえで此処へ戻ってこられたなら、どんなにか良かっただろう。
きっとそうして複雑な想いを懐きながらも、江戸城へと、
近藤をこれまでずっと支えてきた“戦友” である土方と沖田と共に三人で、登城したいと、
近藤が胸内に懐くは、至極当然で。
「光栄です、先生」
近藤の想いを勿論わかっている沖田が、やはり嬉しそうに答えた。
「よし・・早速これから明日の流れを決めておきたい。俺の部屋に来てくれ」
「はい」
行ってくるよと冬乃を振り返った沖田に、冬乃は行ってらっしゃいませと微笑み返した。
廊下を戻って土方の部屋の前で呼びかける近藤を、見ながら冬乃は、そっと襖を閉める。
近藤と沖田の今のやりとりで、冬乃の心の内は温かく灯されども、
心の周りには既にまるで纏わりつくかの、此処の世との見えない壁の冷気が、冬乃をぶるりと凍えさせて、
沖田の温もりが消えた己の肩先を、冬乃は咄嗟に両手で摩った。
そういえば火を熾していなかったことに気がつき。
心のみならず体も覆っている冷気に、
共につい先程までの温かな腕の内に居た時とは、あまりに激しい差を思い知らされ、冬乃は溜息をついた。
(そうだ、荷物もいれなきゃ・・)
急いで火を熾した冬乃は、廊下へ出る。
近藤たちと冬乃の各人の荷物は、二階廊下の端へと、宿の使用人によって既に船から運び込まれてあり、
冬乃は見慣れた自身の行李を、沖田のと思しき行李の横に見つけた。
何度か往復して、沖田の分や文机も一緒に部屋へと運び込み終えた頃、体の寒気ならば消えてくれていて、
冬乃は幾分ほっとしながら、部屋を改めて見回した。
目に留まった、光の降り注ぐ窓へと、冬乃は自然に近寄る。
眼下には、なんと枯山水の庭が広がっていた。
海側ではないものの、こうして窓の外に庭園を見下ろす雅趣な造りに冬乃は感動して、砂の紋様が幾つも優美に波打つさまを暫し見つめた。
(・・?)
不意に視界の端を動いた影に、冬乃が目を遣ると、
庭園を囲う建物の屋根の一角に、二匹の猫が居た。黒と三毛の組み合わせで。
傍の松からなのか、今しがた飛び乗ってきた様子だった。
日の当たる場所をちょうど選んで其処に居る二匹は、それでも少し寒そうに身を寄せ合いながらも、
まるで景色を眺めているかのように、じっとどこか遠くを見つめている。
やがてはそのまま安心したようにくつろぎはじめて、
そういえば海沿いの空には、成猫の天敵となるような猛禽類の鳥はそうそういないのかもしれないと、冬乃はほっと息をついた。
(・・あ)
さらにその向こうに生じた動きへ目を向ければ、
旅籠を囲う塀の先、緩やかな坂の勾配がために冬乃の位置からも見えている公道に、人が出て来ていて。
よく見れば、島田と永倉だった。
あいかわらず力士のようにぷっくりとした島田と、彼と並んではやたらと小さく見える永倉の、二人の対比が冬乃の目を引く。
二人は、京に出る前の江戸の頃から仲が良かったと聞くので、もしかしたら久々の江戸を堪能すべく、昔馴染みの店へ飲みにでも出かけるのだろうか。
歩んでゆく永倉たちとすれ違う、物売りの呼び声は、もうじき迎えるかき入れ時の夕刻に勇んで此処まで聞こえてくる。
視界の手前では、猫が大きなあくびをして。
空は、どこまでも果てしなく澄んだ碧。
此処でも、とても戦さの合間とは思えない平和な光景が、冬乃の前に広がっていた。
もとい江戸に来た時から目に映るすべてが、そうで。江戸はまるで、泰平の世のまま。
京阪での惨状が、幻であったかのように。
(・・ちがう・・今は取り戻しているだけ・・・)
今は平和に戻っている此処江戸でも、つい年末までは薩摩の暴虐によって惨劇が続いていたではないか。
その事を次には思い出し、
冬乃は、深く溜息を落とした。やるせなさに覆われながら窓から離れ。
何かをしていないと気が滅入りそうになり、冬乃は、行李に入れたまま使うので大して必要はないものの、とりあえずの荷ほどきに取り掛かることにした。




