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74.




 「わかった」

 

 ややあって沖田が頷くのを、冬乃は瞳に映し。震えた己の手をなんとか自然を装って沖田から離し、拳をきつく握り締めた。

 

 

 心のざわめきに、耐えきれず。

 逃れるように冬乃は、そのまま枯山水の庭先へ数歩あゆみ寄った。

 

 沖田が静かに横に立ち。

 そのままふたり言葉もなく。眼前に見渡す小宇宙なら、この家に初めて来た時と変わらぬ紋様を湛えて、そこに在るのに。

 

 まるで小さな“涅槃” のように。

 

 

 対するふたりの間では何が変わってしまったのか、わからずに。

 

 冬乃は戸惑って再び沖田を見上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう冬乃を抱くことはできない

 

 まともに直視すれば気の狂うような、己へ律したばかりのその決意を

 その通り直視せぬように。沖田は今も思考ごと逸らした。

 

 まさか早くも感知しているかの、度々縋るように見上げてくる冬乃の眼差しからも逸らし、

 

 目前の枯山水を、無理やりに凝視し。

 

 

 冬乃を元の世へ帰す事を最優先と、はっきり据えた先の瞬間から、

 心内に幾重にも張り廻らした、その箍は。

 

 同じく冬乃とのはじまりの頃に律したそれよりも遥かに強固に、それでいて尚、

 やもすれば、早、決壊しそうに軋み。

 沖田はこの先の絶え間なき、最後まで確定された苦渋を想像するまでも無く、心の底から咽せ返る。

 

 

 それでもこの先沖田が、この箍に、堪え続けさえすれば。

 

 

 内縁の婚姻を結んだとはいえ、

 幸か不幸か、まだ二人に子はいない。今冬乃は身籠ってもいないはずだ。

 今ならまだ、冬乃を此処の世に縛り付ける状況が、無いという事。

 

 

 (・・そして)

 

 冬乃の先の長い人生を、沖田との夫婦の契りに縛り付けることも、また無い。

 

 

 沖田の後を追う許しを求め訴えてきた冬乃を、二の世の誓いに託して引き留めようとこそしたが、

 もとよりその再逢への祈りは沖田の本心からの願いである一方、

 

 これからも生き続ける冬乃が、いつか新たな幸せを見つける日が来たならば、

 その時には、己に気兼ねせずその幸せを掴んでほしいと。

 

 

 そんな願いまでも伝えることは、先程の思い詰めた冬乃を前にしては叶わず。

 

 もし、冬乃がそんな沖田の想いを、朧げにでも感じ取っていた上であの訴えだったのならば、尚更に。

 

 

 冬乃にとっての幸せが、だが果たして本当に、この先も己との契りと思い出の記憶に寄りすがり生きてゆくことなのか、

 

 沖田には、答えが出なかった。

 

 

 

 ――子に関しても、また。

 

 

 『俺達の子を冬乃に遺したい』

 

 冬乃が覚えているかは分からないが、そう胸の内を冬乃へ伝えた時の事を思い起こす。

 

 異なる世の存在である二人が子を授かってはどうなってしまうのかと、不安な想いを冬乃が打ち明けてきた時、己が最後に結んだ言葉だった。

 

 それは今も、沖田にとって真の望みであり続け。

 そして、決してもう叶う事はない望み。

 

 

 あの時、

 この人智を超えた奇跡の中で、二人が子を授かるならば授かる、授からぬのならば授からぬ、成るように成るそれだけの事と。

 此処の世を選び生きてゆく冬乃の、抱えた不安をそうして沖田は少しでも和らげようとしたが。

 

 だがそれも、あくまで冬乃の永住を前提としたからこそ。

 

 この先、もし元の世へ冬乃が永久に帰る機会を得たその時に、

 もしふたりの子が誕生しているのなら――それがどんなにもうひとつの奇跡が成した事であろうとも、属する世は『生を受けた此処の世』であるはずの、その存在を、

 共に冬乃の世へ連れて帰ることが、はたして叶うものなのか。

 

 あの僧が話していたように冬乃の行き来が、世のことわりすら超越した真の奇跡だというならば、

 冬乃の身に許されているその奇跡は、ふたりの子に対しても与えられるのだろうか。

 

 だが人智を超えた世のしくみをどう解釈し、成るように成ると捉えようとも、

 所詮、人の想像でしかないその勝手な解釈に、元来不可能であろう事象までを希望的に委ねていいものでは無い。

 

 

 仮に、冬乃が此処の世の者に子を託す選択肢を採れるのならば、或いはそれが現実的な解決になるかもしれずとも、

 その選択を冬乃が心より望むとは、到底思えず、どころか、冬乃がどんなにか苦しみ、最後に何を優先するかなど、目にみえて明らかな事。

 

 なればこそ、冬乃が此処の世を必然的に選ぶようなその状況が、元の世へ帰る機会を迎えた時に残っていては決してならないだろう。

 

 

 

 「・・・」

 

 逸らしたはずの思考は、気づけば延々と胸内を堂々巡りしていることに。

 沖田は次には嘆息した。

 

 視線を合わすを諦めていた様子の冬乃が、ふと再びこちらを見遣るのが、視界の端に映る。

 

 

 

 

 

 ――なんでもない、と。

 

 冬乃をやっと向いてくれた沖田の、その眼が力なく微笑った。

 

 すぐにまた、どこか苦しげなままの眼差しは冬乃から逸れて、二人の前の枯山水へと戻ってゆく。

 

 

 (総司さん・・)

 

 なんでもないと、沖田は言っても、今の溜息が気になったままの冬乃は、彼のやはりどことなく辛そうな横顔をそっと窺う。

 

 おもえば彼にとってあまりに辛い未来を、ここにきて多く伝えてしまった。

 冬乃との間に今、何か隔てるほどの距離を感じさせる訳は、もしかしたら沖田の心がそれほどに心の内側と漸く向き合いはじめたからだとしたら。

 つい先程までは冬乃の荒れた感情に向き合うことで、沖田は自身の心は後回しにしてしまっていたのかもしれないと。

 

 冬乃の先の訴えだって、沖田は受け止めて冬乃を支え救ってくれさえしたけれど、

 反面に彼の心の内には鉛のような辛苦を、落としてしまったりはしなかったか。

 

 辛い、死にたいと、貴方を追わせてと。そんなことを、伝えてしまったのだ。言うべきではなかったはずの言葉たちを、幾つも。

 

 それなのにあの時の沖田の答えに、今こんなにも自分だけが救われているなんて。

 

 (・・ごめんなさい・・・)

 

 「総司・・さん」

 

 おもわず指先を、震えるままに横に立つ沖田へと必死でのばした。

 届いた先で、冬乃は横抱きのようになりながら懸命に沖田を抱き締める。大きな体は冬乃の腕にはまるで納まらなくても。

 

 「・・冬乃」

 少し驚いたような声が降って、抱き締めたかったのに結局縋りつくような姿勢になってしまった冬乃の、頭上をそっと、沖田の対の側の手が撫でた。

 「どうしたの」

 

 聞いた沖田は、だがまた常のように、答えられないでいる冬乃へ問いを追わすこともなく。

 只かわらず深く愛情の籠められた手が、再び冬乃を優しく大切そうに撫でてくれる。

 

 そう、

 

 (避けられてるわけない・・・)

 

 あの頃と同じ違和感など。きっと勘違いで。

 

 

 

 

 「――御免」

 

 

 (え・・・?)

 

 冬乃の肩へと下った温かな手に抱き寄せられながら、

 冬乃は咄嗟に沖田を見上げていた。

 

 何故いま謝られたのか、わからず。

 

 

 だけど捉えどころのない彼の双眸が、静かに冬乃を見返しただけで、

 そのまま振り返り玄関のほうへと向いた。

 

 「行こう」

 

 

 「・・は、い」

 

 

 優しいままの手に引かれ。冬乃は歩んでゆく沖田の背を見上げながら、問う言葉も、かける言葉も失い、

 

 もうきっと二度と帰ってくることのない、この家の隅々を見納めることも忘れ。ふたり初めて結ばれた寝室を、あっというまに通過して、何度も沖田の帰りを待ち食事を準備した土間も素通りして、

 

 二人は、呼び寄せた馬に乗り、

 家を後にした。






 



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