52.
ずっと女使用人部屋と、近藤や沖田の部屋に井戸と厨房との往復ばかりで、
食事の広間以外、おもえばろくに屯所内の他の場所へ行ったことがない。
道場すら未だ覘きに行ったことがなく。
よって当然のように。冬乃は本日迷子になっていた。
島田が豪商への借り入れの件でまた動いている。その書状の準備を手伝うため島田と待ち合わせした場所に、冬乃は延々と辿り着けず、はや四半刻。
つまり、
(三十分・・・くらいは経ってるよねもぅぜったい。島田様ごめんなさい~~!)
仮にも屯所内で、四半刻も迷子になる己が恨めしい。
今日に限って隊士達も出払っているのかまだらで、漸く出会った隊士ごとに場所を聞きながら、なんとか近くまで来ているはずなのだが、
(監察執務室・・・って、どこー--!!)
この叫びは一向に納まりそうにない。
(こんなとき総司さんが居てくれたら・・)
沖田も現在巡察中だ。
(あ、馬小屋)
嘶きは聞こえど、ずっと分からずにいたその場所を向こうに発見した冬乃は一瞬絆される。
(もうほんとにどうしよ)
勿論すぐ現実に戻され。
平成の世でなら携帯ひとつで連絡がつくものを。こういう時は現代文明も悪くないとしみじみ思いながら冬乃は迷い道を踏みしめる。
「冬乃さん?」
(!)
そんなさなか、
もはや懐かしくさえあるその声を背に、冬乃は驚いて振り返った。
蟻通様・・!
「なんか随分焦ってるようだけど、大丈夫?」
広大な、殆ど人に出会えずじまいなこの空間を彷徨い続けていた冬乃は、
突如天の救いを得たような心地に見舞われた。
「それが・・監察執務室で島田様と待ち合わせしているのに遅れてて・・・、蟻通様、ここからの最短の行き方を御存知でしたら教えてください!」
そういえば、蟻通とこうして何か会話をするのは一体いつぶりだろう。
冬乃がこの新屯所に来てから、広間ではいつも遠く向こうに居る彼と、目が合えば会釈をし合ってこそいたけども。
本当なら久しぶりに世間話のひとつふたつしたいところだけど、島田を待たせているのでどうにもならない。
「・・迷ってるってこと?」
「ハイ。」
改めてこの状況が恥ずかしくなりつつ、冬乃はぎくしゃくと頷く。
「時間あるし送っていってあげれるけど・・どうする?」
(え)
もうこれは。
天の救いで確定のよう。
「ありがとうございます、お願いします!」
冬乃は最敬礼でお辞儀した。
少し早足の道すがら、蟻通と期せずして世間話をすることが叶いつつ、
冬乃は今、連れてこられた小庭つきの縁側を見上げて大きな溜息を零していた。
こんな入り組んだ道のはずれの場所だっただけでも溜息ものなのに、
(・・・何ここ・・!?)
一見、位の高い御隠居の隠れ家とでも見まがうような見事な構えの、それでいて京都らしい風流な佇まい。
隊士部屋の棟へ最初に向かってすぐ、そこに居た隊士達に「此処じゃなくて離れにある」と教えられて、
なるほど監察達は仕事柄、隊士達に聞かれてはならない会話も多々しているわけなので、離れに構えていることは理に適っている、などと納得しながら来たのだが。
それにしたって此処だけ、やたら別世界すぎないか。
「此処すごいよね」
冬乃が茫然と見上げているのへ横から蟻通が同調する。
「聞くところでは元々この屯所には、お坊さんたちの住まいだったのを幾つか貰い受けて移設したものもあるみたいだから、きっとこの離れがそれで、住職の別邸とかだったのかもしれない」
(あ・・)
そんな特別な離れを監察達に宛がうとは。やはり近藤達が彼ら監察を高く評価し重宝していることの表れなのだろう。
「じゃ、俺はここで」
はっと冬乃は急いで再びお辞儀をした。
「大変助かりました・・!本当に有難うございました」
「こちらこそ久しぶりに冬乃さんと話せて良かったです。またね」
言うなり踵を返して去ってゆく蟻通の背へ、
冬乃は今一度深々と礼をした。
「申し訳ない・・待ち合わせをお願いした時、こちらをご存知そうなご様子にみえて・・」
約束の時間の四半刻も遅れてやってきた冬乃を前に、島田は責めるどころか、迷っていたと聞いてすぐに謝ってきて。
開け放たれた奥の座敷では、監察達がせわしげに動き回っているのを視界の端に、冬乃は、
いま目の前で大きな体を縮こませる島田へ、「いいえ」と大慌てで首を振って返した。
「てっきり隊士部屋の棟だと思ってしまってて、ねんのためと場所をお伺いしなかった私がいけないんです。本当に御免なさい」
「これはまた、どこぞの美女やろかと思えば!」
不意に起こった風とともに声が横合いから飛んできて、冬乃は驚いて声のしたほうを向いていた。
庭の障子をまさに開けたばかりの山崎が、冬乃の目に映る。
「おお、おかえりなさい山崎さん」
そのまま庭側から入ってくる山崎へ、島田が首を向けて挨拶するのを耳に、冬乃も急いで会釈する。
「ただいま島田はん。冬乃はんは随分と久しぶりやなあ。元気にしとったん」
冬乃は顔を上げた。
「はい、おかげさまで・・山崎様もお元気そうでなによりです」
あっという間にやってきて島田と冬乃の傍にすとんと座った山崎が、そして興味津々な眼差しを二人へ寄越して。
「にしても珍しいお客やな。どないなご用件?」
「それについては私から」
と島田がおもむろに三人の間へ、数枚の書状を広げた。
「局長が前回金策に自ら出向かれた商家のうち、返済期限の迫っているものです」
(あ)
もうそんな時期なのかと、冬乃は目を瞬いた。
「局長のお顔を立てたく、これらは期限迄にしかと返したい。そのため、別の商家から借り入れなくてはなりません。いま勘定方で用立てできる額は、半分にも満たぬので」
「難儀やなあ」
山崎が嘆息する。
「もうどこのめぼしい商家も御大名方に借り尽くされてるやろ」
(そう・・だよね)
第二次長州征伐のころ京滞在が長引いた幕府諸藩に、いま着々と戦さの準備に励む薩長しかり、
豪商たちへの度重なる彼らの負債は止むところ知らず、積年溜まりにたまっている。
いわゆる大名貸し、藩債と呼ばれる莫大な借金。
のちの明治政府が廃藩置県政策によって、これらを名目上、肩代わりすることになるものの、その額は限定的かつ作為的で、
昔より長年にわたり貸し出してきた大阪の豪商達にとっては、踏み倒されたも同然の結果となってしまう。
そのころ銀目停止という政策によって既に憂き目に遭っていたところへ、とどめを刺すかの事態に、倒産した商家は数知れず。
明治政府の中枢にいた元薩長土の、このさすがに非道なまでの政策は、まさに恩を仇で返した典型例といえる。
(援けてきた結果あれほど酷い未来が待っていると、先に分かっていたなら、資産を隠し通してでも絶対貸したくなかったはず・・)
未来を知る冬乃としては、いたたまれないものがある。
「・・で、冬乃はんには何をお願いに?」
山崎の声に、はっと冬乃は島田を見やった。
「冬乃さんには、この新たな借り入れのための、書状の作成をお頼みしたいのです」
畏まったように島田が冬乃を見返し。
「局長のお名前で作成していただきますので、局長への内容のご確認も併せてお願い致したく」
「承知致しました」
冬乃はぺこりと頭を下げて返した。
もとい想定していた仕事内容である。
「そのために見ておいていただきたい書状の数々はこちらで保管しておりましたので、御足労いただいてしまいました」
「ほな、お茶を出さな」
何故か楽しそうな山崎が、颯爽と立ち上がった。
「そんな、おかまいなく」
「ええからええから」
どこかの部屋へとそのまま向かっていく山崎を、冬乃が呆然と見送る前では、島田が側の棚からあれこれ他にも書状を取り出してゆく。
見ておいてほしいという書状たちだろう。
次から次と出てくるさまに、冬乃は目を見開く。
これは長丁場になるかもしれない。
コーン
と相槌を打ったかの、小庭から届いたししおどしの音を耳に。
(がんばろう・・)
冬乃は身を引き締めた。




