32.
新緑の中を一頭の馬が歩んでゆく。
さわさわと流れる林間の風は未だ冷涼ながら、
緑葉の天からは温かな木漏れ日が煌めいて、馬上の冬乃と沖田に惜しみなく降り注ぐ。
あまりの眩しさに目を細めながらも冬乃は、堕ちてくる光を仰いだ。
地を這うからこそきっと、まだ見ることのかなう光景を。
こうして、あの日と同じ晴れわたる蒼天も。
こんなにも美しい世界を、見納めるかのように何時もいつまででも外を見つめていた千代を、冬乃は思い出していた。
この眩しい光の先に、今、千代が居るのなら、
今度こそ心安らかに沖田をそして冬乃を見守ってくれているだろうか。
そして託された冬乃は、見届けることができるだろうか。
千代の祈りが導いた未来を、
少しでも愛する人が苦しまずに済む道を。
これから先も。
最期まで。
江戸から引き取りに来た千代の親戚の元で、彼女の葬儀は執り行われた。
長く覚悟していたはずなのに、冬乃の胸内に空いた喪失感は深く、幾度もふとした瞬間に涙が溢れ零れて。
いつまでも元気のない冬乃を心配した沖田が、二人揃っての休みを得た今日、新緑の林へ散策も兼ねて連れ出した。
此の世と未来を繋ぐあの文机を拾った廃寺へと、二人は向かっていた。
冬乃はいつかに沖田が話してくれた僧が、居るような予感が何故かして、強い期待と不安を共に忍ばせていた。
まだ冬乃が結核に罹っていないとの確信は持てないなかで、
沖田の傍にずっと居られる未来があるのか如何か、
きっと、その僧ならば観通せる。そんな予感もまた、しているからで。
現代の知識をもって出来うるかぎりの予防には努め、やがて長居もしなくなって。千代との時間をそうして過ごしてきたとはいえ、それでも不安は残っている。
もし、僧に会えて話をすれば、このさき冬乃に一体どちらの未来が待っているのか、
沖田の傍に最期まで居られる未来か、
沖田から離れなくてはならなくなる未来か、
冬乃はなんとしてでも確かめようとしてしまうだろう。
「・・驚いたな、これは・・」
沖田のその声に、はっと冬乃は、彼の肩先に凭せかけていた顔をずらして沖田の目を見上げた。
冬乃を横抱きで腿に乗せながら手綱を操る沖田の、その手が軽く引き、馬は歩みを止めた。
冬乃は沖田の視線の先を追って前を向いて。
瞳を見開いた。
「う、そ・・・」
一本の、満開の桜の木が。
古寺の前、静やかな風に白花を舞わせ、まるで別世界のような光景がそこに広がっていた。
「・・最後に来た時もたしか今の時期だったが、桜が咲いていた記憶は無いな・・」
最後に来た時というのは、二度目に寺へ来て僧に出会った時の事だろう。冬乃は沖田を再び見上げた。
つまり、いま桜の舞いに縁取られたこの古寺が、沖田の言っていた寺なのだと。
冬乃は高鳴る心の臓を感じながら、改めて前へと向き直る。
此処がいくら高地とはいえ梅雨入りも間近な今の季節に、満開の桜が、在るなんて。
冬乃の瞳に映る廃寺は、いかにも人の手から離れた寂れた姿ながら、却って周囲の自然に融け込んで、
そしていま奇跡の桜を纏い。
まるで、
天界の、入り口にでも迷い込んだみたいに――――
不意に、門の内から一羽の鳥が飛び去ってゆき、
鳥を追うようにして一人の僧が、苔で覆われる門柱の後ろから歩み出てきた。
と思ったら僧はこちらに気づいて、立ち止まった。
「・・貴女様は・・・・」
まだ離れた距離にありながら、まっすぐに冬乃を見つめて僧は声をあげた。
その、ひどく驚いた様子は。
冬乃の息を奪って。
冬乃は咄嗟の声も出せずに、僧を見つめ返した。
桜の香りに包まれ、冬乃は。つと我に返った様子で会釈を送ってきた僧が、こちらへゆっくりと向かい来るのを、なお息を殺して見つめた。
何故、僧が冬乃を見て驚いたのか、
彼こそが沖田から聞いた例の不思議な僧であるならば、その解は、おのずと導けて。
「ご無沙汰しております」
沖田が冬乃を馬から降ろし、自らも降りると、二人の前まで来た僧へと挨拶した。
やはり、彼が例の僧なのだと。冬乃はどきどきと激しい心臓の鼓動を胸に、僧の返事を待つ。
「すべては御縁によるお導きでございます。この時こそが、まさに再逢の時なのでございましょう」
冬乃の想像を超えた返事に。
冬乃は、次には続けようとしていた挨拶も忘れ、呆然と僧を見つめてしまった。
そんな冬乃へ再び向いた僧が、にっこりと微笑んだ。
「そして、これまでの長き旅路、お疲れ様でございました」
それはまるで、いま山林を来た道というより、
これまでの、千代を見送るまでの日々に対しての言葉にすら聞こえ。
冬乃はもはや圧倒されたままに、今の言葉へせめて礼を返さねばと、なんとか頭を下げる。
「彼女の事が、お分かりですね」
だがその横から降ってきた沖田の声に、はっと冬乃は顔を上げた。
「ああして驚いてらっしゃったご様子では」
「ええ、ではやはり・・こちらの御方は、此の世のお生まれではない、のでございますね」
「そうです。彼女は先の世から来たんですよ、此処で拾った文机のおかげで」
ごく自然に交わされてゆく僧と沖田のやりとりに、冬乃のほうはもう唖然として二人を交互に見やった。
二人は前回もこんな調子でこんな浮世離れした会話を普通にしていたのかと。
「おそらく文机は、」
僧がゆっくりと両手を合わせた。
「定められた"的" にすぎませぬ・・すべては、この御方を此の世へお運びになった御力があっての事でございましょう」
「それは法力、ですか」
「まことに左様でございます」
(ほうりき・・?)
倫理の先生の雑談にそんな話があった気がする。冬乃の記憶が正しければ、たしか仏教修行によって得るという超常的な力だ。
「それを為された御方が、この御方のお生まれになった世におわすのでございましょう」
「冬乃が言っていた人か」
(あ・・)
統真のことだ。
確かにそんな人がいるとすれば統真しかいないだろう。
冬乃は、けれどもおもわず首を傾げて。
それでは統真は無自覚にその法力という力を発している、という事になるではないか。
文机が的、つまり時空を超えて冬乃を飛ばす先の目標地点、いいかえれば座標とでもいったものだったらしい事は、分かったものの。
(・・・だいたい統真さんは、お坊さんじゃないし・・・)
しかも法力が存在するとしても、時空を超えさせるほどの力ならば、そんじょそこらの法力ではないことはさすがに冬乃にも想像できる。
修行僧ではとても成し得ない、
もっと、修行を完成させた"仏" の側に位置する存在の力――――
(でもそれって・・・・どういうこと??)
眩暈がしてきた冬乃に、知ってか知らでか沖田がつと覗き込んで微笑んだ。
「初めの頃、冬乃は未来から突然飛ばされてきたと、何故かも分からないと、そう言っていたね。その理由を、此の世へ留めてもらうよう最後にその人に頼んでくる時、聞いてみたりしたの」
「い、いえ」
困って首を振る冬乃の前で、僧が目を見開いた。
「最後に、とは、では幾度か行き来なさってらしたのでございますか」
「え」
はい、と今度は急いで首を頷かせた冬乃を、僧がその驚いた様子のままにどこか不思議そうに小さく息を吐いた。
「なんとそのようなことが・・・此の世でもまたそれほどの御力をお持ちの方から、法力をお受けになられてらしたと」
「あ、いえ、たぶん違います、その・・向こうへは飛ばされるというより、その人に引き戻されていたというか。此処に来ている・・た間、向こうでの私はずっと気を失っていて、その人が来るとすぐ否応なしに目覚めてしまってたので・・・」
「・・・・」
「・・・・」
僧が押し黙り、緊張した冬乃も押し黙った、
時、
ピイと澄んだ声をあげて先ほど見た鳥が、向こうの門柱に下り立ち。
翡翠色の羽をすっと伸ばす姿に、一瞬で視線を奪われていると、
「人の世に」
ふと僧が、感極まった様子で呟いた。
「未だ人の世に、生きながらにして彼岸に到達された御人は、途方もない法力をもお持ちになられます」
「然れども人であらせられるかぎり、」
はらりはらりと桜が舞い。僧は溜息すら零しながら続けてゆく。
「この十方世界の無常のことわりを、決して超えることはございませぬ」
無常
仏教において、すべてのものは移ろい、同じ状態であり続けることは無い、という意味であったはず。
冬乃は僧が何を言いだそうとしているのか、緊張の解けぬ胸内で息を凝らした。
「しかしながら、貴女様のお戻りになられていた先の世は、貴女様が過去へと移動されたことで変化した時の流れの先では無しに、元の流れの内にある先の世」
「・・・・」
冬乃の表情は、顔いっぱいに混乱を示していたに違いない。
僧が申し訳なさそうに一旦口を噤んで、「たとえ話を致しましょう」と言い直した。
「過去という上流から、未来という下流へと向かう、川の流れを思い浮かべてくださいませ」
冬乃は小さく頷いて返した。
横の沖田も興味深そうに耳を傾けている。
「水面に浮かぶ葉を、下流のとある位置から掬い上げ、上流へと戻したと致しましょう。川の水の流れもまた無常にて、同じ流れとはいきませぬ。葉は必ずや一寸もたがわぬ元の位置には向かわずに、違う位置へと流れ着きましょう」
冬乃は今一度頷いてみせた。
「ゆえに、貴女様が戻ることの叶う未来は、大なり小なり違う流れで行きつく先の未来でございます。
たとえ法力にて時を超え、そこへ向かうまでの間を飛ばしたと致しましても、その原則を破ることは決して叶いません。向かうべき先は、元の同じ位置ではあらず、新しい位置でございます、そこが新たな流れに約束された未来の地点でございます」
ですのに
と、僧は静かに深く息をついた。
「貴女様は、元の流れの内の未来へと、そこに留まる貴女様のお体の元へと、強制的に、引き戻されていらした」
(・・・あ)
「そのようなことを叶えられたほどの・・・万物のことわりを超越する法力をお持ちとなれば、」
冬乃は、僧が何に驚嘆しているのか。理解して。
「・・・・その御方は、」
僧は確信を籠めた眼を冬乃に向けた。
翡翠の鳥が門柱から音もなく飛び立った。
「・・その存在は。いにしえからの書物にて様々な呼称とともに、語られてはおりました。しかしお逢いになられた方のお話を直に伺った事は、ついぞございませんでした、」
奇跡の桜が今もおだやかに舞い落ち。
「この時まで」
ゆるやかな風が三人を包むと、するりと吹き抜けていった。




