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117.






 ずっと

 なぜ私なんか産んだのと思っていた

 けれど、この命を得たから私は

 彼に出逢うことができた

 そして、幸せだと想える時間をいま過ごせるのはすべて、

 これまで生きてこられたから。

 だから

 産んでくれてありがとうと

 ・・育ててくれてありがとうと。

 

 それだけは 今なら言える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「冬乃」

 

 入梅を迎えて。

 冬乃の好きな季節を、此処、京都で、

 沖田の隣で、過ごせることに。

 

 冬乃は、今日だけでも数えて何度めかの溜息をついた。もちろん、幸せによる溜息を。

 

 「・・冬乃」

 

 

 繰り返されたその声に。そして冬乃ははっと声の主を見上げた。

 

 「あ・・と、ごめんなさい」

 

 

 隣に見上げた間近の、愛しい彼は。

 冬乃がぼんやりしてしまったことを責める様子など無く。

 

 「ぼうっとして溜息までついて・・」

 唯、穏やかに微笑んだ。

 

 「そんなに可愛いと、襲いたくなるから」

 困る、と。

 

 

 「・・・」

 

 穏やかに微笑んで言う台詞じゃない。

 

 冬乃は顔を赤らめた。

 ちなみにこの頬の熱さもまた、数えていったい何度めなのか、もう分からないが。

 

 

 

 今日、冬乃達は。細やかな霧の雨のなかを紫陽花も恥じらう相合傘で、ひとつひとつ家を見て廻っていた。

 

 紫陽花が本当に恥じらうかはさておいても、道ですれ違う人々が揃って恥じらっているのは確かで。

 何故にも、人通りの殆ど無い小路をずっと通っているとはいえ、沖田が冬乃を完全に抱き寄せるようにして歩んでいるのだから。

 

 しかも時おり沖田からは、冬乃の額や瞼へ口づけまで落ちてくるのである。頭巾を着けていなければ、きっと唇にも降っているにちがいなく。

 

 (わ・・私の江戸時代のイメージってまちがってた・・?!)

 

 もっとも相合傘に至った原因を作ったのは冬乃だったので、この幾らなんでも濃厚なまでの相合傘歩きにたいして冬乃は何も言えない。

 

 

 そもそも此処の世に来て、冬乃が雨の日に傘で外を歩いたのは、二回だけだったのだ。

 あの、島原角屋の時と、暴漢に襲われかけた日の、風呂への行き来の時である。

 

 そして島原の時は、着物の裾を必死で持ち上げていた冬乃のために、沖田が傘を開いて渡してくれて、

 風呂への行き来のあの時もまた、行きは、着替えの着物を抱えて部屋を出る冬乃のために沖田が差しかけるようにして渡してくれて、

 風呂を出た時も同じく、傘を預かっていた沖田がさっと開いて渡してくれたので、

 

 おもえば、そうして何から何まで面倒見のいい沖田のおかげで、冬乃はなんと自分で傘を開くという経験をこれまでしておらず。

 そして今日ついに、

 

 屯所を出る時にはどんよりと曇り空で、雨が降るだろうと持ち歩いていた傘を冬乃が、

 二軒目の家を出て少しした頃、やはり降り出した雨を受け、開こうとして。

 いきなり壊した。

 

 

 (和傘なんて良い物、平成で使ったことなかったし・・っ)

 

 内心言い訳しつつ、

 丁度通りかかった人には、顔を背けてまで嗤われるわ、

 沖田には、開き方も知らないなら未来では傘は使われていないのかと訝られるわ、

 

 (それにぜったい、馬鹿力だと思われた・・。)

 

 過去の二回とも、閉じる時は何も考えず“普通”に閉じたので、開く時も、その馴染んだ洋傘の要領で開けると勝手に思っていた冬乃は、そうして散々な想いをするはめになり。

 

 

 とにかく役立たずと化した可哀そうな傘を手に、冬乃は沖田の傘へと入れてもらうこととなって今に至る。

 

 

 

 「次が最後の家だけど、大丈夫?疲れてない」

 

 今も眩暈を感じるほど真上で沖田に問いかけられ、もはや近すぎて冬乃は、応えて顔を上げることもできない。

 

 ふと考えれば、もう何度も口づけていて、この近距離にもいいかげん慣れてもいいものなのに、

 一向にそんな様子なき己の激しい心の臓の音で、傘にあたる霧雨の音など容易に掻き消される中。

 冬乃は只々、小さく頷いた。

 

 「おぶってもいいよ」

 そんな冬乃へ笑みを含んだ声が続いて落ちてきて。

 

 冬乃は今度は、ぶんぶん首を振った。

 

 



 

 

 

 

 散々見て廻っておきながら、結局冬乃にはどの家も素晴らしすぎて選ぶことなどできず、沖田に決定を丸投げしてしまい、

 しっとりと雨の続くなかを屯所へ戻ってきたのだが。

 

 当然に相合傘のままで屯所を横断する二人から、

 さすがに今は小路を歩んでいた時ほどではないものの、まだまだ十分すぎるほどの体の密着具合に、

 通りかかった隊士達が挨拶もそこそこに、やはり恥じらうように目を逸らしてゆく。

 

 

 現在、無心を努めている冬乃は、

 努めなくても無心さながら飄々としている沖田の隣で、ひたすら前方の地面だけを凝視していた。すれ違う隊士達をいっそ視界に入れぬようにと。

 

 

 

 今日は沖田の非番に合わせ、冬乃も休みをもらっていた。

 まだ夕餉までは時間が余っている。冬乃は、これからの時間はどうするのだろうと、ついに幹部棟まで近づいたあたりでふと首を傾げた。

 

 「このまま、俺の部屋きて」

 

 その冬乃の心内をまるで読んだかの瞬間を突いて、沖田が呟いて。

 「はい・・っ」

 あいかわらずながら冬乃は心臓を跳ねさせた。

 

 

 これから夕餉までどうするかと、沖田も冬乃と同じことを考えていたのだろう。

 

 と普通はそう考えるのだろうし、きっと実際そうなのだろう。

 だが、それが沖田相手となると、本当に心を読まれたのではないかと冬乃は勘繰ってしまうのだから、冬乃が、いや、冬乃だけでなく周りからみても、普段どれだけ沖田が人並外れてみえているのかと、冬乃は感慨深い想いにさえなった。

 

 

 まだ冬乃が隊士部屋で掃除をしていた頃、

 新選組なだけに、剣術の話題が尽きない隊士達が、畏怖にも近い尊敬の念をもって沖田の剣技の話をしているのを、冬乃は幾度となく耳にしていた。


 侠気があって面倒見のいい沖田のことだから、稽古や仕事では厳しかろうと、やはり慕われており、

 その様も、隊士達の言葉の端々から感じ取れた一方で、

 どこか同時に、沖田を恐れているかの響きもあり。

 

 それほどに。この武人衆において、沖田の剣術は超越しており、

 刃向かえば敵わない存在であることを、その種の心理的威圧を、彼らに与え、刻んでいる。

 

 (そのうえ・・)

 

 普段の沖田の、のさのさしていて、その飄々たる掴みどころのなさは、

 冬乃からみると、彼の超越ぶりにもはや輪をかけているとしか思えない。




 一つ傘の下で沖田の体温を、すぐ傍らに。冬乃は小さく息を吐いた。

 

 

 (いつかは、貴方のことを本当に傍に感じられるようになれるの・・?)

 

 今も体は、こんなにも近くにありながら。どこか遠く感じてしまう錯覚に、瞬間的に呑まれる時がある。

 

 それがふたりの間の、時間の絶対の隔たりに、阻まれているせいなのかと。その感だけでも冬乃には苦しいのに。

 

 

 (貴方は凄すぎて、私なんかが本来、釣り合うはずもない)

 

 

 なんで好きになってくれたんだろう

 

 聞きたくて、

 でも聞く機会を得ないままのその疑問は。少しずつ重くなって、冬乃を苛んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に入るなり強い抱擁を受けて、冬乃は息をついた。

 沖田の背へと腕を回しながら冬乃は、つかの間の体感に包まれて安堵する。

 確かにいま、彼と触れ合っている、この感覚に。

 

 もっと近づきたくて冬乃は回した腕に力をこめて沖田へ密着した。

 (総司さん・・)

 応えるように拘束を強めてきた沖田の、硬く分厚い胸板に冬乃は顔をうずめた。

 

 

 時間なら。今はたくさんある。

 今なら聞ける・・やっと、冬乃はそんな気がした。

 

 「総司さん」

 

 声がくぐもる。沖田の目を見られないことをごまかすように、顔をうずめたままだからだ。

 

 「質問が、あります」

 

 沖田の腕の力が少し弱められ、冬乃を見下ろす気配がした。

 「総司さんは、・・」

 冬乃は。顔をうずめたままで、続けた。

 

 「どうして、私なんかを好きになって・・くださったのですか」

 

 

 「その、私なんか、という卑下は、何のせい」

 

 「・・え?」

 「何をもって卑下している」

 

 (何を・・て)

 「私なんかに比べて、総司さんが凄すぎるから・・です」

 「俺が?」

 

 一瞬、思案するような間が空いた。

 

 「だったらその卑下は間違ってる。俺からすれば、貴女も凄い。つまり同じ立ち位置になるね?」

 

 「そんなわけありませんっ・・私の一体なにが凄いのですか」

 「冬乃こそ、俺の何が凄いと思ってるの」

 

 うずめた胸から直に響く沖田の低い声に、冬乃はこんなやりとりでもうっとりと頬を当てつつ。答えを紡ぐ。

 

 「それは・・、全部です、剣術もお人柄も、鍛えられた体も、なにもかも」

 

 「・・まだ冬乃に、俺の全部を見せてはないけど?」

 「え」

 「いや、いい。忘れて」

 (?)

 おもわず顔を上げた。

 どこか悪戯な眼が冬乃を見返し。

 

 「話を戻すが」

 その眼が微笑った。

 

 「それなら俺も冬乃の、鍛錬を積んだ剣術も、芯があり優しくて可愛い人柄も、綺麗な体も、凄いと思ってるからお互い様だよ」

 

 (え・・)

 

 

 そんなふうに褒めてもらえると思ってもいなかった冬乃は、次の瞬間には声も無く、頬を火照らせた。

 

 驚きすぎて沖田の目を見つめたまま。じわじわと胸内を広がりくる歓喜に、瞳の奥が緩んで。

 

 

 冬乃は、震えてしまう唇で囁いた。

 

 「ありがとうございます・・」

 

 「こちらこそ」

 落とされた言葉が、冬乃の唇に優しく重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 合わされた唇から、燻る熱は。

 冬乃の少しずつ深くなってゆく吐息にゆっくりと、 溶け込む。

 

 いつのまにか首の後ろへと這わされた手に頭を支えられ、冬乃の腰にある手には一層、体が引き寄せられる。

 

 一切の思考が掻き消え。全ての意識が奪われる、この時だけは。

 ふれあう彼とたしかに、共有、していて。

 この熱も。

 想いも。

 

 時も。

 

 

 そんな、まぎれもない実感に、

 とめどない安息に。

 

 溺れてしまう。

 

 

 

 

 

 「総司・・さん」

 

 唇が離されて、暫しのち冬乃は陶酔の波間で瞼を擡げ。夢うつつに沖田を見上げた。

 

 もっと。

 ふれられていたい。

 

 離れたくない。

 

 

 「ずっと・・」

 

 零れてゆく吐息に引かれるように、想いは、言葉に流れ。

 

 「こうしていたいんです。だから」

 

 離れないで

 

 「総司さんにたいしてだけは、私は」

 

 恍惚と。朦朧と、冬乃は。染まる頬を綻ばせ。

 

 「好色・・みたいなんです」

 

 

 だから。おねがい、ふれていて。

 

 ずっと離さないで。


 

 

 

 

 

 「・・・それは俺を誘ってるの」

 

 

 

 (・・え?)

 

 

 

 ぼんやりと意識に靄が掛かったままに。

 

 冬乃は、気づけば足元の畳へ、

 押し倒されていた。

   






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