116.
どうやってあれから近藤の部屋へ来たのか、冬乃はよく覚えていない。
倒れかけたところを沖田に支えられ、「その反応は可愛すぎだろ」とまた揶揄われたところまでは、覚えていて、
頭の奥がぼやっとするままに冬乃は、近藤の茶の用意のために井戸場へ、沖田は斎藤を連れて自室へとそれぞれ向かい。
そして今に至る。
井戸場で、恐らくは体が覚えているままに自動的な動作をしていたのだろう、
きちんと今、冬乃の膝の前に、茶に必要なものが揃っているところを見る限り。
「冬乃さん、さっき歳の言った事は、そんなに気にしなくていいよ」
未だ気を抜くとぼんやりしてしまっている冬乃に、近藤が気遣ってくれる。
「すみません」
冬乃は慌てて会釈をして、用意を終えた茶の盆を近藤の脇の畳に置いた。
置きながら。
(総司さんと・・)
またも、冬乃の心の視線は茶を素通りしてしまう。
(・・・一緒に住む・・)
きっと冬乃が食事を作って沖田の帰りを待っていて。
風呂の用意もしておいて。
そして彼が帰ってきたら、今日はどちらにしますか、なんて聞いたりするのだ。
(そんなことが、叶っていいの・・?!)
そして、・・だけど。
(夜もずっと一緒、てことは)
冬乃の心配している事は、避けようが無いのではないか。
それでも沖田と一緒に住むという、そんな甘い誘惑に、
冬乃が抗えるはずも、また無く。
「冬乃さん、そういえばそろそろ書簡は読めるようになったかな」
ふと近藤が文机から顔を上げて、冬乃を振り向いた。
「あ・・」
冬乃ははっとして近藤を見返した。
沖田がこのところ毎日欠かさずに、少しの時間でも確保してくれて、おかげで文字の読解の特訓は更に進んでいた。
もっとも、その特訓の時間は、随分と芳潤な時間でもあって。冬乃が難しい箇所をきちんと読めたりするたびに、抱擁と口づけのご褒美が降ってくるのだから。
時々、冬乃がかえって読解に集中できなくなることは、もちろん内緒にしている。
「はい・・っ、恐らくなんとか・・」
冬乃は、どきどきと胸を高鳴らせつつ答えた。
「そうか、それは有難い。では早速・・」
近藤が、冬乃へ書簡を出してきて、仕事の指示を伝えてくるのへ、
真剣に向かいながら冬乃は、
沖田のおかげでついに従事が叶ったこの仕事に、今は全力で集中しよう、と。漸く心内を鎮めたのだった。
藤堂と沖田は、“男同士の話”というのを無事済ませた様子だった。
二人の以前と変わらぬやりとりを耳に、冬乃は安堵とともに、
食事の場でいま冬乃を挟んで、愉しげに旅の土産話をしている藤堂を隣にして、
これまで全く、藤堂の気持ちに気付けなかった自分に、少々落ち込んでもいて。
(ずっと妹みたいに接してもらえてるんだとばかり・・)
以前に山野に、鈍感、といわれたが。
これではその通りではないか。
(ごめんなさい藤堂様。そしてありがとうございます・・)
同じかたちの想いは返せなくても、冬乃にできる方法で想い返していけたら、と。
冬乃に対しても以前と全く変わらない態度で接してくれる藤堂に、冬乃はそして心の内で頭を下げた。
(それに・・山南様のことも・・本当にごめんなさい)
藤堂、斎藤、沖田、冬乃の四人で広間へ来る間。
八木家への挨拶の後に光縁寺で手を合わせてきたよ、と藤堂のほうから話をしてきた。
山南の埋葬された寺だ。
『皆で必死に説得したのに決意が固かったんだって?山南さんらしいや』
哀しく微笑ってそう呟いた藤堂からは、彼の内で訣別ができているさまが感じ取れて。
(藤堂様・・)
藤堂は受け止めていても。
冬乃にとっては、死期を知っていながら、命を助けることは叶わない己の無力さは、再び冬乃の胸に暗く翳を落としていた。
じきに、藤堂もまた、避けられない運命に向かってゆく。冬乃は考えないように努めていた彼のこの先を、どうしても思い出してしまい。
「・・ていうことがあったんだよ!ありえないでしょ?!」
今も楽しそうに語らう藤堂の隣で。冬乃は膝の上の手を握り締めた。
(命は救えなくても。藤堂様が望む最期を見つける、絶対に)
騒ぐ心を落ち着かせるべく、静かに、そして冬乃は息を吐いた。
東下組が帰屯してから連日。
斉藤のほうはどうか分からないが、沖田はやはりどうやら“斎藤渇望症”だったらしく、時間を見つけては斎藤を道場に引っ張り込んでおり。
久々に彼らの稽古を見る者達も、初めて見ることになった新入りの者達も、大いに刺激を受けている様子で、このところ道場は常に活気だっていた。
なにより、局長の近藤と副長の土方の下に、監察および、八つの隊に各組頭と伍長を配置した新編成も組まれることとなり、これまでの体制はより一層強化され。
今、まさに新選組は、最盛期を迎えていた。
編成の表を冬乃は、すでに近藤の部屋で見ていた。
後世によく伝わっているものとは、少々違っていたことが印象深く、冬乃は、未だ平成十二年の段階では未発見の事柄なのだろうと、胸の高鳴る想いで受け止めた。
各隊の組頭に関しては以下である。
一番隊 組頭 沖田 総司
二番隊 組頭 永倉 新八
三番隊 組頭 井上 源三郎
四番隊 組頭 藤堂 平助
五番隊 組頭 斎藤 一
六番隊 組頭 伊東 甲子太郎
七番隊 組頭 武田 観柳斎
八番隊 組頭 谷 三十郎
そして、
小荷駄隊 組頭 原田 左之助
新編成が貼り出されたその日。冬乃は千代を訪れるつもりで休みをもらっていた。
以前に千代と古着屋で買った、淡い梅鼠色の帷子を着こみ、門へと向かっている時。
「冬乃さん」
梅雨が来そうで来ない微妙な空の下、声をかけてきたのは蟻通だった。
想い返せば、沖田と大々的に恋仲であると知れ渡ってからは、あの池田の他に、冬乃に声をかけてきた数少ない隊士ではないか。
「なんだか、すごく久しぶりに話せる気がする」
少し遠慮がちに囁いた蟻通は、どこか寂しげながら温かい眼差しで、冬乃を見た。
「あの、・・沖田先生との事、おめでとう」
そして零されたその台詞に。冬乃はおもわずぺこりと頭を下げて。
「冬乃さんのことは、ひとめぼれでした」
下げた頭に優しく降ってきたその声に。冬乃は、はっと頭を上げた。
(蟻通様・・)
「もちろん、相手にされてないのは分かってたから。・・俺は冬乃さんが幸せだったら、それでいいんです」
呼びとめてすみません
と蟻通は言い足して、冬乃から一歩離れて。
「どうかずっとお幸せに」
「あ・・ありがとうございます・・っ」
冬乃は込み上げる想いに、もう一度、深く礼をし。去ってゆく蟻通の背を暫く見送った。
彼もまた、誰かと幸せになれますように。冬乃は心から祈らずにはいられなかった。
(・・まだ池田様には、恋仲を装っていると、そういえば思われたままだったりするのかもしれない)
やがて、門へと再び歩み出しながら、冬乃は以前やはり声をかけてきた池田に関して、胸に過ぎった疑問にまたすぐに足を止め。
(装うのを黙っていてくれたわけだし・・その御礼を兼ねて、きちんと伝えたほうがいいよね)
「おい未来女」
(わ!)
いきなりそこへ、背後から土方の声が響いた。
吃驚して振り返れば、少し着飾ったふうの土方と、隣には沖田がいて。
(あ・・)
「おまえ、どこ行く」
土方の問いに。しかし瞬間、冬乃は固まった。
沖田を前に、咄嗟に言葉が出なかったのだ。
千代に会いに行く、とは。
「あ・・と、ちょっと買い物に・・」
千代に。冬乃は、無性に会って話がしたかった。
沖田との事を伝えられるわけでもないのに、それでも。
すでに冬乃は、千代の運命すら変えてしまったのだ。
彼女がそれなら今そしてこの先、どうなるのか。
気懸りだった。
「一人でのこのこ出歩くな。おまえだって、顔が知られているかもしれねえんだぜ」
冬乃を前に、土方が溜息をついた。
「え?」
「俺や組の人間との外出時には、毎回頭巾を着用してもらってますから、大丈夫なはずですよ」
あまり冬乃を怖がらせないようにと、沖田が横から継ぎ足す。
冬乃は二人を見上げた。
(一人で出歩くなって・・どういうこと・・?)
「貴女には言ってなかったね。最近、隊士が狙われる事件が続いていて、隊士達には今、一人歩きを禁止している」
続いた沖田の説明に、冬乃は驚いて目を瞬かせた。
「まあ、幹部の人間達は、好き勝手に一人で歩き回ってるけど」
藤堂とか。
ついこの前も一人でさくさく壬生へ行っていた彼の名を、沖田が哂って例に挙げる。
(私の少し前に、井上様が出ていくのもお見かけしたような・・)
「まったくもって示しがつかねえ」
規律の鬼の身からすると面白くないのか、土方が舌打ちした。
「だからといって、貴方の女通いにまで付き合わされるのもねえ」
「ってめ、いちいちばらすな」
(え)
冬乃はおもわず沖田を見上げた。
だがすぐ、不安げな表情にでもなってしまったかと気づいて俯く。
「・・ああ、」
沖田が、冬乃の驚くほど優しい声を発した。
「俺はただの土方さんの護衛だから。この人を上七軒まで送ったらすぐ帰るよ」
沖田のその言葉でほっとしてしまった冬乃は、顔を上げながらそのままちらりと土方を盗み見た。
上七軒・・お相手は後世に有名な君菊さんだろうか。
と咄嗟に思った事は、胸に秘める。
「・・・て、考えてみりゃ、おめえも俺を送った後は、一人で歩くんじゃねえか」
これではやはり示しが。
と、ふと眉をひそめた土方に、沖田が今更気づいたのかと哂う。
土方からしても、沖田が一人で歩いていようと心配は無いために、失念していたのだろう。
「俺のことはいいですよ。ただ貴方は、帰りは駕籠で帰ってきてください」
夜は暗いからどうせ見えまいなどと油断しないように、と土方に念を押す沖田に、土方は「わかったよ」ときまりが悪そうに横を向いた。
「で、未来女のほうはじゃあ本当に大丈夫なんだな」
「そりゃ、念には念をいれりゃキリがないですよ。本当なら四六時中そばにいて護っててやりたいですし、むしろ叶うならば、安全な場所にずっと閉じ込めてしまいたいですがね」
そういうわけにもいかないでしょう。
沖田がさらりと。溜息に乗せて呟いた。
(・・・え?)
今すごい台詞を告白された事に。一寸のち気が付いた冬乃は、
次には真っ赤になっていた。
「てめえ・・さらりと、デカいのろけを聞かすんじゃねえ」
土方が、冬乃の見事に色づいた頬を見やって苦笑し。
(総司さん・・っ・・)
はい、もう閉じ込めてください・・!
冬乃のほうはよほど返したいが、もちろん口を噤む。
「それとも、」
沖田が手を伸ばし、そんな冬乃の色づいたままの頬を撫でる。
まったく土方の存在におかまいなしである。
冬乃はもちろん、されるがままでいる。
「冬乃をそれほど心配してくれるなら、俺が冬乃の買い物につきあうから、貴方は駕籠で行ってくださいよ」
「嫌だね。歩くのが好きなんだよ俺は」
土方が即答する。
「知ってます」
沖田が仕方なさそうに笑った。
土方がむかし行商をしていた頃に歩いた総距離たるや、いったい日本列島の何周分だろうか。
歩くことそのものが好きでなければ、とても出来た事ではあるまい。
土方のその健脚ぶりは、
徹底的に鍛えてきた足腰をもつ沖田の健脚ぶりにも、容易に匹敵するだろう。ある意味それ以上かもしれない。
「冬乃、どうせなら北野で買い物すれば?」
そして沖田が妥協案を出した。
上七軒は、前に安藤と行った北野天満宮の界隈にある。
「ああ?冗談だろ、こいつを連れて歩いたら着く頃には日が暮れるだろが」
冬乃の亀歩きに付き合うのが嫌なのだろう、土方が即時の反対表明を出した。
(う)
冬乃は、買い物と嘘をついた以上、一瞬言葉に詰まる。
「あ、あの・・私のことはだいじょうぶですから・・」
土方からの無言の圧も来るので余計に冬乃は焦る。
「・・俺が冬乃と歩きたいんだけど」
強烈すぎる威力だった。
冬乃は押し黙った。
そんなふうに言われた冬乃が断れるはずも、無い。
「帰りは・・さすがに歩いてたら夜中になりそうだから駕籠で帰ろう」
(う)
「おまえな・・」
そうまでして一緒にいたいのかよ。と土方の諦めた声が落ちて。
はたして三人は、並んで町へ出ることとなった。
「頭巾は持ってるよね」
「はい」
外出の際には何があるかわからないので頭巾を携帯するよう、沖田に言いつけられている。冬乃は取り出すと、沖田達と門へ向かいながら着用した。
もっとも、沖田達と共に歩かなければ、頭巾をいま着ける必要もないのだが。
それでも沖田と町に出られるのなら、もちろん頭巾だろうが何だろうが被ってでも出たいのが本心で。
(嬉しい・・)
沖田と二度目の北野。
ただ、千代の所へ行くのはまた後日になるだろう。
(それにしても総司さんって、やっぱちょっと強引・・?)
土方もそれを受け入れているのか、こういった仕事と関係ない事ならば沖田に譲るのだと。
少し驚きながら冬乃は、土方と沖田を交互に見上げた。
沖田が、つと振り返り。
「そのうち歩くのが辛くなったら、おぶってあげる」
にっこりと笑った。
(お・・おぶ)
本気で言ってそうな沖田に、冬乃は二度目の赤面を返しながら。
沖田の隣で土方が「恥ずかしいからやめてくれ」ともはや呻くのを目にした。
「で、おまえは何を買う気なんだ?」
土方を先頭に、沖田と冬乃が横並ぶかたちで、三人は昼下がりの町中を歩む。
冬乃がいつもの作業着でなく帷子に着替えているので、土方も沖田も、ただのちょっとした買い物だとは思っていまい。
しかしそもそも嘘だったので、土方の今の問いに冬乃は再び返答に困った。
「かんざし・・を?」
結局にわかに浮かんだ物を述べてみた冬乃だが、しかし、
「結ってねえのに、それ以上どこに差すんだよ」
すぐに土方につっこまれる。
尤もだ。
「いつもその同じ簪だけでは飽きるからでしょ」
沖田が何ともなしに聞いてきた。
おもわぬ助け船に冬乃は、頷きかけて、
だが沖田に買ってもらったこの簪に、決して飽きてなどいないので、はっとして、冬乃は頷くどころか結局ぶんぶんと首を振っていた。
「何それ、どっち」
冬乃の動きが面白かったのか笑い出す沖田に、
振り返った土方が、怪訝そうに冬乃を見る。
(だ、だって)
今も冬乃の頭の横、少量の束にして捩じった髪に差しているこの簪には、買ってすぐに命すら助けてもらったのだから。
沖田に買ってもらえた、それだけでも宝物なのだ。後生大事につけていたくて当たり前である。飽きるなど絶対にありえない。
(でも、これもつけたままで、土方様の言うように、さらに二本目まで流し髪に差すのは・・ちょっと変)
「おめえは大体、何故結わない」
そこに更なる土方のつっこみが来て。冬乃はついに内心涙目になった。
髪を流している姿を沖田に褒められたからなどとは、口が裂けても言えない。
たぶん沖田も褒めたことなどとうに忘れているだろう。
「・・・結うと頭が痛くなりそうだからです」
咄嗟にまたしても変な返しをした冬乃に、沖田が噴き出すのを横目に、
「・・・・」
土方が。そして遂に、完全に呆れた顔で冬乃を見返した。
沖田はこの時代の若者らしく、総髪に出来得る程度の長さの髪をまとめて後ろに結んでいるが、
さすがに土方は、剃り落としてこそいないもののきちんと髷を結っている時が多い。
髷のきつさに比べたら、女性の髪の結い方など緩いほうなのかもしれず。
冬乃は、適当な返事をしたものの恥ずかしさに負けて俯いた。
「結わなくていいよ、これからも」
(え)
しかしそこに落ちてきた沖田の優しい声に、冬乃は瞬間的に顔を上げていた。
「このままで。」
沖田の手が、頭巾の下の冬乃の髪を絡め、梳いた。
(総司さん・・!)
なんとなく道行く人々の視線を、今のでよけいに感じるが、冬乃はもちろん気にしない。
「てめえら」
土方が今一度振り返り、睨んできたが。最早それも気にしない冬乃である。
(総司さんに、また認めてもらえた・・っ)
冬乃を愛でるような眼差しで。
冬乃の意識はもう今、それ以外に向きそうになく。
「・・大体、てめえがいつも下ろし髪で挑発してっから、隊士の奴らが浮き立ってんだよ」
(・・・ん?)
いま何か変な単語が聞こえたような。
沖田へ集中していた意識をむりやり土方の今の台詞に当てるべく、冬乃は鼓膜の残響を再生する。
(挑発・・て言った?)
「それに関しての誤解は、彼女自ら解いたはずだからもう大丈夫ですよ」
冬乃がますます首を傾げるような返事が、横で沖田から飛ぶ。
(何、何の話)
「井上さんだ」
だが冬乃が沖田を見上げた時、沖田が前方を見つつ呟いた。
つられて前を見た冬乃の目に、道の先かなり遠くに、こちらへ歩んでくる井上が映る。
先ほど何処かに出かけていたから、いま屯所への帰りだろう。
「・・ったく源さんまで一人歩きかよ」
土方が早くも溜息をついた。
「様子がおかしいですね」
だが沖田がさらに呟き。
(え?)
「井上さんの後ろを来る三人」
冬乃がその言葉に、井上のさらに後ろを凝視した時、
「あ」
土方が小さく声をあげた。
同時に冬乃も、井上の後方で、己の顔に布と頭巾を巻き始めた三人の侍を見とめて。
確かに、明らかに怪しい。
「総司、」
どうする
と土方が、前を睨んだまま沖田に声をかける。
井上との距離はまだ大分ある。助けに行くには遠すぎる。
「井上さんなら大丈夫ですよ、俺達はむしろ奴らに気付かれぬよう、このまま歩んだまま近づきましょう」
井上の後ろを離れて歩む頭巾の三人を、冬乃は固唾を呑んで見つめる。
井上の歩みはかなり速いのか、冬乃達が亀歩みにもかかわらず、井上との距離は思ったよりも早く縮まってゆく。
後方の三人は、まるで絶好の機会を根気よく窺っているようだった。
ついに井上のほうも、土方達に気が付いた様子だった。だが手を振ってくるでもなく、ただ視線を合わせてきただけで。
つまり、後方の三人に気付いているのだ。
互いの距離はさらに縮まる。
冬乃は息を殺したまま、彼らを見据え。
(あ)
そして、躍動は。一瞬にして起こった。
頭巾の三人が抜刀するのと、
その殺気を読んだ井上が抜刀するのとは同時だった。
キィン・・ッと鋭い金属音が響き、
井上が振り返って受け止めた、その攻撃は、
だが二の太刀を繰り出すことは無く。
受け止められたと知るや否や、男達は慌てるように、井上に背を向けて走り出した。
不意に風が、冬乃の横を吹き抜けて。
違う、
風と感じたほどに。
次の刹那に沖田と土方が、彼らを追うべく駆け出したのだと、冬乃は気づいて。
茫然と。まさに風の流れ去るように遠ざかる二人の背を見つめた。
「冬乃さん、」
あっというまに二人とすれ違いながら井上が、冬乃のほうへ駆けてくる。
「井上様」
「驚かせてごめんよ」
納刀しながら井上がそう言うと、土方達へ再び視線を投げた。
「いやあ、あの二人が居合わせて良かった」
「え」
「いくら逃げ足が速かろうと、あの二人には適うまい」
井上の台詞に今一度、土方達を見やれば、成程もう今にも追いつきそうで。
「このところ、隊士を襲っては、斬り結ばれるとすぐ逃げていく輩がいてね・・間違いなく奴らだろう。これでやっと収まる」
まさに先程、沖田が言っていた件だろうと。冬乃は想い出す。
まもなく悲鳴と共に、土方と沖田に峰打ちされた頭巾の三人が、路上に倒れこんだ。
「おお、良し良し」
ほっとした様子で井上が声をあげる。
沖田達が三人を縛り上げるのを目に、井上と冬乃は、人々の喧噪の中をぬって進んだ。
町の者達は、目撃した今の一連の活劇に湧き立っている様子だ。
縛り終えた三人を道の端へと寄せ、沖田が立ち上がり、冬乃達のほうへ向かってきた。
土方は、気絶したままの彼らの脇に立つ。
向かってくる沖田も向こうに立つ土方も、あれほど速く走った後なのに既に息も乱していないさまに、冬乃は驚いた。
「さてと、儂はちょっくら番所に寄るか」
沖田が来るのを受け、井上が呟いて。
去ってゆく井上と入れ違うように沖田が、冬乃の傍へ立った。
(あ・・)
特に会話も無く。ただ傍に立たれるだけで、
どきどきと早まり始めた心臓に。冬乃はもう、自嘲してしまうしかなかった。
たとえば今の捕りものだってそうで、只々、逢うたびにどうしようもなく何度でも、彼に惚れ直すように。
幾たび繰り返しても、冬乃の胸の高鳴りが無くなることなんて、きっと永遠に来ないのではないかと。
冬乃はそっと横に見上げた。
沖田がすぐに見返してきて、穏やかに微笑んでくれるのを。冬乃はそしてまた、慣れることなくどきどきと目を逸らした。
やがて、井上が番所から役人を連れて戻ってきて。土方と沖田は後を井上達に任せ、再び、冬乃を連れて、北野へと向かい出した。
道すがら、どんな家がいいかと改めて沖田に聞かれ。沖田と一緒ならどんな家だって嬉しいばかりで、何も思いつかずに困り出す冬乃に、
こちらも困り出した沖田が、
「そしたら俺のほうで幾つか候補を見つけておくから、それらを二人で見に行って決めよう」と、新婚さんですか、と冬乃がまたも倒れそうになるような台詞で締めくくって。
やがて、やっとのことで着いた北野で、土方と別れ、
予備として持っておくことに落ちついて冬乃は、沖田と二人で簪を見てまわるという、これまた幸せすぎるひとときを過ごした後、
さらには当たり前のように買ってもらえた簪を手に、駕籠に乗り込んだ頃には。
もうすっかり日は傾き、空には勝色が広がりゆく時分で。
駕籠に揺られながら、冬乃は大きく幸福感に溜息をついた。
幸せでも溜息が出るなどと、
沖田に出逢うまでは知りもしなかった。
(こんな幸せが永遠に)
続くことなど、
無いとわかっていても。
わがままに、更なる奇跡を祈ってしまう。
何度でも。この時だけを、繰り返せたならと。
(だけどそれは当然叶わないこと・・)
冬乃は手の内の簪を握り締めた。
だから、今を。
今の、この二度と戻ってこない、一瞬の積み重ねを。
大切に記憶に刻んで、生きていこうと。
冬乃は己に、懸命に言い聞かせる。
幸せでもいいと言ってくれた沖田の言葉が、想い出されて、冬乃を包み込む。
自分の存在で、沖田と千代の運命を変えてしまった罪悪感は、消えることは無いかもしれなくても。
(消えなくてもいい・・)
むしろ消えてはならないのかもしれず。
この罪悪感と。
向かいゆく不安と恐怖と。
今、目の前の幸せを感じる想いと。
深い止めどない感謝の想いと。
共に。全てまとめて、持ち続けていく。
それが、
この先の道しるべとして今の冬乃に、唯一出せた答えだった。




