肆、她的心
白虎の腕の中にいる者を見るためか、焦点を合そうと細められた目が一瞬見開かれる。その驚愕の表情がほんの瞬く間であったことを彼女は少しだけ残念に思った。
「……四神よ、吾を支持してくれたこと大変嬉しく思う。……して、監兵神君(白虎のこと)……その、抱いているのは……」
湯は王となった威厳を以って対応しようとしていたが、子華が気になったようだった。さもありなん、と彼女も思う。あの時殺したはずの女が四神の腕の中に納まっているのだから。
「見るな」
ブワッと空気が動く気配と共に、ひどく低い声が頭上から届く。その怒りをはらんだ声音に彼女は身を縮めた。白虎は何をそんなに怒っているのだろう。
「これは我らが花嫁。そなたたち人間が気安く目にしていいものではない」
「……承知しました」
そういえば紅浜が、四神は人に対して非常に嫉妬深いと言っていたような気がする。ということは、彼女が今後人に触れることはないのだろうか。
その後のやりとりはつつがなく終り、気がつけばまた先ほどの部屋の中にいた。どうやら四神は一瞬でどこかへ移動することができるらしい。
(すごいわ)
だからといって特に行きたいところがあるわけでもないので彼女としてはただ感心するだけである。
「……子華、そなたあの男が好きなのか?」
「え……?」
逃がさぬとばかりにきつく抱き込まれ、彼女は困惑した。驚いて見上げるとぎらぎらと光る金の瞳が真っ先に飛び込んできた。怒りと嫉妬を内包したその表情は彼女に死を覚悟させるには十分だった。
「……いいえ?」
どうせ殺されてしまうなら、と開き直り、けれど否定はしておく。
(もう、愛してなんていない)
「……ここに連れて来られる前に、王と似ている人がいたのです。だから……」
「そうか。そなたに関しては抑えることができぬ。王との面会はこれっきりだ、よいな?」
「はい」
それは全くかまわない。ただここにいるだけで湯にはいい圧力になるだろう。
「……新年の祭祀ぐらいは顔を出してもらうことになりますが……」
紅浜がため息混じりに呟く。眷属というのはなかなか苦労が絶えないもののようである。
お茶と茶菓子の用意がされ、やっと一息ついた時も子華は白虎の腕の中だった。どうやら完全に”籠の鳥”にされてしまうようだった。彼女はそれでもかまわなかった。湯に見初められてからは与えられた部屋と湯の寝室を往復するだけだったし、桀王に捧げられてからも夏の王宮から一歩も出たことはない。彼女の世界はあまりに狭すぎて、だからこそ白虎の腕の中にずっと囚われているのも苦ではなかった。
「四神宮にはずっといるんですの?」
そういえば四神は領地があるのではなかったかと彼女が思い出して尋ねてみると、
「一年ぐらいです。花嫁様の最初の夫を決める為の期間ですので」
「最初の夫?」
「はい、四神のどなたかと式を挙げられ、その領地に移って暮らしていただきます」
「ふうん……」
紅浜のよどみない答えに、彼女は四神をまじまじと見つめた。どの者もひどく美しい容姿をしており、あまり表情はないが彼女に見つめられるのを喜んでいるようだった。
「……ここでずっと暮らしてはいけないの?」
「……ずっと、というとどのぐらいの期間でしょうか?」
彼女は少し考えた。もしかしたら四神の激しい怒りを買うかもしれないが、このまま歳を取らず気の遠くなるような時を生きるであればこれぐらいの我儘は聞いてくれてもいいのではないかと思った。
小首を傾げる。
「んー……今の王が死ぬぐらいまで?」
またブワッと空気が動く気配がした。嫉妬をはらんだ低い声が頭上から響く。
「……王には会えぬぞ」
「会いたくはありません」
「……難しいのだな」
「はい、女心は複雑なのです。それから……」
そういえば大事なことを伝え忘れていた。
「私はもう誰のことも愛せません。それでもよろしければどなたかに嫁ぎます」
心は、元の世界に置いてきた。
恋は、愛は、あの人に全て捧げてしまった。
決して届かなかった想いは、あの場で揺蕩っているのだろう。
誰かを想う心はすでに死んでしまった。もう息を吹き返すことはない。
「……かまわぬ。そなたの分まで我らが愛すゆえ」
どうしてか熱いものが頬を伝い、すぐに冷えていく。
やっと彼女はほんの少しだけ表情を動かすことができた。