壱、穿越
ぐらり、と地が揺れたような鈍い衝撃に、妹喜はその場に座り込んでしまった。彼女はそうしてしばらくぼんやりとしていたが、一向に刃が迫ってこないことを不思議に思い、顔を上げた。
「……どこ? ここ?」
そこは切り開かれたような空間だった。足元が石畳なのは間違いないが、その間からけっこな長さの草がところどころ伸びている。辺りを見回すと、多少崩れているがなんらかの建物があったような情景が広がっている。ぽっかり空いた広場の周りは木々で覆われており、どうやらここはかつて祭祀を行っていた場所のようだと妹喜は推測した。
先ほどまで彼女は王宮の楼台の上にいて、周りを敵兵に囲まれている状態だったはずである。
「? 妾、死んじゃったのかしら?」
痛みも感じぬほどうまく殺されたのだろうか。とするとここは天の国か。
チチチ……と鳥の声が聞こえる。ふわり、と彼女を包み込むような風が吹いた。
「天の国、ってかんじじゃあないわね……」
彼女は落ちてきた髪をかき上げると、そっと立ち上がった。
(最後までキレイでいられたかしら……)
毎日髪も化粧も美しく整え、王の寵愛を受けていた。与えられた宝玉や衣装は山と積まれ、それらは誰かに多少くすねられていたとしてもわからないぐらいだった。王が戦争に行っていなくなると、彼女は更に念入りに美しく装うようになった。
わかっていても、もしかしたらと思っていた。
(あんなに贅沢をして、気に入らない人々を殺して……まだ履様に愛されるつもりでいたなんて)
自分が滑稽だった。それと同時に湯がひどく憎らしかった。
* *
妹喜は湯に仕える家の娘だった。その美しさと醸し出される色気によって湯の寵愛を受けていた。
「そなたは”傾国”だな」
湯はことあるごとにそう言い、彼女を愛でた。
そしてこう囁いた。
「このままではそなたを娶ることはできぬ。だが私の頼みを聞いてくれたならいずれそなたを妻として迎えることができよう」
妻、という響きは魅力的だった。彼女は一も二もなくそれに飛びついてしまった。それが夏王朝を滅ぼす為の布石とは知らずに。
夏の桀王は好戦的であった。少しでも気に食わないことがあれば諸侯であっても簡単に討伐した。かつて諸侯の一つである有施氏を討伐した際、その娘とされる妹喜が献上された。
年齢にそぐわない色気と美しさを備えた彼女に、王はすぐ夢中になった。
王は勇猛果敢で、聡明であったが政には向かなかった。政治は腐敗するに任せ、王宮には湯の手の者が何人も入り込んでいた。
「妹喜様におかれましては決して笑むことはないように願います。美しい品を献上された時や豪華な宴、そして人が殺される時だけ笑うようにしてください」
湯の手の者たちに監視され、ちょっとした行動すら指示される日々。最初のうちは言われるがままに従っていた妹喜だったが、だんだん自分のしていることの恐ろしさに気付くようになった。
(今日も人が殺された……こんなことをしていて、妾は本当に履様の妻になれるの?)
宝玉や衣装を献上させ、少しでも珍しい動物や食べ物があればそれらも全て集めさせる。煌びやかな宴を毎日のように開いた。国を思い苦言を呈する人間は殺され、王の側に侍るのは調子のいいことを言う者たちばかりとなった。
そんな日々が続く中、彼女は湯が自分を妻にする気などないことを悟った。
(きっと妾は殺される)
それは確信だった。そして、あの瞬間を迎えたのだった。
* *
このままここにいても仕方ないが、どこか行くあてもない。
彼女は途方に暮れた。
(どうしよう……)
死ぬつもりだったから尚更身体に力が入らない。立ち上がってはみたもののどうにもしようがなくて彼女は再びその場に座りこもう―とした。
「?」
途端ふわり、と風が吹き、気がついた時には誰かの腕の中にいた。
「!?」
それは見たこともないような美しい人だった。長いまっすぐな白い髪、彼女を愛おしそうに見つめる金の瞳は人ではないものを思わせた。彼女は茫然とした。何が起こったのかさっぱりわからなかった。
「待っていたぞ、我らが花嫁」
しかもその口から心地よい低さのとんでもない科白が紡がれたことで、彼女は思考を放棄した。
注:
穿越 トリップのこと。
商(殷)の湯王は、姓を子、名を履と言いました。