気持ちの国に枝が届く
「とにかく気持ち悪い、世界が回ってるどころの話じゃない、地面がふにゃふにゃだ」
今日はバーベキュー大会当日。朝5時から和也と漁船に乗った美穂は、船酔いで完全にグロッキーだ。
「よし、右手も治った私がジャンジャン魚をさばくよ!」
包丁を手にすると、後ろから頭を叩かれた。
「さばいたこと、あるのかよ」
「……イカを引きちぎるくらいなら」
「だったら、あっちでちぎってこい」
和也に顔の動きだけで調理場から追い出された。
よく見ると調理場には男の人しかいない。
物作りの会社に料理好きな人は多い。
奥のほうで基樹さんが黒いエプロンをして魚をさばいているのが見えた。
男の人のエプロンって反則。
かっこよく見えるなあ……。
入り口から見ていると、基樹さんがそれに気が付いて、小さく手をふった。
私も手をふって答えた。
【当然俺のこと、好きなんでしょ?事件】(私が勝手に名付けた)以来、私は気楽になってしまった。
知られている片思い。
答えられないとしっている片思い。
だから安心して基樹さんを好きだという視線で見られる。
基樹さんがそうしてくれたのかな……?と思う反面
「俺のことを好きな女が、和也の服を着てるののが、面白く無いから」
と言い放った偉そうな顔が忘れられない。
きっと王様。
基樹さんは可愛い王様。
……好きだなあ。
そう思うだけで、たまらなかった。
「マリネが冷えてないって、何事?」
振り向くと美織さんが椅子に座って、出来上がった料理を勝手に食べていた。
「作ったばっかなんですけど」
後輩の旬子は呆れたように言っていた。
「それにこれ、黒こしょう足りない。もっとかけたほうが美味しい。これくらい」
ガリガリガリと美織さんは黒こしょうをかけた。
「ああああ! 真っ黒じゃないですか」
「食べてみて?」
旬子は全体を混ぜて、それを口に運んだ。
「おいしい」
「でしょーー? ちょっと砂糖もいれたほうが丸くなるわね」
「料理とか、されるんですか、シャチョーなのに」
旬子は怖い物しらずだ。
「美味しい物を食べてるのから、不味い物も分かるの。食べるの専門。ほら、どう?」
「あーん、美味しくなりました~」
二人で出来たばかりのマリネを食べている。
なんだか変な二人だが、ああいう景色こそバーバキュー大会の醍醐味だろう。
地位や職場関係なく、食べ物の周りに集まる。
私は船酔いで倒れている美穂に冷たい水を持って行くことにした。
「美穂、大丈夫?」
広げられたテントの中で、美穂はのびていた。
「私……まだ船に乗ってる……? ねえ……私はいま地上にいるの……?」
「いるいる」
冷たい水が入ったペットボトルを頬につけた。
「これは海水……まだ海か……」
「もー、美穂ー」
「だって、まだ体中が揺れてるんだってー」
「そんなに船が苦手なのに、よく漁船に乗るとか言ったねえ……」
美穂は体を起こして水を飲んだ。
「このままじゃ、私のこと、和也さん見てくれないもん」
「うん、がんばった。がんばった」
私は小さく何度も頷いた。
「……この前さあ、仁奈子、和也さんの服、借りていったじゃん?」
「うん」
「でも、戻ってきた仁奈子は違う服でさあ…私、心底安心したの」
「うん」
「前は二人がどんなに仲よくても、和也さんが幸せになればいいと思ってたけど、もうそうじゃないみたい」
「わかるよ…」
テントの前に広がる食事スペースに、刺身を持った基樹さんがいて、美織さんにそれを渡している。
基樹さんは自慢げにさばいた魚を見せて、美織さんはそれを食べて笑っている。
抜けるように青い空と、準備されたテーブルにかけられたテーブルクロスがなびき、外国映画のワンシーンのようだ。
お似合いの二人で、ずっと見ていたいと思うし、美織さんの場所に私がいたいと心底思う。
「……相手が気持ちを知らないから片思いって成立するのかな」
美穂はペットボトルの水を一気に飲み干した。
「気持ちを知られてて拒否されたら、そこからこの気持ちは、どうすればいいのかな」
私は思い出してクスリと笑った。
「基樹さんは、私が基樹さんを好きじゃないと、イヤなんだって」
「なにそれ初耳」
「話すと長いですぞ~、だから今日に取っといたの、うふふふ」
私はわざとらしく、今から世界で一番楽しいことが始まるサーカスのピエロのように笑った。
「よし、酔いがさめた! さめたことにする!」
二人で小さいな島から抜け出した。
ここに座り込んで世界を見ていても、何も変わらない。
調理場の裏に行き、出来ることを始める。
焼きそば用の野菜を洗い場で洗っていると、喫煙所として隔離してある方向から話し声が聞こえた。
今日は取引先の人も多く、私もみたことない人たちだった。
「今日も吉永会長いないんだ」
「美織さんの力じゃ、引っ張れないんだって」
「音なしの森は、吉永会長なしでは無理だろ」
「もう森買っちゃったからなあ、あの場所は無理だろ。駅歩30分以上あるんだぞ」
「道路工事もストップしてるんだろ? どーすんの、あの陸の孤島」
「エコでロハスな家作りだからなあ、丁度いいんだろ」
「それで100億飛んだら、新田建設終わるだろ」
私がいることに誰も気が付いていない下品な噂話。
でも、と思う。
正直、音なしの森は難しいと思う。
大きすぎる仕事は、多すぎる人間の意見が入りすぎるのだ。
それをまとめる、もしくは黙らせることができるカリスマ的存在が必要なのだが、あの企画では有名デザイナーは誰も動かない。
私たち名も無きデザイナーに100億の仕事は出来ない。
会社だってやらせない。
だからこそ、基樹のおじいさんの先輩で、超有名人の吉永会長を引っ張りだそうとしてるんだけど、私からすると、そもそも存在するの? ってレベルの人で。
建設業界の偉い人って、実際仕事ラフは線が一本ほにゃほにゃと書かれていて、それを部下20人が絵に起こすとか、あるあるで。
本当に吉永会長なんて人は存在しないのでは? と私は思っている。
……色々と現実的じゃない。
私は今やってる保育園の修繕工事が限界。
保育園でも1億だ。
それでもヒャーヒャー言ってたのに。
「100億か…」
美織さん、大丈夫かな…。
脳裏に2人で楽しそうに刺身をたべる基樹さんと美織さんが浮かぶ。
私なんて、完全な部外者だ。
野菜洗いさんだ。
それでいい。
結局何も出来ないなら、この思考さえ、下品な噂話と同ランク。
洗い終わったキャベツを切る。
料理は得意ではないが、プレパーク仕込みの焼きそばだけは自信があった。
「キャベツは……ちぎる!!」
そうほうが味が良くなるって、プレパークの世話人さんも言ってたし。
私はキャベツをどんどん分解して、ブチブチをちぎった。
「えー……、本気……?」
後ろを振り向くとエプロンをした基樹さんがいた。
私は手にもったキャベツをぶちりとちぎった。
「本気です、このほうが美味しいんです」
「いやいや、切ろうよ。美しくないから」
それはちょっと……私もそう思うけど。
基樹さんはキャベツを丁寧に葉と固い部分にわけて切った。
長い指に太い関節が、薄いキャベツを丁寧に押さえる。広がる五本の枝。
……ん、何かイメージが浮かんだ。
私はポケットに入っているメモ帳に絵を書き始めた。
広がる葉に、それをおさえる枝。
それが広がる景色を、下から見たら?
「座って書きなよ」
基樹さんに促されて、椅子に座って絵を書いた。
基樹さんはチラリと私の書く絵を見た。
「枝は、俺も好き」
「いいですよね、こう、無限な感じが。これって、横とかじゃなくて、下からだと、いや、ガラスかな……」
「影が? 実際の木の?」
「それだと角度がなあ……」
基樹さんは、私から長い指で鉛筆を奪う。
「照明の基礎は、角度」
「はい」
「角度と距離ね。それを学ぶともっと月島さんは伸びるよ」
「はい」
基樹さんがサラサラ書いた木の絵は遠くから光をあてた枝の絵と、近くからあてた絵。
「はい、ありがとう」
基樹さんはキャベツに戻った。
「えへへ、ありがとうございます」
「料理、好きなんですか?」
「手を動かすのは、好きだよ、むしろ料理が嫌いなクリエイターなんて、いるんだ」
「嫌いじゃないですよ、苦手なんです」
「えー……」
楽しすぎて、クスクス笑いながら絵を書き続けた。
「……音なしの森……、美織さん、大変そうですね」
私はぽつりと言った。
「吉永さん、なんとか引っ張り出すよ。俺に出来るのは、それくらいだから」
「大変ですね……。でも、責任者つくるために出てこいって、どうなんですかね……私だったら、イヤだなあ……」
「偉い人の仕事は責任取ることだから。ほら、こんなにサイズが違うキャベツを揃える責任ね」
「すいません……」
私はメモ帳にグリグリと線を書いた。
「基樹、ここにいた」
「美織」
「美織さん?」
「ずっと探してんだから。ちょっと来て。発表があるの!」
基樹さんは、エプロン姿を脱がされ、会場の真ん中を呼ばれて歩いて行く。
そしてバーベキュー会場の真ん中にあるステージの上に伊織さんと乗った。
「先ほど決まった重大事項を発表します」
美織さんは、さっき着ていた服とは違う真っ青なドレスを着ている。
「音なしの森プロジェクトに、大きな木幼稚園で有名な柊修平さんが、メインデザイナーとして参加されることが決定しました」
会場がわっと沸いた。
その横に立っている基樹さんの表情は、あの社長の顔になっていた。
能面のように、はりついた笑顔。
基樹さんは柊さんが参加するなんて、知らないはずだ。
さっき吉永会長の話をしていたのに。
「元々、柊修平さんは、音なしの森に強い興味を持たれていて、今回こういう流れになりました」
会場が拍手で包まれる。
「会場に、柊修平さんがいらっしゃってます、どうぞ」
人混みの中から、柊さんが出てきた。
檀上に上がると、基樹さんは一歩引いた。
「こんにちわ。柊修平です。音なしの森プロジェクトに参加することが正式に決定しました。よろしくお願いします」
横で美織さんは加えた。
「このスペシャル人事には角鳴住宅の藤木基樹社長の大きな力を頂きました。基樹社長の人脈なくして、この人事は無かった、そう言えます」
嘘だ。
私は心臓を掴まれるような苦しさを感じていた。
嘘だ、嘘だ。
基樹さんは一歩前に出ていった。
「微力ながら、この場に立てることに幸せを感じています。柊修平さんと一緒に仕事が出来ることを、心から喜んでいます」
会場から大きな拍手。
「では、この場にある大きな、確かな未来に向けて、乾杯しましょう」
「乾杯!」
私はキャベツを濡らす水も止めぬまま、舞台を見ていた。
談笑する柊 修平さんと美織さん。その横で能面のような顔で立っている基樹さん。
私は迷わず舞台の方向に向かった。
体が勝手に動く。
川の上流から下流に向かう、小さな葉のように。
それに抗う力は葉にはない。
色々いってやりたい気持ちになっていた。
何適当に基樹さんのこと、持ち上げてるの?
そんな造花持たされて、基樹さんが喜ぶと?
それによって、何が得られるの?
そもそも、基樹さんに何の説明もなく?
どんどん舞台に近づきながら、でもそんなこと一社員の私が言うことじゃない。
私が基樹さんに伝え合いことは、ただ一つ。
私は舞台へ向かって走った。
「基樹さん」
そでから小さく声をかけた。
「月島さん」
「キャベツ、切りましょう」
基樹さんは能面の目をぱちくりさせた。
「……ああ?」
「はやくしないと、私が全部ちぎりますよ」
「ああ……」
「ぶっちぶちにしますよ」
基樹さんの仮面が外れて、口元がくしゃりと笑った。
「それは困るね」
檀上に二人を残して、基樹さんはそこを下りた。
「じゃんじゃん切りましょう」
私はキャベツの芯にグザグザと包丁を入れた。
「……ああ」
「やっちゃいますよ? ああん? やっちゃいますよ?」
元気付けたくて、なんだかヤケクソになってきた。
「……何も知らなかったな。突然だな。ほんと、美織はすごいよ」
「私は好きじゃないですけど、ね!!」
私はキャベツを真ん中で切った。
すると勢いで、半分が下に落ちた。
「ああ!」
私はしゃがんだ。
すると基樹さんも横にしゃがんだ。
「……キャベツ、切ろうか」
「切りましょう」
基樹さんがゴツンとオデコをぶつけてきたので、私もゴツンとぶつけた。
そんな顔しないで。
美織さんに傷つけられないで。
基樹さんの真ん中にある柔らかい気持ちを、傷つけないで。
二人で書いた大きな枝が世界を包む。
もっと伸びて、どこまでも伸びて、気持ちという国があるなら、そこで泣く気持ちを雨から守るように。
バーベキュー大会は、美織さんの当然の発表もあり、大盛り上がりで終わった。
残されたのは、大量の洗い物と片付け。
「もう疲れた……」
座り込む美穂と対極に、私はやる気まんまんだった。
料理は作るより片付けのほうが好きなタイプだった。
「よし、鉄板洗うよ~」
洗い場に置かれた鉄板の数、数10枚。
私は先に沸かしておいた巨大な鍋の中のお湯に重曹を入れた。
そしてその鍋の中に、1枚づつ鉄板を入れて煮る。
薪をどんどん足して、火と起こす。
プレパークで慣れている和也も、後ろでどんどん薪を割る。
鉄板の片付けは重曹で煮る。
そして熱いうちに洗剤で洗う。
これで落ちる。それが楽しいのだ。
煮て汚れが柔らかくなった鉄板を、洗い場に運ぶと基樹さんがいた。
「やるよ」
「基樹さんは社長なんですから、洗い物は私たちが」
美穂が椅子から立ち上がって言った。
「社長も洗い物くらいするよ」
基樹さんに制されて、美穂は引いた。
基樹さんは、腕まくりをして鉄板を洗っていく。
やっぱり男の人の力だと一瞬でキレイになるなあ…。
私は鉄板を煮ながら思った。
「基樹さあ……」
薪を割っていた和也が言った。
「今お前がいるべき場所は、ここじゃないだろ」
「お前、柊さんがプロジェクトに関わること、知らなかっただろ」
「え……?」
美穂が小さな声で驚いた。
「お前は美織さんのためにデザイナーとしての自分を捨てて俺との未来も捨てたのに、社長としての未来まで捨てるつもりか?」
基樹さんはまだ洗っている。
「柊さんは、現場なしで責任者としてだけ、関わる契約になってる。柊事務所は、このプロジェクトに関わることを良しとしてない」
私もそれはおかしいと思っていた。
柊さんが持っている現場と事務所は今、美術館の建設で手一杯なはずだ。
「柊さんは金で来てるだけ。実際は何も動かない、むしろ厄介が増えただけだ」
基樹さんはタワシを置いた。
「お前がちゃんとしないと、このプロジェクト、マジで落ちるぞ」
「……和也は、何でも知ってるんだな」
基樹さんはエプロンを外した。
「今2人が、どこで飯食ってるか。どれだけの金で柊さんが買われてて、どこまでの仕事しかできないか。全部知ってるし、今メールで送った」
基樹さんはスマホを確認して歩きだした。
「和也」
「ん?」
「誰よりお前が好きだよ」
「お前から告白されたのは2回目だ。だからこの会社にいるだろう」
「ありがとう、和也」
走っていく基樹さんの後ろ姿を私はずっと見ていた。
3人で無言で洗い物を続けた。
「……仁奈子は、音なしの森、やれないか」
和也はこぼれるように小さな声で言った。
「えーーーー? 無理無理」
私は薪を割る係になっていた。
カッコン、カッコン割りながら大声で答えた。
「全然面白そうじゃないし、あれ」
「そこが問題なんだよなあ……」
「基樹さん……大丈夫かな……」
「基樹は、面倒だと目をふせるくせがあるから」
和也は何十年も飼ってるネコを撫でるように、愛用している椅子に座るように、丸い笑顔で言った。
私はそれを見て、なんだか心底安心していた。
私にも基樹さんにも、和也がいれば、きっと大丈夫だ。
「でもさあ……和也は淋しくないの?」
私は薪を割って、それを火に入れた。
「は?」
和也が手を止める。
「和也は基樹さんのクリエイターとしての仕事を、かっていたから、一緒に仕事してたんだよね、大学生の時に」
「だからだろ。だから中途半端に社長されると、腹がたつ」
「そっか」
「正直、社長なら俺の方が向いてる」
「ああ……そうだね……なんでも知ってるもんね……どうなってるの、その情報収集力……」
中学校の時に副会長をした時の和也はすごかった。
クラスであった陰湿なイジメを、今までそのいじめっ子がどんな人生を歩んできたか調べ上げて、一日で止めさせた。
和也はいつも人の先を読んで、優しい。
よく考えるとすごいが、私にとっては、どうしても幼なじみで。
小学校の時に家の中に鍵を忘れて、壁を登って屋根裏から入ろうとしたら、そこも閉まってて、結局降りられなくなってはしご車が来た……とかアホエピソードばかり思い出してしまう。
「はしご車とか……はしご車とか……」
「おい仁奈子、いい加減忘れろ」
「柊さんの事情とか、どこで知ったんですか?」
美穂は聞いた。
「柊さん自身だよ」
「え? 知り合いなの?」
私は驚いた。
「何度か飯食ったことがある」
「えーー? 知らなかった」
「どんなプロジェクトで、本当にどうなのか、聞かれたよ」
「そっかあ……」
人はなんで産まれる場所を選べないのかと思う。
基樹さんはクリエイターで、和也は社長だ。
それだけで、たくさん上手くいくのに。
「基樹が社長に向いてないなんて、最初から分かってるんだよ」
和也は洗い終わった鉄板をキレイに吹きながら言った。
「あいつは、どこまで行ってもただのクリエイター。そこから経営にいくには発想力もなくちゃいけないけど、それは無い」
小さなランプを思い出す。
確かに見事な仕事だった。
「あいつは、優しすぎる。もっと適当で、もっと自分勝手でいいんだよ」
手を休めて和也は椅子に座った。
「和也は、優しいよ」
私は鉄板を煮る横で沸かしていたお湯をポットに入れた。
「コーヒーが飲みたいな。持ってきてるでしょ」
「……なぜ分かる」
「和也は絶対持ってきてる。外で飲みたがる。美穂ちゃーん、コーヒーにしよう。和也がいれてくれるよー、あほみたいに自家焙煎するよー」
「なんでそれを知ってる?!」
「私もなんでも知ってるんです……ふふふ」
「湊人だろ」
「私はなんでも知っている……たとえば、はしご車に乗って喜ぶ和也……」
「なにそれ」
美穂が手を拭きながらきた。
「言うな!!」
「和也小学校4年生の時のお話です」
「仁奈子!!」
「ほら、良い感じの炭があるよ、焙煎焙煎」
「くそっ!」
それから週末はプレパークに通い、そこで修繕案を書き、ついでに仕事をした。
保育園の工事日程も決まり、私の仕事もラストスパートだった。
でももっと、なにか出来る気がして、図面のコピーをプレパークに持ち込んでは眺めた。
何を書くわけではない。むしろ、思いついてもメモ帳に書くらくがき絵のほうが多い。
でもそれでいい。
私はこの保育園の仕事を、何十年後も「私が作ったものだ」と胸をはれるものにしたい。
もちろん私のものではない。
建物はそれだけでは成立しない。
物語でいうなら、私の作業はアイデア帳や、脚本に近い。
そこからも物語を作るのは建築部の人たちで、その話を読むのは、もちろん住む人たちだ。
私はただ箱を作るひとでしかない。
でも、その箱がどんな形か。それで何かを与えられたら。
デザインと家の融合には、そんな力があると信じてる。
それに、保育園の仕事とプレパークは似ている。
子供が主役というところが。
子供の遊び方というのは、大人の想像を軽く超える。
やつらは水たまりひとつで二時間遊べるのだ。
大人になった私が避けて通る水たまり一つで。
季節はもう夏で、私はプレパークに勝手にテントをはっていた。
そうしないと日差しが強くて居られない。
でも日陰ひとつあれば、木が多いこの公園はパラダイスだった。
蚊が多いが。
テントでゴロゴロしていると、テントがゆさゆさと揺さぶられた。
「出てこい、ひきこもり」
この声は。
私が蚊避けに付けてる布を、ロールおじさんは開けた。
「魚釣りにいくぞ」
「いやです」
私はテントの中で寝たふりをした。
「お前ら、やっちまえ」
ロールおじさんに声に合わせて、わーーーっと子供達の叫び声。
私は足を引っ張られて、テントから引きずり出されていた。
背中がぬるい…。
「きゃーー、ドロドロ!!」
テントの目の前には、水たまりが作ってあって、私は複数の子供によって、そこに入れられた。
「泥だらけだな。さ、川に洗いにいくか」
「まじですかーー」
プレパークから徒歩10分ほど行った場所に小さな川がある。
数キロ流れれば多摩川に合流する小さな川だが、比較的きれいで、結構魚がいる。
もちろん泥臭くて食べられるものではないが、私も子供のころ、遊び目的で捕まえた。
巨大な鯉もいて、それはつかみ取り遊びとしては楽しいけど。
「大人になってからやりたくなかったです」
「着替えなら貸してやるから」
「川に行くより、家に帰るほうが早いんですけど!」
ロールおじさん相手だと、いつも適当に暮してる私のほうがしっかりしてしまう。
「テントの中でゴロゴロしてても、脳みそ動かねえぞ?」
「それは、そうかもしれないですけど」
「よし、じゃあ魚つかみ大会、はじまるぞーー!」
「……私は審判でいいです」
「入れーーー!」
「川、臭いぃぃ……」
私の泣き言など聞こえないように、10人ほどの子供が川に飛び込んでいった。
川の深さは子供の腰ほどで、流れもほとんどない。
なんとも魚つかみには適した日だけど。
住宅街の真ん中を流れる川は、とにかく臭うのだ。
ロールおじさんに突き飛ばされて、私は川辺で座り込んだ。
お尻に生ぬるい水が触れる。
もう面倒になって、横になった。
どうせ服も泥だらけ。
見上げた空は、視界を遮る物が無いブルー。
夏のブルー。
頭の中の霧がはれていく。
「おらおら鯉じゃー!」
「きゃー、待って待って!」
子供たちが巨大な鯉を掴んで遊んでいる。鯉って、想像を遙かにこえてヌルヌルしている。
それは魚全般に言えることだけど……。
「ごええええ気持ち悪い!」
「月島ごめん!」
気が付いたらお腹の上に巨大な鯉が乗っていた。
「いやああああ」
私は跳ね起きて、鯉を水の中に戻した。
すると足がすべって、そのまま川に落ちた。
「キャーーー」
「ぎゃははは、お姉ちゃん流れてる!」
一度体を川に鎮めて、立ち上がろうとする。
水面から見た空。
流れる葉に、鯉。
私を助けようとする子供達の手。
それを掴んで、立ち上がった。
私の中に景色が刻まれた。
「……ちょっと仕事したいんで、帰ります」
そのままプレパークに向かい、メモ帳を出した。
今度の保育園は屋上をぶち抜く。その構造は決まっている。
そして自然にたまる雨水で遊べる広場を屋上の下の階に作ろうと思っている。
要するに空がない吹き抜け。
ただ屋上で遊ばせるより声が抜けないし、光も採れるし、水たまりで遊ばせるのは面白いと思っている。
だけど、この水のたまる場所をガラスにしたら、その下から、空が見上げられて、それに下の階から見たら、川の中に居るように見える。
この保育園の舞台は多摩川。
私は図面の変更を決めた。
速攻和也に電話した。
「今すぐプレパークに来て」
構造計算を変える必要はないけど、強化ガラスの発注が必要になる。
今更この案通る?
いや、通してみせる。
模型の修正もしたい。
図面を引きたい。
その場で木材を使って図面を引く。
「仁奈子、お前、なんだその格好。臭っ!!!」
「見て。天井をガラスにしたいの」
私はラフ案を見せて和也に説明した。
「…確かに。多摩川沿いの保育園のアイデアとしては、格が上がるな」
「でしょ?! なんとかなるかな」
「会社で模型作らないと説明が難しいだろ」
「じゃあ、行く」
「いやいや、お前その前に風呂!!」
「あ、忘れてた」
私は全身泥だらけ、川のえぐい匂いが全身にたちこめていた。
日曜日の会社は好きだ。
好きとか言ったら、どれだけ仕事が好きなんだよ? というレベルだが、誰もいない会社は大きな声で鼻歌を歌っても、叫んでも気にしなくて良い。
とにかく模型を直す。
床だった部分を切り抜いて、ガラスの代わりにアクリルを入れて、太陽の代わりにライトをさす。
「違うなあ……」
水に潜ってみたような景色の再現にはほど遠い。
当たり前だ、そんな簡単に表現できると思ってない。
光は屈折角度だろう、たぶん。
「ぜんぜん専門分野じゃない……」
とにかく手を動かす。
アクリルじゃ駄目だ。ガラスに切り替える。
前にステンドグラスを使ったことがある。あの残り。
「こりゃ、ただのステンドグラスだな……」
やばい。思いついて目の前に絵をみてしまった。
だから、どうしても再現したくなるけど、これは難しいのかも知れない。
川の中にいるような景色の再現。
「モデル組むか」
パソコンを立ち上げて、色々触る。
「違う」
太陽の光を受けるだけじゃ足りない?
「間接照明を足してみたら?」
後ろから声がして振り向くと、そこに基樹さんが居た。
「え? なんでここに?」
「和也が助けてやれって」
「え、大丈夫ですよ。用事があったんじゃ……」
基樹さんはしっかりとしたスーツを着ている。
それにほのかにシャンプーが香る。
今あびたばかりだろう。
出掛けるのか、出掛けたのか。
「いや、もう用事は終わったから」
暑そうにスーツの上着を脱いだ。
「川底の表現か。ちょっと貸して」
ふいに近づいて、一緒に空気が動いて、状態を知らせる。
さっきあびたばかりだ。まだ少し髪の毛がしめっている。
これは美織さんの香水の香り……?
私が使っていたマウスを操作して、画面に照明を足していく。
「水面の表現には、遠いか。明るさが足りないだけじゃないのかな」
「……はい」
私は頭の中でぐるぐると絵が浮かんでしまい、体が思考に縛られているのに気が付いていた。
違う、駄目だ、このままの私じゃ駄目だ。
「ちょっと、デスクに資料取りに行ってきます!」
「はい」
基樹さんは振り向かずにパソコンに向かってた。
リフォームデザイン課は当然日曜日だから、誰もいない。
私は自分の席に座って、大きく息を吸って、吐いた。
日曜日だもん、デートくらいするよ。
婚約者だから当たり前じゃないか。
基樹さんの指が、裸の美織さんを抱きしめる映像がリアルに浮かんで、頭を机に打ち付けた。
くだらない。
私は、仕事でしか基樹さんの隣に居られないのに、そんなくだらないことに時間を使えないじゃないか。
「よし」
適当に参考になりそうな本を掴んで、模型室へ戻った。
窓の外をみると、雨がふりはじめていた。
雨に閉じ込められて、私は安心した。
雨はいつでも私の味方。
このまま基樹さんと、居ても世界が許してくれるのだ。
傘がない二人を。
「戻りました」
「時間によって、かなりムラが出るし、一定の効果には遠いかな」
「それは元から想定済みです。それに子供が遊べる時間って、思ったより決まってるんですね」
「そうなんだ」
「朝と、お昼寝あけの昼。ここしか子供は自由に遊べないそうです」
「え。保育園って、結構シビアなんだね」
「保育園よって違うみたいですけど、この保育園は、結構勉強メインで、自由時間は少ない感じらしいです」
「俺は山の中で育ったからなあ…毎日山の中走り回ってたけど」
「基樹さんが?」
「自慢になるけど、山ひとつ親父の持ち物だったし」
「わーお」
「毎日川に飛び込んで、山の秘密基地にいって、虫を捕まえてたよ。今考えれば人生で一番楽しい時だったな」
「6歳までが?」
「月島さんは?」
「私は小学校より前の記憶はあまりないですね。でも東京の幼稚園で、やんちゃだった……とだけ」
「やんちゃ」
「私の基礎はやっぱり、小学校の時に毎日通ったプレパークにある気がします」
「そんな面白い場所なんだ」
「今度ぜひ来てください。あ、スーツは駄目ですよ、臭くなりますからね。毎日たき火してますから」
「俺もたき火には自信があるよ」
「意外です」
「川にもね。だから、この絵じゃないのは、わかるな」
基樹さんはモニターにうつる絵を見つめた。
私はそれをぼんやり見ながら思った。
「奥行き、ですかね。影だ」
私はマウスを握って、天井に何本も枝を伸ばした。
ガラスの近くには落ちた葉。
その少し遠くに枝。
天井近くにも枝。
そして太陽を照らす。
「……いいね」
「かなりいいと思います」
「昼の3時過ぎがメインなら、こっちから照明をあてると…」
「あ! 見やすいですね」
「この木はこっちで…」
「もっと大きいほうがいいですか?」
シトシトと雨音が響く夜。
私と基樹さんはいつまでも議論した。
雨に閉じ込めらた世界に二人きり。
一緒に徹夜してしまえば、美織さんの香りなど消える。
そんなこと思ってしまうなんて、きっとこれは独占欲。
なんだ無駄で、未来もなく、でも確かに失えない自覚。
「いいじゃないですか!」
保育園の担当者も乗り気で、天井をガラスにするアイデアは採用された。
「今から計算し直せって言うんですね、そうですね、ぼくたちの2ヶ月をぶちこわすんですね、そうですね」
建築部からは、山のように文句を貰ったが、結果には満足そうだ。
でも私は何かが抜けきらずにいた。
もう一つ、何かが足らない。
「もうちょっとなんですよ、ね!!」
私はプレパークに逃げてきていた。
無料で貰った木を、無料で呼べる大学生を使って、管理棟を作りはじめていた。
プレパーク育ちの大学生たちは、声をかければ、いつも楽しそうに集まる。
中には建築学科の子も居るし、美大の子も居た。
「もう卒論をこの建物にしたいです」
「設計図書いたの私ですけど? おうおう?」
「月島さんの設計図、勉強になりま~す」
「じゃあ手伝って」
「ういっす!」
若さとは素晴らしい。
軽々と木を縛り上げる。
青空の下。私は転がった。
「……もう一度川にでも落ちれば何か分かるかな」
「落ちるか?」
視界にロールおじさんが居た。
「お腹がすきました」
「お前はいつも腹ぺこだな」
「脳みそ使うとお腹がすくんです」
「ただのバカだろ」
「1億の仕事をする女ですよおお?」
「満足な仕事できてんのか?」
「お腹がすきました」
「……ドーナツでも揚げるか」
「チョコもかけてくれますか?!」
「砂糖だけ」
「えーーー」
「文句があるなら食べなくいい」
「えーーーはらしょーーーもーーろーーー、歌ですよ?」
「手伝え」
「はい!」
ロールおじさんは、甘い物ばかり作る。
お手製の粉に卵を牛乳を少し。そして専用の機械で油に落とす。
シュワワワワ……と泡をまとって、ドーナツが揚がる。
「プレパークで油物ってはじめてです」
「簡単だ。熱かったら薪をひいて、足りないなら足す」
「いやいや……難しいですよ……」
温度管理が必要なものは、向かないと思っていたが、食べると
「毎回旨すぎですよぉぉ……おかわり」
「現場に食わせるのが先だろ。おい、お前ら食べるか!」
大学生たちは、走ってきて、一斉にドーナツを食べ始めた。
「ああ……私のドーナツ……」
「揚げろ、どんどん揚げろ」
「はい、ロールおじさん」
「その名前やめろ」
「じゃあなんて呼べばいいんですか?」
「…ロールでいい」
「ロール!」
「ロール!!」
「ドーナツうまいですよ、ロール!!」
大学生たちも叫びだして、一気に楽しくなってきた。
遠巻きに見ていた小学生たちにもドーナツを配る。
ここは私の楽園だ。
楽園そこに自ら存在するから価値がある。
「……決めた」
私の中で結論が出た。
スマホを取り出し、和也に明日の有給を申請した。
バイクに乗ったのは、久しぶりだ。
半年ぶりに乗ったので、動くかどうか心配だったが、さすがCT110……という名のカブ。
少しの間乗っていなくても、すぐに動く。
自宅からバイクで1時間も走れば、すぐに青梅市。山の中だ。
最近はスマホがカーナビの仕事をしてくれるので助かる。
昔はよく迷子になって、和也に助けを求めたけど。
「ほんと、私って和也の世話になってばかり……」
もう卒業しないと。
和也のことを大事に思ってるなら。
正直私は、恋愛というものがよくわからない。
人間なんて近くにいれば、意外性も見つけられるし、よく知れるから、好きになるのは当たり前じゃないか。
和也も、私が近くにいるから好きなだけで、離れたらそんなことはないって事は?
でも私はずっと和也の近くにいたけど
「……好きじゃ……ないけどさあ……」
ああ、もう面倒くさい。運転してるといらないことばかり考える。
和也が本気で私を好きだと知ってから、何度も考えた。
和也なら楽じゃないか。
今までで分かってる。
でも【好き】という感情を私は知ってしまった。
和也に対する気持ちは【好き】じゃない。
私に【好き】を感じている和也に【好き】じゃない感情で受け入れるのは、失礼だ。
和也を大切に思うなら、尚更。
基樹さんへの想いがカタチにならなくても、私の【好き】は掌の雪のように、真夏にふった一粒の雨のように、簡単に消えたりしない。
私の【好き】は、これから毎日でも一緒に生きられたら、それだけで楽しいんじゃないかな? という【好き】だ。
基樹さんとなら、コンビニにいくだけで楽しい。
スーパーにバナナ買いにいくだけで、楽しそう。
もっと、毎日を一緒に過ごしてみたいだけなんだ。
「ついた」
ここは多摩川でキャニオニング出来る施設だ。昨日思いつきで申し込んだ。
キャニオリングとは、簡単に言えば沢下りだ。それに滝壺ダイブもできる。
作りたい景色が頭から消えようとしてるから、もう一度見る。
もう私は滝に飛び込む!
時計を確認すると、開始にはまだ早い。
場所の確認をしたから、どこかで軽く昼ご飯を…とスマホを確認すると、基樹さんからラインが入っていた。
心臓が躍る。
はやる気持ちを抑えて、皮手袋を外した。
【今日、休み?】
キョロキョロと探しているスタンプが使われている。
基樹さん、可愛い絵をつかってくる。
【こんにちわ。突然なんですが、有給とりました。和也には伝えてあるんですが…】
スタンプを選んでいると、すぐに返信がくる。
【何してるの?】
気にしてもらえた嬉しさでたまらない。
【頭の中の絵が消えそうなので、滝に飛び込むことにしました】
【いまどこ?】
【青梅です】
【何時から?】
え…?
【2時からです】
【間に合うから、俺もいく】
はあああ?
【基樹さん?!】
その後は全く既読されない。
本気で?
とりあえず、バイクに座ったまま、ぼんやりと画面を見る。
俺もいく、以外画面は動かない。
本気で?
私はとりあえずキャニオニングの会社に電話して、もう一名参加できるか確認すると、今日は私しか居ないらしく、大歓迎だと。
「本気で……?」
長くラインの画面を触ってみたが、返信がないので、ここでぼんやりしていても仕方ないと近所でソバを食べることにした。
水が豊富にある場所で食べるものといえば、ソバに限る。
ついでにソバまんじゅう。
「うま……」
なんだか色々と現実味がなかった。
目の前では大きな水車がゆっくり回っている。
キャニオニングの場所に向かい、表で待っていると、本当に基樹さんの車がきた。
「まじですか」
「青梅はじめてきた。近いね!」
基樹さんは車を駐めて言った。
「首都高飛ばしてきちゃったよ、ああ楽しかった。え、月島さんバイク?」
「ずっとCT110ってホンダのバイクに乗ってるんです」
「いいバイクだよねー。俺もバイクはホンダが一番好きだよ」
「車はアウディー……」
「これは仕事用。趣味はジープだよ」
「えええ、乗りたい」
「いいよ、今度一緒に出掛けよう。 マニュアル運転出来るの?」
「出来ます!」
車関係全般の運転が好きだ。
ああ、やっぱりもっと、もっと基樹さんと一緒にいたい。
話を聞かせてほしい。
そう願ってしまう。
「よし、行こうか」
基樹さんと二人でキャニオニングの施設に入った。
「よろしくお願いします」
「急遽すいません」
「全然問題ないですよ。今日は天気もいいのに平日だとお客さん少なくて」
着替えてくださいと渡されたのは、ライフジャケット、ハーネス、ウェットスーツ。
なんかすごくワクワクしてきた。
「月島さん、似合うね」
「基樹さんは、似合いません」
「海女さんみたい」
「基樹さんは、アラン・マキューの小説の掴まった犯人みたいです」
「潜水途中に捕まった犯人か」
二人で話ながら、滝まで歩く。
森の中は気温が低くて、真夏なのに寒いくらいだ。
吸い込む空気が肺を満たす。
細胞の先まで空気が満ちて、このまま水滴になれそうだ。
昼間なのに、薄暗い森は、いつも雨がふっているような静けさで、落ち着いた。
ここが東京から一時間半だなんて、信じられない。
森はいつもそこにあるのに、私は知らない。
私以外の場所に雨はふり、それが流れてきているのに、私はそれを知らない。
「よし、いいですよ!」
この会社の売りは、ロープをハーネスに繋いでジャンプして滝を下るキャニオニングだ。
「うきゃああああ」
滝を飛び越える感覚。
飛び降りる魚になった気分。
「おお、面白いね」
基樹さんは、平然と下りてくる。
でも顔が固まってる。
「社長能面みたいになってますよ!」
「能面言うな」
汗をかいているのに、川の冷たい水が背中を走って気持ちいい。
ウェットスーツの浮力で、簡単に体が浮く。
このまま川を流れていたい。
そしてキャニオニングスライダー。
ガイドさん、私、基樹さんの順番につながり、川を滑り降りる。
後頭部にガツガツ岩がぶつかって視界が揺れる。
「あはははは!」
顔中に水がかかって、何も見えない。
とにかく落ちてることは分かる。
水と重力と流れる景色だけが、私を包む。
私は今、川の一部だ。
「気持ちいいい!」
「あはははは」
後ろで基樹さんの笑い声が聞こえる。
そして念願の滝壺ダイブ。
私は思いっきり飛び込んだ。
そして目をあけて、空をみた。
そよぐ水面に、流れる葉。何より泡。そして思ったより暗い。水面の遠さ。足先に冷たさと強引な流れ。
「プハアア!」
水面に顔を出す。そのまま流れに身を任せる。
背中を誰かに押されているようだ。
いけ。
迷うな。
先に進め。
そう川に言われているようだ。
そのまま岸まで流された。
私はそこに横になったまま、ずっと空を見ていた。
「よし、いくよ」
基樹さんだ。体を起こして飛び込む所をみていた。
大きな水しぶきと共に、滝に基樹さんが消えた。
そしてそのまま、私と同じ場所に流れ着いた。
横になったまま、空を見ている。
私も、もう一度横になった。
ここは川。
上には沢山の木が多い茂っていて、見える空は小さい窓のようだ。
上空の空気は早く流れているのだろう。次から次に雲が消えていく。
鳥のさえずりと、川の音、そして基樹さんの呼吸音しか聞こえない。
「……小さいね」
基樹さんが呟いた。
「小さいですね」
圧倒的な自然を前に、それしか言えなかった。
いつも椅子に座って、うんうん唸ってる場所から一時間。
私は小さい。
でも、私は都会の真ん中で、この世界をつくる力を持っている。
それは言い過ぎ?
でも、そうなりたい。
小さいから、何でもできる。
「俺は小さい」
「小さくても、やれることをしましょう」
「……そうだな」
二人でいつまでも空を見ていた。
「ああ……久しぶりに9時間も寝た」
昨日は一日川で遊んだので疲れすぎて、夜10時には寝てしまった。
私は足取りも軽く、会社へ向かった。
席について、たまったメールのチェックをはじめていたら、美穂がきた。
「聞いた?」
「聞きたい? 私の滝壺ダイブ話」
「聞いてないの? 柊修平さん、音なしの森から降りるって」
「え…?」
「美織さんも基樹さんも頑張ったんだけど、もう駄目だって。決定だって」
昨日の基樹さんを思い出す。
俺は小さいよ。
あれは、そういうこと……?
「だから……」
私はスマホを取り出した。
基樹さんとの連絡画面を出す。
昨日別れたときの、脳天気なスタンプが踊っている。
またね。
次はジープで出掛けよう。
何を言うべきか。
この幸せな世界の後を日付一つで区切って、仕事の話をするのか。
私と基樹さんのトークは、そんなふうに繋がるの?
違う。
何も浮かばずに、そのままスマホをデスクに投げた。
何を言っても、仕方ない。私には何もできない場所に基樹さんはいる。
でも昨日は間違いなく、私の隣にいて、滝を滑っていた。
笑っていた。
だから、きっと大丈夫だ。
「音なしの森、やばいよ。ほんと、どーするんだろ……」
どうりで朝から和也も居ないんだ。
保育園工事の進行メールと、上にはるガラスのテストをしたいというメールも来ていた。
私はそれに返信を書いた。
小さくても、やれることを、するしかないのだ、私たちは。
ガラス加工の工場は暑い。
今は八月だし、それにガラスの加工は当然ガラスを溶かして作るので、暑い。
「設計書読んだけど、イマイチ掴めないんだけど」
「はい。実は私もです」
「おい月島」
「はい月島です」
ガラス職人の飯野さんは私をにらんだ。
「お前はいつもそうだ」
「飯野さん、アイデアぷりーず」
「月島がやりたいことをすると、人が上に乗る強度が足りなくなるんだよ」
私が希望したガラスは、気泡ガラスだ。要するに空気が沢山入ったガラス。
それを光に照らすことで、下には水面の下にいるような景色を作れるはず。
「もちろん作れるよ。でも、人。それにメインは子供だろ。乗れない。割れる」
「重ねますか」
「割れたら意味が無いし、重ねたら気泡は透けないぞ」
「アイデアぷりーず」
「ねーよ!」
「えー……」
私は工場の真ん中にある作業デスクでメモにぐりぐりと絵を書いた。
大きな工場には、沢山のガラスが立てかけてある。
すべて私が発注した巨大ガラスだ。
ここが肝なので、飯野さんも頑張ってくれてるのが分かる。
「ガラスの強度か……」
「当然合わせ強化ガラスを使うんだけど、中間膜に何を入れるか、なんだよな」
飯野さんとアイデアを出し合うが、それはすべて飯野さんがテスト済みだった。
「水面っぽくは、ならないんだよなあ……」
飯野さんも悔しそうだ。
外に軽く木が組まれていて、そこに一番出来がいいガラスが引かれている。
私のその下に入って、ガラスを見ていた。
やはり違う。
でもどうすればいいのか分からない。
ここで納期を伸ばすほど、私もバカじゃ無い。
ガラスの下でぼんやりしてると、ガラスの上に人影が見えた。
ガラスの上の人は、何かを取り出して作業を始めた。
「え……? 誰?」
この工場の人たちはみんなお昼ご飯に出たはずだ。
誰かが勝手に?
ガラスの下から出ると、そこにはロールおじさんが居た。
「えええええ? 駄目ですよ、こんなところで何してるんですか?」
「はは。とにかく見てなよ」
「いやいや、ここはプレパークじゃないんですよ。これは仕事で使う大事なものなんです!」
私は声をあげて、手を止めようとした。
が、動きを止めた。
ロールおじさんは、ガラスの表面を丁寧に削りはじめた。
その動きは職人さんの仕事を色々みてきた私だから分かる。
熟練された職人の動き。
手に持っているのはガラスカッターだ。
それに使いこまれている。
私も大学でガラスを削ったが、それより何十年の前のモデル……いや、先生が使っていたものより、古い?
それにガラスを丁寧に素早く削っていく。
「……きれい……」
ロールおじさんは一言も発さず、ひたすらガラスを削っていく。
私はその姿をずっと見てた。
「下からみろ」
ロールおじさんに言われて私はガラスの下に潜った。
削られたガラスの下に、不規則な景色が広がりはじめていた。
そう、私の見たかった世界。
「すごい……」
「レトロガラスを手作業で作るのは、久しぶりだ」
レトロガラスって確か、障子とかの下にあるガラスに絵が書かれてるような技術だと思ってたけど、こんな波ガラスみたいな表現できるんだ……?
「会長……?!」
お昼ご飯を食べ終えた飯野さんが帰ってきたようだ。
会長?
「久しぶりだな。お前も手伝え」
「え? 会長なんで? え?」
飯野さんの声に、私はガラスの下から顔を出した。
「飯野さん、ロールおじさん知ってるんですか?」
「月島ふざけるな。お前の会社の会長の吉永会長だぞ?!」
「はい、吉永です」
「はああああああ?」
私は床に転がったまま悲鳴をあげてしまった。
「俺は仕事なんてしたくないんだよ」
ロールおじさん改め、吉永会長はガラスを削りながら言った。
「ですよね、私は甘いもの作ってる所しか、見たことありません」
私は吉永会長の横でガラスを削りながら言った。
お前美大卒だろ。ガラス削ったことあるだろ。お前自分の責任だろ。やれ。と言われて、ガラスを削りはじめて3時間だ。
私の横で飯野さんも削っているが、すごく楽しそうだ。
「まさか、まさかですよ。また吉永会長と仕事できるなんて。夢のようです」
「飯野くんは可愛いなあ」
「一言言ってくださいよ、ロール…じゃない吉永会長」
「今更気持ち悪い。ロールおじさんでいいぞ」
「ムリムリ。心の中とプレパークではそう呼びますから。私会社員ですよ?」
「会社員が平日にプレパークでゴロゴロしてていいのか」
「あー……」
全て知られてる。
「会長なんて呼ばれても面白く無いんだよ。なんもしたくねえ」
「わがままなロールおじさんですね……」
私はガラスを削りながら笑った。
「月島の仕事は全部見た。いつもプレパークで手伝ってくれるお礼くらい、してやる」
「まじすか。ロールおじさん火起こしヘタだもんなあ……」
「お前あと全部やれ」
「ロールおじさん、火起こし、上手になった」
「よし、手伝ってやる」
「子供ですか」
「ああ、会長。嬉しいですーああ、会長ー」
3人で同じ作業をしてるのに、全員身勝手に話してるのが面白くてたまらない。
私は和也に電話した。
「なんとかなりそうよ」
「明日持ち込めるか」
「とりあえず、やってみる」
作業場所に戻ると、ガラスの床の上に食事が広がっていた。
もう外は月明かり。
私とロールおじさんと飯野さんしか居ない。
「ピクニックみたい」
私も座った。
コンビニで適当に調達した食事と、雲ひとつない空に君臨する月と、美しく削られているガラス。
なんて甘美な時間。
私はおにぎりを食べて夜空を見上げた。
ずっと見ていると、星が動いているのが見えればいいのに。
そしたら時を生きていると、今も生きていると感じられるのに。
「知ってますか。この広い宇宙に止まっているものはないんです」
私はガラスに横になった。
「ロマンチックだな」
ロールおじさんは笑った。
「この瞬間も全部動いてるんです。時間も私も、宇宙も、全て」
「今も宇宙の一部だ、あはは」
飯野さんもガラスに横になった。
三人で星空を見上げた。
「…とりあえず、止ってる仕事をしますか」
「その通りだ」
「ですね」
今晩は徹夜になる。
私は買ってあった栄養ドリンクを一気飲みして、辛いガムを口に放り込んだ。
そこからは根性の世界。
夜で削りにくくなったけど、大きな照明を何個も置いてひたすら削る。
近くで見てると、ロールおじさん改め会長の仕事はすごい。
「会長と呼ばせてください、マジで」
私は手元を見ながら言った。
「今日だけだよん?」
会長、たぶん80越えてるのに、なんてお茶目なんだ。それにこの時間にその元気っぷり。凄すぎる。
深夜3時をすぎて、飯野さんはガラスカッターを持ったまま眠ってしまった。職人あるあるすぎる。
私もボンド片手に何度寝たことか……。
こういう場合は1時間くらい寝せると、朝まで仕事できる。寝てしまった飯野さんに毛布をかける。
ここは半分外だ。
私と会長でひたすら削っていく。もう7割くらい出来た。
「……基樹さんから、話は聞いたんですか?」
「音なしの森か」
「はい」
「あんな面白くないものの代表格。俺がやるわけないだろう」
「でも、会社潰れちゃいますよ……」
「知るか。基樹と美織が考えることだ」
基樹と美織。
「……二人をご存じなんです……よね」
「そらお前、昔からな」
「そうですか」
「美織はあかん、アイツはもう、完全な経営者だ。あれじゃ誰も仕事しない」
「会社に必要な力だとは、思いますよ」
ふーーっと削ったガラスを会長は吹いた。
「面白く無い」
思わず私は笑った。
「社長が面白い必要ありますか?」
「だから基樹なんだ。基樹はわかっとらん」
能面なような表情でパーティーにいた基樹さんを思い出す。
基樹さんは、きっと社長向きじゃない。
だってあの人はただのクリエイター。私と同じ職人だ。
言おうとして言葉を飲み込む。
それは私がいうことじゃない。
だって、そう産まれてしまって、そう決めていきてる人間だ。
「楽しくないですね、経営」
「バカ。経営は面白いんだぞ。人間を使ったクリエイトだ」
「えー……」
私はガラスカッターを持ったまま、あんぐり口をあけてしまった。
「そう考えると、面白いんだ」
「言いたいことは分かりますけど」
「それも含めて、基樹はわかっとらん」
「だったら助けてあげればいいのに」
私は口をとがらせて、ガラスを削った。
会長が助けてくれない、と基樹さんが言ってたのを思い出していた。
「月島。俺が会長の立場だったら、この仕事しないぞ」
「ですよねー」
あくまでプレパークのロールおじさんとして手伝ってくれているのが分かる。
「めんどくせーですね」
本音だ。
「偉くなるってのは、めんどくせーんだよ」
たぶん、本音だろう。
きっかり1時間後に飯野さんが起きて作業を開始して、今度は会長がカッターを持ったまま眠ってしまった。
毛布を移動させる。
「飯野さんは、会長と仕事したことがあるんですか?」
「俺の師匠だよ。ずっと一緒に仕事してて、えらくなっちゃったんだよ、会長は」
「そりゃ……これだけ仕事できれば引き抜かれますよね……」
「お前んとこの会社のばあちゃんに惚れられて、無理矢理結婚させられたんだ。会長は頭も良かったから」
「へー」
頭の良さは、良くわからない。
「へー……じゃねえよ。社長になってからお前の会社数倍にでかくなったんだぞ。同時に会長はガラスを捨てた」
「まあ両立は出来ませんよね。基本徹夜だし」
「俺は今でも恨んでるよ。こんな見事な仕事をできる人を社長にして経営なんてさせて、何なんだよ」
「会社が大きくなったなら、手腕ありですよね」
「俺は会長の仕事が好きなの」
朝の6時。朝日と共に、ガラスは掘り終わった。
ガラスの下に潜ると、朝日が水の上できらめくように光っている。
波ガラスじゃないのに、水面じゃないのに、ゆらゆらと光っている。
「本当に……もったいないですね」
「嬉しいよ。ほんとうに、嬉しい。ありがとう月島」
横に潜り込んでガラスを見ていた飯野さんが泣いていた。
「もう……何なんですか……」
私はその状態に安心して、ガラスの下で眠ってしまった。
人の話し声がする。
それでなんなく目がさめた。
「吉永会長?!」
「おう。出来たぞ。見てみろ基樹」
基樹さん?!
ガラスの下に基樹さんが張り込んでくる。
「え?! 月島さん?」
「3分の1を削ったのは月島だ。あとは俺と飯野。あれ、飯野帰ったのか。飯野ー」
ガラスの上から吉永さんが話している。
ガラスの下に潜り込んできた基樹さんは、その景色に言葉を失った。
「……すごい……」
この光からいって、時間は九時くらいだろうか。
光が真上にきていて、ガラスの下にキラキラと光を運んでいた。
「あの時にみた景色そのままだ……」
「滝壺でみた景色ですよね。なんとかなりました……」
私はまどろみながら言った。
「じゃあ俺は帰る」
ガラスの上から吉永さんが降りて、帰っていく足が見えた。
「吉永さん?!」
基樹さんがガラスから出ようとする頃には、吉永さんは消えていた。
基樹さんは、また私の横に戻ってきて、ガラスを見ていた。
「なんだよこれ……吉永さんが……?」
「まあ私は吉永さんだと知りませんでしたけどね……」
徹夜明けで頭がはっきりしていない。
ガラスと地面の間は、幅1mほどしかない。
狭い空間に基樹さんの香りがふわふわと流れてきていて、幸せだった。
川の中で基樹さんと流れている気分。
「知らなかった? どういうこと?」
基樹さんに聞かれて、プレパークでの話をのろのろとした。
「ロールおじさんが吉永会長だとはね……知りませんでしたよ……ロールケーキ…じゃないや、なんだっけあの甘くてクルクルですよ……」
バームクーヘンの名前も出てこない。
完全に脳内が眠ろうとしていた。
指をくるくる回す。
うとうとしたくてたまらない。
たぶん寝たのは2時間くらい。
太陽の光に照らされて、眠い。
基樹さんは、私の横で寝転がってずっとガラスを見ていた。
「……こんなの駄目だろ」
「駄目ですか……? もうこれでお願いします……」
眠い。
「……こんなの、我慢できない」
眠い。眠いしか考えられない。
「そうですか……」
脳内は完全に寝ていた。
基樹さんは体を起こして、私に覆い被さった。
そしてキスをした。
「……?!」
驚いてる瞬間に、もう基樹さんは離れていた。
「吉永さんはずるい。それに月島さんも、ずるい」
言葉が出ない。基樹さんは、私から数センチしか離れていない。
「俺を本気にさせるなんて、ずるい」
基樹さんは、もう一度私の上に乗り、頬を触った。
細く長い指が、耳にまで触れる。
前髪を反対の手で退かされて、頬を包まれる。
基樹さんの髪の毛がおりてくる。
私のおでこにそれが触れた。
やっぱり猫っ毛。
ふなりと私のおでこに触れて、その後に冷たい唇が降りてきた。
ガラスの国から、雪が舞い落ちるように。
今度は優しく何度も唇を吸う。
顔を掴んでいた掌は、ゆっくりと私の掌を掴んで、唇は離れた。
そして基樹さんは、ガラスの世界から出て行った。
何も言わず、出て行った。