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Love or Lover  作者: コイル
4/9

貴方に一歩近づいた世界

 その日は突然きた。

「仁奈子ー。和也くん、来たわよー」

 日曜の朝、私はまだパジャマ姿だった。

 軽く上着を羽織って玄関まで出た。

「お前…もう10時だぞ…」

「おはよう…起きてたよ? 起きてたけど…着替えてないだけ。えへ」

「…俺、今日で家出るから」

「え?」

 そういえば出るって言ってた…。

「吉祥寺の反対側に行く。住んでみたかったし」

 ここは最寄りは京王線。吉祥寺はバスの距離だった。

「近……」

「吉祥寺から離れる選択肢は、ないわ」

 私も和也も、ずっと吉祥寺育ちだ。青春はすべて吉祥寺にあった。

「ボトル入れてる店が多くて、離れたら勿体ない」

「あはは」

「………じゃ、いくわ」

「………うん」

 和也は出て行った。

 カン、カン、カン、と階段を降りる音が響いて消えていった。

 もうお隣じゃない。

 和也は上司で、ただの宮田和也になってしまった。

 玄関に置いてある椅子に座り込む。

 胸のあたりがグルグルして、気持ち悪い。

 ねえ、私の気持ち、どんなかな。

 自分の胸に手をおいてみた。

 もちろん淋しい。

 もう隣に和也はいない。

 煮物が上手にできたときに、渡せないなあ、とか。あ、ママがつくった煮物だけどね。

 ゴキブリが出たときに困るなあ、とか。

 でも、煮物が上手にできたら、いつも通り和也のママに渡すだろう。そして和也のお姉さんが全部食べるだろう。

 ゴキブリが出たら、弟を呼ぼう。

 考えながら、この感情に覚えがある、と思った。

 中学の卒業式。

 うちの中学は、私立や公立、みんなそれぞれの高校にいく。でもみんな家が近いので淋しいが、単純な淋しさと違った。

 ちょっと遠くなるけどよろしくね、だ。

 きっと何も変わらないね、でも変わるね、よろしくね。

 こんなことを冷静に考える自分が少しイヤになる。


「俺をみろ」


 そういった和也を思い出す。

 私は和也を男の人として認識できていない。

 でもそんなの、突然無理だよ……。

 ずっと隣にいてほしかった。

 でも、恋じゃない。

 

 リビングに戻ると、弟の湊人がテレビを見ていた。

「和也さん、家出たんだー。姉ちゃんも一人暮らししたら? で、俺に部屋くれ。そっちのが広い」

「うるさい」

 私はチャンネルを奪い取り、映画チャンネルにした。

「なんだこの映画。星?」

 この時間にこれがやると、基樹さんに聞いていた。

 基樹さんも見てるかな。パジャマのまま、ソファに転がった。

 昨晩は結局二人で同じ映画を予約していたので、隣の席で一緒に見た。

 客は他に数人しか居なかった。

 私はお酒を飲んでいて、あげくかなり泣いたので、疲れてすぐに寝てしまった。

 起きたら映画は終わってて、横で基樹さんも寝ていた。

 私の頭から、基樹さんの頭まで、その距離10センチ。心臓が跳ね上がるほど近くて、でも触れない世界。

 ただずっと起きるのを待っていた。

 寝起きの基樹さんの眠そうな目が可愛くて…。

「へへ……」

「きもっ! 姉ちゃんキモ!!」

「うるさい」

「……姉ちゃんさあ、和也さんと一緒に住むの?」

「はああああ?」

 思わず腹の底から声が出た。

「いやごめん、オカンがそう言ってたから」

「はああああああ?」

 もう1回声が出た。

「考えられない、そんなこと」

 言い切った。

 湊人はソファにゴロゴロ転がりながら聞いた。

「そうなん?」

「一緒に住むって。なんかいいことあるの? 私家事何にもできないよ」

「最悪」

「ご飯も作れないし、掃除も嫌いだし、朝も起きたくない」

「知ってる」

「仕事だけしてたい」

「おっさんか」

「お金なら稼げる気がするし、アイデアなら無限に思いつく。でもママのがご飯作るの上手だし、それで良くない? てか湊人は私の作るご飯食べたい?」

「マジ勘弁して、和也さんの作るご飯ならいつでも食べたい」

「え?」

「知らないの? 和也さんとオカンは料理仲間だよ」

「マジか」

「うちのオカンとよくご飯作ってるよ。ほら、このコーヒー豆もどっかの国から直輸入で、近所で焙煎させてもらってるみたいよ、和也さんが」

 私はそのコーヒーを毎日旨い旨いと飲んでいたが、知らなかった。

「マジか」

「ちなみに今日の朝ご飯の……いやもう昼ご飯か……姉ちゃんが食べるパンは、オカンと和也さんが早朝に焼いたパンだし」

 机の上に置いてあったパンを食べた。

「超おいしい」

「あ、それ俺の!」

 また食べた。

「おいしい」

「だからやめろって。姉ちゃんの分は台所!」

「……おいしい」

 そして考え始めた。結婚と恋って、繋がってる?

 25才にして、そんなこと初めて考えはじめた。



「基樹さんと結婚したらさ」

 ゴホッと美穂がむせた。

「結婚?」

「いや、たら、れば、の話」

「うん、まあ、結婚ね」

 美穂はお昼のパンを再び食べ始めた。

「社長婦人になるのかな」

「あはははは! うん、まあ、そうなるよね」

 笑いながら、ぐふ、おほっとむせながら美穂はまだパンを食べていた。

「もうこの年になると、恋とか、好きとか言ってる場合じゃないのかな」

「お、仁奈子にしてはいい所に気がついたね。うちら高校生じゃないんだし、次に付き合う人は結婚考えないと」

「結婚…」

 私は和也が隣の部屋を出て行ったことを話した。

「おお! 宮田さん、ついに動いたか」

 美穂は興奮しながら言った。

「前からさあ……和也と私は夫婦だ! みたいな言い方ずっとしてて、その扱いなの……?」

「宮田さんが不憫で、ずっと言ってたんだよ、そうなればいい、そうしてほしいって、そうなれば諦められるって」

 その言葉にはっとした。

「え、ひょっとして、美穂って和也のこと……」

「今頃気がついたの? 好きに決まってるじゃん」

「えええええ……」

 もうドリフみたいな声をだしてしまった。

 全然気がつかなかった。

「もう告白してフラれてるよ。それこそ何度も告白してる。でも駄目。軽くかわされるだけ」

「えええ……」

 私は今日のお弁当に持ってきてるパンも和也の手作りだと、美穂に知られるはずもないのに、何も知らなかった自分が恥ずかしくて、一気に口にねじこんだ。

「仁奈子はホントばかだよ。あんな仕事が出来て、あんなに優しくて、いい人が近くにいて、好きって言ってくれてるのに」

「うん……、でも恋じゃない……もう家族なんだよ」

「宮田さんが近くに居なくなって、誰かと結婚しても本当にいいの?」

 和也が結婚……。

「大歓迎」

 即答した。

「えー……、可哀想すぎる……」

「だって私は和也と幼なじみで、もう何十年も一緒にいるんだよ。そんな大事な相手が結婚するなら、誰より祝福するよ。そんな嬉しいことないよ。弟が結婚するより嬉しい。誰より幸せになってほしい」

 美穂は大きくため息をついた。

「仁奈子は、基樹さんと結婚して社長婦人になりたいの?」

「全くなりたくない。それならむしろ結婚したくない」

「何なのもう」

「結婚したくなくて、でも好きでいたいって……変なのかなあ……」

「愛人にでもなったら」

 愛人。

 美織さんと手を繋いで消えていく基樹さんが脳内にうつった。

「イヤだ。基樹さんが、私より誰かを大事にするなんて、イヤだ」

「じゃあ結婚だ」

「イヤだ」

「なんなの!」

「とりあえず、来週の打ち合わせしとこっか」

 私は机の上に適当に追いやられたバーベキューの会のチラシを手に持って話をそらした。

「そうだった」

 美穂は手に持ったパンを一気に食べた。


 バーベキューの会は、一番予約がすいている6月、数年前に我が社が施工したキャンプ場で毎年やっている。

 最初は自分たちがつくった施設が使いやすいかというテストだったのだが、バーベキューは結構楽しくて、それに人数が多いほうが盛り上がることも分かった。

 そこからは取引先の人も呼ぶようになり、1年に1度のイベントになった。

 施設は人気になり、その後、多くのキャンプ場の施工を手がけた。

 その施設でバーベキューをするのは、ほぼゲン担ぎだった。

 そして今年の担当は、私と美穂だった。

 担当の仕事は多い。

 とりあえずメニューの設定、買い出し、チラシ作りに、仕事関係者にメール。

 これを仕事しながらするのだから、担当は大変だ。

 でもこれが回ってくるのは、10年に1度のレベル。

 我が社もそれほど大きくなった。

「今年やれば、あと10年はこないね」

「建築課のほうに担当が移動したら、もっと派手な飲み会になりそうだけど」

「男ばっかだもんねー」

 美穂とバーベキューの料理サイトを見ながら考える。

 しかし美穂も私も料理は苦手だ。

「とりあえず……肉……」

 美穂は取りよせの肉のページばかりプリントをはじめた。

「えー、去年も肉祭りだったよ」

「じゃあ魚……」

「魚って、どうするの?」

「丸焼き?」

「えー……」

 鉄板の上で丸焼きになってる魚を思い描く。あまり美味しそうじゃない。

「いっそ、板前呼んで、キャンプ場で切ってもらって、寿司パーティー?」

「美穂……それバーベキュー会場でやることかな」

 徹底的なセンスの無さに困り果てた。

「寿司はありえないだろ」

 振り向くと、会議室の入り口に和也がいた。

 さっき美穂と話したばかりで、一瞬体がゾクリとしたが、いつも一緒に仕事してるのだから、そのままで良いと思い直した。

「……じゃあ何かアイデアちょうだいよ」

 私は会議室のホワイトボードに魚の絵を描き始めた。

「かじきまぐろ……と」

「なんだその上手い絵は」

「たこ……と」

「リアルに書くな、気持ち悪いわ」

「たこの足は8本」

「なんだその情報」

「でも、これ本当は足じゃなくて、手なんだな……」

 先日星座番組の後にやっていた海の番組で言っていた情報をそのまま言う。

「あ……ねえ、海鮮焼きは?!」

 美穂がパチンと手を叩いた。

「いいね!」

 私はその場で絵を描き続けた。絵を描くのは好きだ。小学生の時は毎日絵を描いていた。1週間で自由帳がうまった。

「イカ」

「ねえ……目がリアルすぎない……?」

 美穂がどん引いてるが、気にしない。楽しくなってきた。

「ホタテ、アサリ、ホラ貝」

「ホラ貝?」

「知ってる、ホラ貝ってね、干しとくと、こんな風に中身がでろーーーんと……」

 昨日テレビでみた貝の中身を書き始めた。

 貝の中身は思ってた以上に気持ち悪くて、あまりに面白かったので、昨日メモ帳に書いたのだ。だから明確に書ける。むしろ書ける日を待っていた。

「こうなってて、ここに赤い部分があってね……ここは黒いの」

「なんでお前は料理しないのに、知識だけ豊富なんだ……」

 和也はいつの間にか椅子に座ってホワイトボードを見ていた。

「絵が上手すぎる」

 美穂はスマホで写メを撮って、社内の掲示板にアップした。

「海鮮焼きそばでどうかな」

 私は焼きそばの絵も書き足した。

 和也はスマホを操作して言った。

「3年前にリノベした料亭の旦那さんが漁師だから、相談してみろ。今メアド送った」

 そう言って和也は会議室から出て行った。

「……ありがと」

「お疲れ様です!」

 美穂は立って見送った。

「……仁奈子はバカだよ」

「仕事が出来るのはみとめるよ」

 私は焼きそばの絵の横にビールを書き足して、その横に漁船を書いた。

 漁船には大漁旗が必要だ。旗……旗って何かに使えないから……。

 部屋のしきりに旗を使うってどう?

 でもそれってカーテンと何か違う?

 旗って所がポイントじゃない?

「仁ー奈ー子ー!」

「ごめん、ちょっとスケッチしていい?」

「もう……私、席に一回戻るね。宮田さんにお礼言いたいし」

「おっけー、おっけー」

 そのまま私は会議室に残り、スケッチを続けた。


 腕が痛い。

 しびれてる、あ、私また会議室で寝ちゃった……。

「いた、たたたた…」

 腕をまくらにしてたのか、痛い。

 ゆっくりと顔をあげると、ホワイトボードに追加で絵を描いてる人がいた。

「……基樹さん?!」

 基樹さんはゆっくり振り返って笑った。

「起きた」

 くしゃりと笑った笑顔が可愛くて、心臓が掴まれたように痛い。

「起きました……はい」

 痛い、のは腕だった。しびれが取れない。

 腕をもう一度触る。

 感覚がない。

 腕をふりながら、感覚が戻るのを待つ。

「社内掲示板に絵がアップされてて、月島さんの絵だと分かった」

 基樹さんは、私のイカの絵に海を追加していた。

「見にきたら、寝てるから」

 基樹さんんは、あはは、と笑った。

 私の絵、見に来てくれたんだ。

 嬉しくて口がヘラリとなってしまい、私もエヘヘと笑った。

 でも手の痛みは取れなくて、腕を大きくふってみた。

 おかしいな、しびれが取れない。

「……腕、痛いの?」

 基樹さんはマジックを置いて近づいてきた。

「はい」

 私は右手を揉みながら答えた。しびれたにしては、いつでも感覚が戻らなかった。

 基樹さんが私の右手を握った。

「あの……!」

 息ができない。

 それに折角手を握られたのに、感触がまるでないのも変だった。

 手が大きな手袋に入れられたほうに、感覚がない。

「……右手、ちょっと変です」

「俺の手の感覚、わかる?」

「わからないです」

「今すぐ病院いこう」

 基樹さんは胸元からスマホ出して電話をした。

「車、玄関に持ってきて。あと乾総合病院に電話して。神経外科の太田先生がいい」

 基樹さんに肩を抱かれて会議室を出た。

「仁奈子?!」

 会議室に戻ってきた美穂が驚く。

「ごめん、ちょっと右手痛くて」

「病院につれていきます、宮田くんによろしく」


 

「とうこつ神経麻痺……?」

 私は聞いたことがない名前に、頭にハテナマークが浮かんだ。

「たぶん、そうだね。手をグーにして」

 医師に言われて従った。

「はい」

 それはできた。

「右手を水平にあげて」

 ギリギリな感じだったが、何とか上げられた。

「これ以上は無理?」

「無理です。上がる気がしません」

「中度かな。1ヶ月もすれば治るよ」

「1ヶ月?!」

 頭のてっぺんから声が出た。

 1ヶ月も右手が使えないのか。

「手を枕にして、寝たでしょう。ひじの部分、わかる? ほら、打つと痛い所あるでしょう。あそこは神経が外に出てるの。だからね圧迫すると麻痺するの。それでおかしくなってるの」

「1ヶ月で治るんですか」

 後ろにいた基樹さんが聞いた。

「治りますよ。逆に時間以外治療方法が確立されてません。使わないでいれば、治ります」

「……ありがとうございました……」

 私は空気に流されるケムリのように、ふわふわと部屋を出た。

 うたたねしただけで、1ヶ月も右手が使えなくなるなんて、そんなことあるんだ……。

 私、しょっちゅう腕枕の状態で寝てるけど、今までがラッキーだっただけなんだ。

 そうなんだ……。

「ここで待ってて」

 緊急の入り口近くで椅子に座らせて貰ったが、ショックでぼんやりしていて、生返事しか出来なかった。

 基樹さんが会計を済まして、私を迎えに来た。

 覗き込んだ顔で、どこほど心配されているか分かった。

「……大丈夫?」

「はい……」

 情けなくて恥ずかしくて、うつむいた。

 その頭をなでなでされて、そのまま肩を抱かれて車に乗った。


 来る時はパニックで気がつかなかったが、この車、中も全部皮張りだ。

 まさに高級車。

「すいません……送っていただいて……」

 基樹さんは車を動かしはじめた。

「まだ痛い?」

「痛いというより、大きな手袋に入ってるみたいです」

 ふるふると動かしてみるが、変わらない。

 シフトレバーを握っていた基樹さんの左手で、私の右手が包まれた。

「治るって、大丈夫」

「はい……そうですね」

 感覚がないので、体温も感じない。

 なんて勿体ない。

 ぼんやりとそんなことを考えた。

「動かすのはリハビリになるから、普通に生活してもいいみたいだよ」

「はい……」

「宮田くんに連絡するよ」

「はい……」

 頭の中で考えていたのは、ひたすら仕事のことだ。

 1ヶ月。

 うちの会社は月末に締切りがあるので、来月の仕事は何もできない。

 2つくらい引き受けてしまった。

 左手だけで模型作れる?

 いや無理だなあ。

 そんな中途半端なこと、したくない。 施主さんに失礼だ。

 モデリングだけして、誰かに頼む? 誰に。 みんな忙しいのに。

 私が脳内でグルグルしてる間に基樹さんは和也に電話しているようだった。

「あと20分くらで戻る。月島さんの持ってる仕事については、話しあって」

 耳に入れたイヤフォンで話してる基樹さんを、ぼんやり見ていた。

 横顔をじっくり見たのは初めてかも知れない。

 それにこんな近くで。

 改めてみると、本当に整った顔だなあ、と思う。

 まつげが長い。 おでこにある前髪が軽く曲がってるから、やっぱり少し癖毛なのかな。

 トンネルの光で定期的に照らされる輪郭をぼんやりと見ていた。

 長いトンネルは好きだ。

 定期的にくる振動と、光は、地底へ向かう道のよう。

 このままどこかへ行けそう。道を抜けたら、知らない世界にいそうな感覚。

 タタン、タタンという車の振動に身を任せる。

 私は昔からオタク気質というか、人を話すより絵を書く方が好きな人間で、誰かとずっと一緒にいるのが苦手だった。

 会話が途切れるのも、会話を探すのも、沈黙が怖くて、つまらない人間だと思われるのが怖くて、必死だった。

 大人になって、会社に入った。

 そこは自分の趣味と、そう遠くない人がたくさんいた。

 要するに、共通の話題がたくさんあった。

 ダムが好きな人、古い日本家屋が好きな人、お寺が好きな人。

 会社には私以上のオタクばかりいた。そして私は楽になった。

 話題を探す必要はない。私は居場所を手にいれた。

 基樹さんは、別の世界の人間だと思っていた。

 でも違う。

「……基樹さんは、ランプの人ですね……」

 ぼんやりしすぎて、言葉に出ていた。

「ワイワイランドだ」

 有名なゲームソフトだ。私も一時期やりこんだ。

 ランプの人というキャラクターが魔法を使って全てを帳消しにする。

「緑色のね」

「白い帽子かぶらないと」 

 基樹さんがちらりと私の方をみて笑う。

 ふと言った言葉が思った通りに帰ってくる場所を、なんと呼べばいいのだろう。

 もう少しでいい。ここに居たい。

 小さな箱船が光の海を流れていく。

 どんどん遠くに送られて、消えていく。

 外の景色は、トンネルのままだった。

 さすがの私も、会社に向かっていないと気がついた。

「基樹さん……会社の方向じゃないですよね……?」

「……イヤ?」

 視線だけで聞かれて、言葉をなくす。

 イヤなわけがない。

 ずるい。基樹さんはズルい。

 私が基樹さんを好きだと知っていて、こんな。

 そこまで考えて、思考を止めた。

 基樹さんは、人の気持ちを利用する人じゃない気がする。

 そんな人は感情を丸ごとに外に出さない。

 社長してるときも、テレビに出てるときも、笑顔を作れる人だろう。

 きっと基樹さんは感情と表情と行動が繋がってる人。

 イヤ? と聞いた言葉に、裏も表も、きっとない。

 笑いたい時に笑い、つまらないときには笑えない人。

 両方の顔を知っているじゃないか。

 そして、どっちも基樹さんなんだ。

「行きたい場所があるんだ」

 長いトンネルを抜けると、そこは海ほたるだった。

 


「海の上! わー、ほら、あっちが東京、背中が千葉、あっちが海、船!」

 今まで何度もアクアラインを通っていたが、海ほたるで降りたのは初めてだった。

 だってここは通過地点だと思っていた。

「おいで」

 基樹さんのうしろをついて歩く。

 基樹さんはいつの間にか上着を脱いでいて、真っ白なシャツが夕日でオレンジ色の染まり始めていた。

 風に揺れる髪の毛と、まくられたワイシャツから見える腕。

 そして圧倒的な景色。

 登れば登るほどに、世界は海の真ん中で、私はたった1つの星になった気分。

 建物の屋上には芝生がひかれていて、基樹さんと私はそこに座った。

 周りには海しか見えない。

 そして空。

 今日も金星が見え始めていた。

 沈む夕日が海に落ちていく。私が海の上にいるのか、空が私の下にあるのか、わからなくなるほどの夕日。

 ここは月の基地だと思った。

 たった一つ、宇宙に浮かぶ島。

 360度の世界。

「月に住みたかったんです、ずっと」

 ぽつりと声に出した。

「うん」

 芝生に横になった基樹さんは小さく答えた。

 飛行機雲を見つけて、それを目で追う。

 銀河鉄道の夜を読んでから、空を移動してるのは、飛行機じゃなくて列車なんじゃないか。

 ずっとそう思っている。

 よくみたら列車で、降りられる場所を探して旅を続けている。

 いつも想像する。

 その列車に乗って、飛び立つ瞬間を。

 視界が持ち上がって、飛び立つ瞬間。

「銀河鉄道は、飛び立つ瞬間が全てだと思うんですよね。まだ降りられる。でも降りない」

「うん……」

「私の妄想では、私の元に銀河鉄道がくるのは、夜で、雪がふってるんです」

「うん」

「窓から見えるのは、漆黒の闇に浮かぶ雪。上がるほどに雪は氷に変わって、掴んだ氷は雲を抜ける頃には水滴になる」

「いいね」

 基樹さんは私の話を静かに聞いてくれる。

「そこはきっと360度、雪の世界で……、ん……?」

 私の中に何かが響いて、ポケットからノートを出そうとして、右手が上手に動かずノートを落とした。 

 それを基樹さんが拾って、開いた。

「どうぞ」

 私はそれを受け取り、左手で書いた。

 私だけのメモだから、私が理解できればいい。

 家の下、360度、小さなラインをガラスで作ったらどうだろう。

 2階なら容易にできそう。

 我ながら、銀河鉄道から一瞬でここまで来て笑えるが、こういった瞬間が一番大切だと知ってる。

 いや、いっそ基礎の時に1回に入れたがほうが、面白いから。

 高さはそうだな、5センチくらいの小さな窓が、360度。家を取り囲む窓。

 これからプライバシーは保てる。そこから覗くことは不可能。

 でもやっぱり空が見たいな。

 四角い家で、空が360度。

 なんとか書いていると、それを基樹さんが覗き込んでいる。

「すいません……」

「続けて?」

 基樹さんは私のメモの横にごろりと横になった。

「月島さんは、スポンジみたいだ。与えたら飲み込む」

「……褒められてますか……?」

「スポンジくん」

「……もう一度聞きますが、褒められてますか?」

「スポンジくんってアニメあるよね。あれ本物のスポンジかな」

「話が飛びましたね」

 二人で笑いながら芝生に横になり、スマホでスポンジくんを検索した。

 そして四角形の海綿動物だと知り、爆笑した。

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 空を見上げて、星を一つずつ数えた。

 なんでだろう。

 なんで基樹さんは一人しかいなくて、愛すべき人が決まっているんだろう。


 芝生に放置されたスマホが何度も着信を知られていることを、私は見ていた。

「戻らなくて、大丈夫なんですか……?」

 暗くなり、着信のランプが何度も見えて、さすが聞いた。

「美織さんかな」

 月の秘密基地から一気に引き戻されて、うつむいた。

 基樹さんはスマホで時間と着信を確認して、立ち上がった。

「もう待たないって。じゃあ、行こうか」

「待たない? え、大丈夫なんですか」

「大丈夫じゃないよ。ちゃんと謝る」

「……はい」

「落ち着いた??」

 基樹さんは、感覚がない私の右手を握った。

 同時にじわりと視界が濡れるけど、暗闇できっと分からない。

「はい」

 車に戻り、また同じだけトンネルという海をくぐり、会社に戻った。

 

「仁奈子!」

 デザイン課に戻ると、美穂と和也が待っていた。

「スマホ会議室に忘れてくから、心配で帰れなかったよ」

「ごめん……」

「右手は?」

「1ヶ月くらい動かないって。神経を圧迫しちゃったみたい」

 和也が椅子から立ち上がった。

「基樹社長から電話もらった。仁奈子、お前、明日から基樹社長と回れ」

 和也は、スマホを鞄の中に入れた。

「え?」

 意味がわからない。

「現場にいても右手が使えないんじゃ仕方ないだろうって。広い世界を見るのは悪くない」

 和也は鞄をもって、私の頭を後ろからワシャワシャとして、部屋を出て行った。

「じゃ、帰るわ」

「ありがとう」

 和也は、振り返らず手だけふって出て行った。

「宮田さん、ずっと、とうこつ神経麻痺について調べてたよ」

 美穂も片付けをしながら言った。

「俺がもっと早く起こせば良かったって、ずっと言ってて……」

「そっか……」

「痛い?」

「痛いというより、大きな手袋してる感じ。ぼんやりして、ほら、ここから上に動かない」

「えー……、鞄持つよ。帰ろ?」

「うん」

 美穂や和也の優しさが嬉しい。

 素直に甘えた。

 

「わ、すごく何にもできないわ」

 次の日。とりあえず出社して模型に手を出してみた。

 机より上に上がらない手は、だたの巨大な荷物で、左手1つでは何も出来なかった。

 少しは回復するかと思ったけど、状況は全く変わらなかった。

「仁奈子。外に出て」

 和也に言われて、最低限の荷物を持って外に出た。

 そこには車が止っていて、基樹さんがいた。

「おはよう。手はどう?」

 朝から会えるなんて、嬉しくてたまらない。

「おはようございます。昨日と何も変わらないです」

「そっか。まあ気長に。さ、乗って、時間だ」

「あの……私はどこにいくんですか……?」

 和也からは広い世界を見てこいとしか聞いていない。

 基樹さんは助手席のドアをあけて、私を促した。

 昨日と同じ車、同じ助手席。

 運転席に乗ってくる基樹さんが連れてきた匂いに、期待がふくらんだ。

 今日も一緒にいられるなんて。

 手を怪我して良かった、とまで思い始めていた。

「圧迫する場所が悪かったら、半年近く動かない人もいるみたいだね」

 運転しながら聞いた話で、一瞬で気持ちを変えた。

 もう二度と腕枕で寝ない。

 基樹さんから貰った毛布で寝ればいいのだ。

 しかし、最近は疲れてるのか、油断するとすぐに眠くなる。

 昨日も生活の全てが制限されて、聞き手が使えないのは、こんなにしんどいのかと驚いた。

 まず電車に乗ろうとスイカをタッチすることが出来ない。

 普通に動かない右手でスマホを持って、落とした。

 ドア一つ普通に開けられない。

 最寄り駅で買い物をしたのだが、商品をカゴに入れられないのだ。

 この生活が1ヶ月…?

「着いたよ」

 声にハッと起きた。また寝ていた。

 自分でシートベルトをはずそうとして、ボタンを押せずにもたつく。

 動きがにぶい右手の上に基樹さんの手が乗ってきて、カチリと押してくれた。

「ありがとうございます……」

「どうぞ」

 車から降りると、響いて聞こえたのは子供達の声。

 そこは幼稚園だった。


「柊さんが建てた幼稚園なんだ。今日はここで柊さんと対談」

「え? 柊さんって、あの?」

「そう、あの」

 柊 修平さんは、変わった建築物で有名な人だ。

 よく見たら、この幼稚園、知ってる!

「園庭の真ん中に大きな木がある所ですか」

「正解です」

 基樹さんに腰を支えられて園内に入った。

 そこに見えたのは、圧倒的に大きな樹木だった。

 それが建物の真ん中にある。

 樹齢数百年だろう。大きな枝で園庭すべてが影になるほど。

 その木を囲むように園舎がたててある、木の上にも上れるように通路が作ってある。

 下からも、その木に登れて、滑り台もかけてある。

「すごい、すごい、面白い!」

 私は歩き回った。

「じゃあ、俺は取材にいってくるから、この札かけてれば自由に見学できるよ」

 頭から見学者とかかれた札をかけてもらう。

「ありがとうございます!」

 私は基樹さんが消えると、さっそく幼稚園を見学した。

 全ての部屋から木が見える。それに囲まれてるから、向こう側までの視界の確保もいい。

 何より風が抜ける!

 音も外に漏れなくていいだよね、きっと。

 上から見ると、1階の木の周りにも遊具があふれ、子供達が遊んでいた。

 なんこ階段があるの? まず1階に降りよう。

 私は建物を調べ始めた。

 この建物、全てのブロックに滑り台がついていて、降りるときは、それを使うようだ。

 階段は建物の中に1つしかない。

 あとは、網がかけてあって、園児達はそこから登ってきた。

 私が見てると次から次に網から登ってくる。

「おはようごさいます」

 そして園児たちが挨拶をする。

「すごいね、この幼稚園」

「毎回これ登るの、結構疲れるんだよ?」

 園児たちがドヤ顔で言う。

 なんて可愛いんだろう。

 部屋の大きさと廊下の広さが同じで、お昼はみんなそこで食べていた。

 木の風を感じなら。

 ここって、都会のど真ん中なのに、すごい!

 幼稚園かあ。そういえば依頼に保育園があった。

 スマホを取り出し、金額や立地を確認する。

 都心だけど、多摩川に近いのか。

 古いビルの建物だけ残して、フルリフォーム。

 中身全部ぶち抜き構造やってみる?

 私はイメージを書き始めた。すると周りに園児が集まってきた。


「姉ちゃん、何してるの?」

「ん? 仕事」

「ヘタくそな絵!」

「は? いつもは上手なんだよ」

 思わず反論してしまった。

「見てて!」

 男の子は、木の下に広がる砂場に絵を描き始めた。

「ははーん、私のがうまいね」

 絵の対決となると負けられない。

 私も本気を出すことにした。

「君たち相手なら、左手で丁度いい……目覚めよ、我の左手……」

「姉ちゃん、何いってんの」

「ふははは!」

 楽しくなってきた。

 私は落ちていた棒で絵を描き始めた。

 最近人気のキャラクターを書く。

「姉ちゃん、すごいな!」

「ふふふ、お姉ちゃんは昔から絵ばっかり書いてたからね」

 左手でもなんとかいけた。

「次はこれ書いて!」

 子供が集まってきて、絵のリクエストがはじまった。

「任せなさい」

 私はどんどん書いた。

「すごい!」

「褒められると伸びるタイプでございます」

 木の周辺全てが砂場になっていて、かなり巨大な絵がかける。

 私はそこに、丸をたくさんかいて、ケンケンパをつなげた。

「丸ひとつは、片足ね。2つ書いたら、パ! で両足」

 私が書く丸の上を、列をなした子供達がケンケンパで進む。

 木を1周分書いた。

 先生達も一緒にケンケンパをはじめたので、その周辺に色んな絵を書いた。

 木の間から揺れる光で、世界は丸く見えて、揺れる木陰の風は髪を揺らす。

 なんて気持ちいいんだろう。

 夏の前の日。

「ケンケン…パ」

 遠くから、園児に混ざって基樹さんもケンケンパして現れた。

「基樹さん!」

「超大作だね」

 額に汗を書いた基樹さんは、掌で顔をあおいで、笑った。



「どうぞ」

 会議室で、冷たいお茶を貰った。

「すいません、知らないうちに調子に乗ってました」

 お茶を持ってきてくれた先生は両手を振りながら言った。

「とんでもない! あんな超大作、見たことないですよ。みんな楽しそうで良かった。こちらこそ、ありがとうございます」

「ありがとうございます」

 私は会釈した。

 横に座った基樹さんも会釈して、氷が入ったお茶に手を伸ばした。

「暑い」

 基樹さんはスーツの上着を脱いだ。

「基樹さん、ありがとうございます」

 私は礼を言った。

 建物として、もちろん興味があったけど、幼稚園なんて、見たいですといって見られる場所ではない。

 こうして連れてきて貰わないと、永遠に入れない場所だった。

「いい刺激になったみたいで、良かった」

 カラン。

 コップの中で氷が踊った。

 基樹さんはお茶を一気飲みしていた。

「久しぶりに汗かいたよ」

「私もです」

 2人で笑っていると、会議室のドアが開いた。

「基樹、ここにいたの! 探しちゃった」

 入ってきたのは、美織さんだった。


「美織の対談も今日だったのか」

「そう、柊さん忙しいから、今日は対談まとめたみたい。こっちはテレビだけど。月島さんは、どうしてここに?」

 単純に疑問があるという感じで美織さんは聞いた。

 基樹さんは怪我の経緯を話した。

「駄目じゃない、デザイナーが腕を大事にしないなんて」

 美織さんの表情が一気に厳しくなった。

「……すいません」

 真っ当な注意をされてうなだれた。

「仕事は?」

「少し、休みます」

「大丈夫なの?」

「仕方ないです」

「モデリングだけなら出来たりしないの?」

「マウスなら握れるかもしれません」

 そこまで話して基樹さんが口を出した。

「たまには無理して仕事しなくてもいいだろう。デザイナーには刺激も必要だ」

「月島さんが休んだら、進められる仕事、全部止るんだよ。それって、月島さん一人で終わらない。建築部署も、営業も困ると思うけど、のんきすぎない?」

 返す言葉もない。今更自分がしたことの浅はかさに、胸が重くなってきた。

「仕方ないだろう」

「ねえ、ひょっとして、ここに月島さん連れてきてるってことは、あの保育園の仕事、させるつもり?」

「そのつもりだ」

 基樹さんは答えた。

 ピリピリとした空気に、私は息も出来ず、立ち尽くした。

「あの仕事、うちとしては止めて欲しいって言ったよね。近くにうちが建てた大規模マンションがあるの。あんな近くに保育園作ったら、苦情がきて売れなくなる」

「そういうのを考えるのも、月島さんや、うちらの仕事だろう」

「利益率も最悪。知ってる? 最近の保育園や幼稚園は、のちのクレームで追加工事が多いの。それは会社から持ち出しになることも多い。最悪赤字になるよ?」

「そうしないようにするのが、仕事だろう」

「最初から赤の確立があるものを、やる必要はない。保育園がやりたいなら、もっと山の中のやれば?」

「ビルのフルリノベーションは、我が社の得意分野だ」

「確実に利益が出るならいいけど」

 コンコンとノックされて、テレビ局の人が来た。

「そろそろ対談始めますんで」

「今行きます。基樹、夢や希望で会社支えられないよ」

 美織さんは出て行った。

 私と基樹さんは、会議室で溶けていく氷と共に、立ち尽くした。

 ちらりと基樹さんの顔を見ると、全く表情の無い顔で、ドアの先を見ていた。

 能面のように張り付いた、テレビでみる、あの顔。

 息をしてるのかさえ分からなくて、思わずシャツの背中部分に触れた。

 本当はシャツを掴みたかったのだが、右手が動かず、背中に手を置く形になってしまった。

 シャツは濡れていて、体が冷たくなっているように感じた。

 私は思わず言った。

「私、保育園やりたいです」

 基樹さんは、瞬きをした。

 良かった、息をしている。

「そうだな、俺も思うよ」


 

 帰りに車の中。

 行きとはまるで違う車内の空気に耐えられなくなった。

「……美織さんは……、すごく、社長さんですね」

 私はぽつりと言った。

 何度も思い返していた。

 美織さんの美しい髪の毛と、濃紺のジャケット、中に来ていた白いシャツの華やかさ。ベージュのスカートは体を美しく見せていた。

 そして真っ黒なヒール。今日も汚れ一つない、真っ黒に輝く靴。

 美織さんはいつも完璧だ。

「そうだな……、彼女は社長だよ」

 基樹さんは、その後、一言も話さず、車は会社に戻った。

「金曜日に、また行きたい場所があるから」

「はい」

 私は笑顔を作った。

 基樹さんは目だけで微笑んで、消えていった。

 頭を下げて車を見送った。

 遠ざかるテールランプを見ながら、触れたシャツの冷たい感覚を思い出していた。

 冷たいシャツだって、私がずっと触っていれば、暖かくなる。

 でも、心の中は温められない。

 抱きついても、何をしても、心に触れることはできない。

 あの笑顔がみたいなあと思う。クシャリと笑う笑顔。

 私が何を言っても、どう伝えても、冷たくなった気持ちは戻らない。

 何も言えなかった。


「俺は、月島さんの作った模型、好きだよ」


 ふとそう言った基樹さんの低い声を思い出した。

 そうだ、心に触れるのは、方法がある。

 私には、それができるはず。

 私は指に鉛筆をセロハンテープで巻き付けて、スケッチをはじめた。

 書ける。この状態なら、なんとかなる。

 私が基樹さんに触れるには、こうするしかない。

 基樹さんの、気持ちに触れたい。

 そして同時に思った。

 あんなに瞬間に、基樹さんの気持ちを凍らせることができるのは、美織さんだけなんだろう。

「彼氏と彼女……婚約者か……」

 結婚すると決めている2人。

「……まったく分からん」

 私はグリグリと絵を描いた。

 まだ右手の感覚は全く無く、グルグル巻き付けたセロハンテープが外れただけだった。

 ペションと軽い音をたてて。



「おお、一筋縄じゃないって事だねえ」

 美穂はホワイトボードにバーベキュー大会までのスケジュールを書きながら言った。

 私は机に腰掛けて、左手でペンを持って、なんとなく美織さんを書いてみた。

「美穂さんは、まず髪の毛がきれい。そう思わない?」

 私は考えをまとめたいとき、落ち着きたいとき、全ての時にメモや絵を描く。

 思考の整理には、これが一番だ。

「漆黒の髪」

「あのシャナアアア~って髪の毛って、テレビのCMみたいだよね。あれって全部CGだと思ってた」

 シャナアアア~と美穂が言うので、美織さんの髪の毛は、シャキンと書いてみた。

「うんうん、それで、服がね、あれ全部高いよ」

「それは何となく分かる」

 私はパーティーの時に来ていた服の絵を描き始めた。

 太ももから下が微妙に透けてて、下のほうにはレースがあって……。

「それはたぶん、アルマリンのドレスだね」

「……美穂は何でそんなこと分かるの」

「透け方が特徴的だから」

 言いながらスマホを操作して、ドレスの写真を何枚か見せてくれた。

「あ、ほんとこんな感じ」

「でしょ~。前に合同パーティーで来てたのは、エロン・フェザイザの一点物だったし」

「だから、なんでそんなこと分かるの……?」

「見れば分かるじゃん」

「分からないって!」

「じゃあ仁奈子は、部屋のアイデアを、どんどん考えつくのは何で?」

「浮かんでくるじゃん」

「浮かびませーん」

「そっか」

「そうよ」

 二人でキュ、キュと絵を描いていると、ポンとメールの着信音が響いた。

 確認すると、保育園のコンペデータが上がっていた。

「きた」

 私はその画面に見入った。

 幼稚園を見学したときの基樹さんの顔が忘れられなかった。

 私だったらあんな顔させない。

 私は私ができる力の全てを持って、基樹さんの笑顔を見る。

 多摩川近くの6階建ての古いビルのリノベーション。

 持ち主の希望で建物はそのまま残して【多摩川ちかくの特性のある保育園】を希望。

 保育料は近くにお金持ちさんが多いので、かなり高めを設定。

 だからお金もかなり大きい。でも近所には新田建設が建てて巨大マンション。

 むしろここの客がメインになる。

 このマンション、1部屋の金額は1億近い。

「でっかい案件だね…」

 美穂は後ろから覗き込んで言った。

「やるの?」

「……やる」

 私は断言した。

「仁奈子さんに惚れそうです」

 美穂のおどけた声に、笑いながら返した。

「他に好きな人がいるけど……いいかな、へへっ」

 美穂はマジックをホワイトボードにコトンと置いた。

「ね、バーベキューの材料調達の釣り。私に任せてくれない?」

「え? 悪いよ、私も行くよ」

「宮田さんと、2人で行きたいんだけど」

 美穂の真っ直ぐな瞳に、ドキリとした。

「……美穂さんに惚れそうです」

「他に好きな人がいる人でも、好きだから、こっち向かせたいの。チャンスをください」

 私は何度も無言でうなずいた。

「任せた。うん、任せた。お願いね。マグロ釣ってきて」

「大間の一本釣りか」

 2人で笑いながらホワイトボートにマグロの絵を書き足した。

 ついでに大間の船長も。

 背後でコンコンと音がして、会議室の入り口に和也が立っていた。

「仁奈子は、もうモデリングくらいできそうだな……」

 ホワイトボードに描かれた美織さんと(最後には美織さんも釣りをしてる絵になってしまった)パーティードレスを着た船長がマグロを釣ってる絵をみて、和也は言った。

「できます、あはは」

「宮田さん。仁奈子、漁船に乗るのは、まだ無理だと思うんです」

 美穂の勝負にでた姿に、心臓が苦しくなる。

「だから週末の釣り、一緒に行ってくれませんか」

「わかった。連絡して」

 和也はあっさり返事して会議室から出て行った。

 パタンと閉まるドアと同時に、2人で手を叩いて笑った。

「頑張れ」

「仁奈子も頑張れ」

 ゆけ、友よ。

 道は違うけど、向かう場所は違うけど、私たちは小さな戦士。

 何もせずに、何かを諦めるなんて出来ない。

 何を得られるのかなんて、わからない。

 動いた先に、得られるものが絶望でも、私たちはそれを望んで口にいれる。

 それが覚悟。


 模型室に入って、右手にガムテープで鉛筆を巻き付けた。

 ちゃんと書けなくていい。いつものメモは小さいから、今回は大きな画用紙に書こう。

 ふにゃふにゃの線でいい、私だけが分かる絵でいい。私は必ずこのコンペを取る。

 基樹さんにあんな顔、二度とさせない。

 6階建ての鉄筋。

 まず頭3階部分、真ん中だけ削る。

 庭がないビルの保育園、どこに遊ぶ場所を作るか。屋上だろう。

 でも騒音を考えると、それは駄目。だったら建物自体で囲もう。

 上から3階、真ん中だけぶち抜く。で、囲む形に部屋を作って、上から見下ろせる状態にする。

 で、ここは雨がたまる。天然の湖。

 構造は決まってきた。

 ああ、楽しい。どうしようもなく楽しい。

 こうやって建物の構造を考えてる時は、気持ちは身勝手で、独裁者。

 私という一番初期にいるデザイナーの仕事は、どこまで大きな夢を描けるか、だと思ってる。

 実現しなくていい。成功しなくていい。夢物語でいい。

 そんなの知ってる、無理だって知ってる、駄目だって言われて当たりまえ。

 だから最初の地図は思いっきり大きく描こう。

 どれだけ切り取られても、何かが残るように。


 出来た。私に分からないようなヘタな絵だけど、きっと基樹さんは見てくれる、喜んでくれる。

 私は大きく息を吸い込んで、スマホを取り出した。

 実はこの前病院に連れて行ってもらって時、ラインのIDを聞いたのだ。

 今見てもらいたい。

「ふー。打つよ」

 私は内容を考えながら打った。

【こんにちわ。保育園のアイデアを考えてみたのですが、一度みて頂けませんか】

 画面を何度もリロードする。既読にならないかな…。

 画面をずっとみたまま待つ。

 画面が暗くなるたびに、画面にタッチして確認する。

 ああ、もういっそ省エネモードをオフにしてやる。

 鉛筆がグルグルと巻き付けられてる右手の小指だけで設定を変更して待つ。

 煌々と光る四角い箱の中には、何の通知も来ない。

 取り残されたタイムトンネルのように。

 うーん、スマホの前に居ないのかな。

 モシャモシャとデザインの絵を追加しながら、待つ。

 数分後、既読がついた。

 ラインって、ここからが緊張する。

 今基樹さんは私の言ったことを読んで、どう答えようか考えてるってことでしょう?

 この地球のどこかに、私のことだけを一瞬、考えてる人がいるってこと。

 それが既読がついて、書き込まれるまでの時間。

 ああ、緊張して何も手につかない。 

 毛布、基樹さんから貰った毛布はどこだ。

 探してると、ポンと着信音がなり、あわててスマホを取ろうとして、手に鉛筆がガムテープでくっついてるのを思い出して、左手で読んだ。

【今、会社近くのホテルカノンに居るから、おいで。プリンもあるよ】

 その下にプリンの写メ。

「いきます!」

 私は描いた絵を大きな鞄に入れて模型室を出た。

 ドアを開けるときに、右手に鉛筆がガムテープでグルグル巻きになってるのは分かっていたが、こうじゃないと基樹さんに説明も出来そうにないので、そのまま。

 服の袖で隠そう、と上着を羽織って、外に出た。


 ホテルカノンはデザートバイキングで有名なホテルだ。

 会社の近くにあるけど、そのバイキングだけで4千円も取るので、入ったことはない。

 だってデザートしかないのだ。デザートだけで4千円! 一食デザートで済ますほど甘い物が好きなわけではない。

 ロビーから入って、カフェを目指す。

 角を曲がって、カフェの入り口が見えた。

 その手前のソファ席に、基樹さんと美織さんが見えた。

 私は思わず角に隠れた。

 二人の会話が聞こえる。

「ああ、やっぱり断られた、困ったな」

 美織さんの声だ。

「吉永さん? 頑固だな」

 基樹さんの声。

「基樹からの依頼じゃないと、駄目なんだよ」

「俺からも頼んだよ」

「角鳴住宅の藤木基樹が認めた人間が動かしてるって確証が持てないってことだよね。必要なのは、基樹が私を信用してるという証拠か」

「もう提携したんだし、関係あるかな、それ」

「提携関係ないよ、結局職人だから、吉永さんも、飯田さんも、基樹のOKが出たらやるって」

「OKだしてるんだけどな」

「私、信用されてないんだよ。婚約者でも駄目か……」

「あはは、なんだよ、それ」

 基樹さんの声に笑いと苛立ちが1ミリだけ混ざる。

「どうしても成功させなきゃいけないの、音なしの森のプロジェクトは。なんだって使うよ。基樹のことは好きだし、それに人脈も使えるなら最高じゃない。どうせ好き嫌いで結婚できる立場じゃないなら、オマケがあったほうがいいし。基樹もそうでしょ? いっそ基樹が主体で動かしてもらったほうがいいかな」

「吉永さんは、人じゃなくて、仕事の好き嫌いで請ける感じがするけど。もうあのレベルになるとお金なんて要らないんだよ」

「エライ人相手にそんなこと言ってたら、何もしてもらえないよ。悔しいな、何が足りないんだろう、職人ってわからない」

「お金の話ばかりされるのは、みんな苦手なんだよ」

「それが理解できない。お金がないと何も作れないじゃない。趣味と仕事間違えてない?」

「とにかく、2人には俺からもう1回言っとく」

「頼むわ」

 カツン、カツンと靴音が響いて、美織さんは消えていった。


「……プリン食べる?」

 壁に座り込む私の頭上から、基樹さんの低い声が降りてきた。

「はい……」

 私はふらりと立ち上がって、基樹さんの後ろを付いていった。

 さっきの2人の会話が頭のなかでエコーしていた。

 音なしの森。

 郊外にある大きな公園を新田建設が買い取ったと美穂に聞いた。

 そこは大規模マンションだけど、うちの会社と合併したことにより、一部デザイナー物件になるらしい。

 1つの街として機能する森と教育。

 ついに新田建設は学校建築に手を出す、と和也も言っていた。

 それに吉永さんって……たぶん、藤木現社長の知り合い、吉永光秀名誉会長のことだろう。

 伝説の職人さん。名前しか知らない。

 そうか、吉永さんも照明のスペシャリストだった気がする。

 ぼんやり考えていたら、視界にプリンが置かれた。

 綺麗な形に、たっぷりかかったカラメル。食べたい……。右手を伸ばしたら、鉛筆がプリンに刺さった。

「えっ?!」

 それを見ていた基樹さんが口をポカンと開けた。

「あ、すいません、こうしないと手が使えなくて……ああ! ……プリンに……ああ……」

 そのままゆっくり鉛筆を引き抜く。

 プリンがズテンと潰れた。

「ああ……プリン……」

「あは……あはははは!」

 基樹さんが椅子にドスンと座って笑い出した。

「すごいね、月島さんは、本当に面白いよ」

「……すいません」

 基樹さんは、私の右側に移動して、ゆっくりと手に巻き付いたガムテープを外していった。

 パリ、パリと高級ホテルに妙な音が響く。

「……すいません」

 恥ずかしくなってうつむいた。

「痛くない?」

「……大丈夫です」

 チラチラと他のお客さんが私と基樹さんを見ている。

「何重に巻いてるの」

 くすくす笑いながら、基樹さんはそれを取った。

 そして軽くなった右手に、ゆっくりとスプーンを握らせてくれた。

「食べられる?」

 覗き込まれて、無言でうなずいた。

 よく考えたら今は3時くらい?

 朝から何も食べていなかった。

「美味しいです……」

「はい、次はこれね」

 次から次に基樹さんがケーキやプリンやゼリーを運んでくる。

 甘いプリン、次はフルーツのゼリー、次はコーヒー味、次はチーズ味、次はイチゴケーキ。

「基樹さんって……甘い物好きなんですか……?」

 私は食べながら聞いた。

「え、なんで?」

 基樹さんはコーヒーを飲んで私が書いてきたラフを見ながら聞いた。

「だって、甘い物が続かないようにしてる。要するに飽きないようにしてますよね、この順番。たくさん甘いものを食べる人の思考ですけど」

「ぎく」

「声に出てますよ」

 2人で目を合わせて笑った。

「ひょっとして基樹さんは、もう全部食べたんですか?」

「……さっき出てきたバームクーヘンは食べてないんだ」

「私も食べたいです!」

「よし……食べたいなら仕方ない、2つ持ってこよう」

 いそいそと取りにいく基樹さんの後ろ姿が可愛くて、嬉しくて、幸せな気持ちになった。

 基樹さんが持ってきたバームクーヘンは、ふわふわで真ん中にチョコの層があり、表面はカリカリしていて、美味しかった。

「何個でも食べられますね」

「美味しいわ」

 2人で食べて、私はラフの隙間に左手で絵を描きはじめた。

 絵の内容は無論、甘い物だ。

「パフェの上にケーキが乗ってるのは個人的に許せませんね……」

 私はパフェの絵を描きながら、上にさくらんぼを書いた。

「下にアイスがあるから、ケーキがフニャフニャになるのは、ケーキに対する冒涜です」

「手元にパフェがきたら、ケーキを出せば?」

 かして、と私の鉛筆を握り、基樹さんも絵を描き始めた。

 基樹さんの鉛筆を握る姿、はじめてみた。

 長い指と太い関節に挟まれた私の鉛筆。なんて小さいんだろう。

 基樹さんは絵を描くとき、頭を寝せるんだ。ああ、鉛筆と紙の接地面を見たいんだ。

 私も紙に顔を近づける。

 基樹さんが書く線が伸びていく。

 カリカリという鉛筆の音が響く。

 基樹さんは長い背中をネコのように丸めて、絵を描く。

「……基樹さんは、絵を描く人なんですね」

「和也に聞いた?」

 基樹さんは、描きながら答えた。

「絵の描き方と、鉛筆の持ち方で分かります」

「クセがでるね、やっぱり。美織には昔から姿勢が悪いって言われたけど」

 美織、という言葉に、さっきの会話を思い出した。

「美織さんも、同じ大学だったんですか……?」

「いや、アイツはミナモ女子大学。親が知り合いで、ずっとね」

 ミナモ女子大学。正真正銘のお嬢様だ。

「ずっと……知り合いで、結婚するんですね……」

「そう言われてたし、違和感もない。美織は、俺にない物を持ってるよ」

「そうですね」

 私は感覚がない右手をフワフワ動かした。

 違和感もない。

 その言葉に全てが集約されていて、頭の芯がぼんやりしてきた。

 

 基樹さんと美織さんの二人の関係に違和感を感じてるのは私だけなんだ。

 私のほうが基樹さんとわかり合える。

 そうかもしれない。


 でもそれが、基樹さんが求めてる関係じゃないということに気がついてしまった。


 同じものが好きなんてステキとか

 同じ仕事が好きとか

 同じことを好きとか

 同じように空を見るとか


 そんなの基樹さんの心に触れることじゃないということに気がついてしまった。





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