貴方の中、私の奥
「角鳴住宅と、新田建設の業務提携で、新たな未来に、乾杯」
「乾杯」
私も手にしたワイングラスを小さく持ち上げた。
「新田建設、イケメン多くない?」
髪をパーティー仕様に巻いた美穂ちゃんがテンション高く言った。
「美穂先輩、目が野獣のようですよ」
旬子ちゃんが笑う。
「今食べなくて、何を喰う。そうか肉か! 間違えたぜ」
バイキング形式で置かれた肉を取りに美穂は消えた。
私は壁に並べてあった椅子に座った。
うちの会社、角鳴住宅と新田建設は、ついに業務提携した。
完全に吸収とか合併とかでなく、一部の業務を一緒にすることになった。
それは美織さんの希望らしい。
「私は建設業界に、私が住みたいと思う家を作りたいと思います。それは私が私の感性を信じているから」
さっきの挨拶。
美織さんはたくさんのフラッシュやテレビカメラにひるむことなく、かっこよかった。
「角鳴住宅としても、新田建設さんとお仕事をすることで、視界をもっと世界へ広げていきたいと思います」
基樹さんも美織さんの隣で、素敵だった。
お金持ちとか、社長とかいうゾーンで人を分けたくないけど、身につけるものや生活で人間は変わってみると思う。
それを世間は、住む世界が違うというのだろう。
明日の食事に3食で2千円掛けない人と(私だ)3食で1万円越えるひとが、同じ物を食べて心底美味しいと言えるだろうか。
手にあるワインを口に運ぶ。
私には1万円のワインも、2千円のワインも、同時に飲んだら味なんて分からないだろう。
美味しいと言われた物が、美味しいと感じるレベルの人間だ。
人はそれを世界が違うというのではないだろうか。
「肉ぅ~」
美穂が皿に肉を山と盛ってきた。
「そんなに食べられるの?」
「余裕」
美穂はムシャムシャと食べながら答えた。
「すごいよねー。新田建設は。いままでうちの会社のパーティーっつたら、ちょっと広めの飲み屋が限界だったのに、ホテルだよ、ホテル。飛翔の間」
「(美穂先輩、あっちにパスタありましたよ。ウニがたくさん乗ってます!)」
こちらもドレスアップした旬子が美穂に耳打ちをした。
「でかした!」
美穂と旬子は人山の奥に消えた。
人の山の奥に、カメラのフラッシュに囲まれている基樹さんと美織さんが見えた。
好きとか、そんなレベルのことを、言っていい人じゃなかったな……。
私はただのクリエイターで、あの二人は業界を牽引する社長だ。
こうなってくると、模型室の基樹さんは、基樹さんじゃないような気もしてくる。
幻でも見たのだろうか。
鼻歌を歌う基樹さん。
雑草をぬく基樹さん。
今の基樹さんは、どの基樹さんでもない、インタビューに答えている基樹さんだ。
にこりともせず、淡々と、でもしっかり。
美織さんは身振り手振りも美しく、記者の笑いさえ誘っている。
二人はカメラの前から、一緒に部屋の外に消えていった。
その場所から華が消えた。
こんな場所にきても、私は部屋の構造が気になる。
高い天井。このホテルはかなり昔に建てたものなのに、ここまで高い天井はどうやって保ってるんだろう。
ぼんやりとシャンデリアを見ていた。
ガラスとガラスが光りあい、うつしだす影。
シャンデリアって面白いよね。もっと形を変えたり、アイデアを入れたら、普通の家にも仕えないのかな。
あんな豪華なデザインじゃなくて、もっと簡易でいい。でもガラスじゃないと互いに光らない?
ガラスじゃなくて、割れないもので作らないと駄目かな…。
最近は地震対策も怠れないし。
鞄からノートを出して、浮いていたシャンデリアのスケッチを始めた。
構造が面白い。帰ったらモデリングしよ……。
「仁奈子は食べないの?」
両手に皿をもった美穂が来た。
「食欲ないから」
ノートを膝に置いた。
「またスケッチしてんの? ほんと仁奈子はどこでも書くね」
「パーティーより、ずっと落ち着くよ」
「人と話すのが苦手なのは分かるけど、食べないの? お酒だけ? 胃に悪いよ」
美穂は私の隣の椅子にチーズを置いた。
「これだけでも」
「ありがと」
部屋に置かれたスクリーンに、基樹さんのインタビュー映像が流れ始めた。
またテレビで取材されたようだ。
普段みせる少しも笑わない顔で話す基樹さん。
私にはもうあの顔が、つまらないと言ってるようにしか見えない。
違うのかな、社長用の顔なのかな。
「最近の若様、ちょっと調子に乗りすぎだよねー」
「私もそう思います」
旬子も両手に料理をもって来た。
「美穂先輩、知ってます? 若様、新田建設の娘さんと結婚決まってるんですって。ほらあの一緒にいた美織さん?」
「エーーー?! 全然知らなかった。あの美人さん?! 仁奈子知ってた?」
「ん」
小さくうなずいた。
「うちの会社の若様と、新田建設の娘さんなんて、会社の格で超負けてる気がするんですけど」
旬子ちゃんは小さな声で言った。
「これが噂の政略結婚ってやつ?」
美穂がワインを飲みながら笑う。
「そんな価値がうちの会社にあるかなあ。娘さんを差し出すような?」
「顔が好みとか!」
「顔だけは良いですもんね」
「でも最近はテレビも出過ぎだし、若様、どうなのかな~。格で負けて焦ってる?」
「ある意味看板状態だよね。まあ顔がいいから、当然か。あははは」
「新田の娘さんのが仕事してたりして」
旬子が言って、美穂も笑った。
聞いていて、我慢出来なくなってきた。
「……あのさあ、基樹社長を誤解してるよ」
私は思わず強い口調で言った。
「仁奈子……?」
二人は飲む手をとめて私を見た。
「基樹社長は、出たくてテレビに出てる顔には見えない。あんな固まった表情で、いつも同じことばかり言ってる」
「………」
「何か事情とか、考えがあるんじゃないかな。私は、基樹社長が調子に乗ってるなんて、少しも思えないけど。むしろ、大変そう」
「………仁奈子、基樹社長って、若様のこと?」
「そう、だけど」
「やだーー、若様は若様じゃん」
美穂は口に肉を入れながら言った。
「カッコイイって、あこがれるだけの存在だよ~。アイドルみたいなもん。気持ち入れすぎじゃない?」
「仁奈子先輩、本気なんですかあ?」
旬子が言う。
私は思わず言った。
「本気だよ。私、本気」
二人は手を止めた。
「え……? 若様のこと、本気で好きなの?」
「本気」
「だって婚約してるし、社長だし、意味なくない? アイドルの追っかけ的な話してるつもりなんだけど」
「私は社長と基樹さんを、人としていいと思ってる」
「えー? 意味わかんないし、無理じゃない? 芸能人と結婚できなくない?」
「いいの」
「……とりあえずさあ、ワインのお代り持ってくるから、詳しく聞かせてよ」
美穂と旬子はテーブルの方に消えた。
「……基樹さんは、調子になんか、乗ってないよ」
私は呟いた。
「………ありがとう」
振り向くと、そこに基樹さんが居た。
「!!」
言葉もでない。
「基樹社長、こちらで話を聞かせてください」
後ろから記者もきて、基樹さんは連れて行かれた。
「……じゃ」
ちらりと投げられた視線と小さな笑顔を、私は見逃さなかった。
ほら、ほらね。
基樹さんは、あれが素顔だよ。
みんな、何も知らない。
でも知らなくていいよ。
私だけの基樹さんだ。
「仁奈子、今回は車で行くぞ」
今回は美織さんが来る打ち合わせ。
いつもなら電車で行くけど、車内で模型を壊した私に発言権はないので、黙って車に乗った。
模型が入った鞄を和也は後ろの座席に入れた。
助手席。
一瞬躊躇するが、和也相手に意識しても仕方ない。
自分に言い聞かせて、ドアをあけた。
でもパーティーの夜以降、和也は私が一人で家に居るとき、遊びに来なくなった。
前は暇さえあれば、一緒にゲームをしたり、お酒を飲んだり、映画を見たりしていたのに。
だから密閉空間で二人になるのは久しぶりだった。
「打ち合わせもホテルか。あ、ここ新田建設がつくったやつだ。マリディアン東京」
そのホテル名で気分があがる。
「あの伊藤奏さんが建てたホテル!」
日本で五本の指にはいる建築家さんだ。
やっぱり新田建設はすごいなあ。
この打ち合わせには基樹さんがくる。久しぶりに会えるのが楽しみだったけど、当然美織さんも来る。
嬉しくて気が重くて、行きたくて楽しみで、すごくイヤだった。
でもホテルの名前を聞いただけで、もう楽しむことに決めた。
車の窓が助手席と、後部座席と開いて、風が抜ける。
「気持ちいい」
五月の東京は好きだ。
梅雨前の短い期間、春じゃない、でも夏でもない。
1ヶ月だけ、ちゃんと【5月】だ。
「4月は少し寒いでしょ。5月は少し暖かい。6月は蒸し暑い。7月は暑い。ほら、5月しかイケてないよ」
「5月だって暑いだろ」
和也は信号待ちで、スーツの上着を脱いで私に投げつけた。
久しぶりに嗅ぐ和也の匂い。
それにこのスーツ…。ちょっと高そうじゃない。知らない。和也のスーツなんて、全部知ってるつもりだったのに。
膝の上で丸めた上着が、少し蒸しているのに気がついた。
和也は暑がりで、車の中でクーラーをつけるのを思い出した。
「いいよ、クーラーつけても」
「お前は風が好きなんだろ」
ハンドルを操作しながら和也は言った。
カチ、カチ、カチとウインカーが、言葉に困った私に時を知らせる。
「……うん、ありがとう」
「なんだ今更」
和也は視線だけ流して微笑んだ。
車はレインボーブリッジに乗っていく。
私は外を見た。
「このぐーーーっと道が回るところ、好き。あと、ゆりかもめと追いかけっこの所も好き。景色が一転するところも、好きだなあ」
仕事で何度も臨海地域に来るが、ゆりかもめはいつも一番前に乗る。
1番前と1番後ろは、今でも人気があって、乗ろうとすると先客がいることも多い。
そんな時は1本待つ。
1本待っても1番前だ。
「まだ1番前乗ってるの?」
和也がハンドルを操作しながら言う。和也は何でも知っている。
「……1番後ろも乗るよ?」
後ろは後ろで面白い。
世界が遠ざかって行く感覚。
ゆっくりと街が消えて海が見えてくる。
まるで銀河鉄道のよう。
いつかこのまま空を飛べるのでは無いか。
本気でそう思う。
「中学生の時に初めてゆりかもめに乗った時の仁奈子は、本当に面白かった。1回降りたのに、また乗っていったもんな、1一人で」
よく考えたら、私が建築に興味を持ったのは、レインボーブリッジを見てからかも知れない。
あの時の衝撃をこえる感覚を知らない。
和也はクスクスと笑った。
「勝手に乗ってさあ、遠ざかっていく仁奈子を、みんな、えーーって顔で見てたよ。仁奈子は、今度は1番後ろになるーってニコニコして遠ざかってさ」
「もう……昔のことはいいじゃない……」
「集団移動が鉄則でさ、あの頃は携帯もなくて。だから、結局仁奈子を探しに皆でもう1回乗ったら、向かい側のホームで、今度は先頭に乗って遠ざかっていくの。ああー……って笑ったよ」
「もういいでしょ!」
和也は延々と思い出を語って、1人で笑った。
実はそれだけじゃない。
高校生になったとき、歩けると知って、4往復くらいした。
構造すごい!
橋おもしろい!
そしたら夜になって、夜の橋は思ったより寒くて怖くて、1人で大きな声で歌いながら駅に向かった。
怖くてそれを誤魔化すためにも、ずっと写真を撮りながら歩いたのを覚えてる。
とにかく大きくて浮いていて、たまらないのだ。
これを人間が作ってるなんて、凄すぎる。
いつか世界をすべて歩いてわたる橋も作られるかな。
自転車で世界一周。なんてステキなんだろう。
「そうだね…、橋いいなあ。作りたい」
「専門業者の仕事だな、それは」
和也は笑った。
打ち合わせのホテルは、車が横付けできる部屋だった。
「ホテルなのに? 車を横付け?!」
こうなってくると私の興奮は止らなかった。
ホテルの構造的に、二階と三階は車でそのまま来られるようになっていた。
「VIP仕様でもあるんだろうな」
和也は誘導されながら車を部屋につけた。
そのまま車でドアの中に入れられて、部屋の一部になった。
駐車場がそのまま部屋の一部だ。
「面白い!」
私は興奮しながら車から降りた。
車と暮したいお客さんは多い。
家の中に車を止められたら、喜ぶかも。
いっそ車をとめて、その横にガラス張りの寝室? セキュリティー的にどうかな。
急いでメモ帳を取り出して、車の上において書き始めた。
すると車が勝手に動き出して、バランスを狂って転びそうになった。
「ストップ」
腰を掴んで支えてくれたのは、基樹さんだった。
「まだここにいるんだから、動かすな」
車のガラスをトントンと叩いた。
和也が動かしてるの? と周りを見ると、和也は模型を室内に運んでいた。
じゃあ誰かスタッフの人が中に乗り込んで、車を動かすようだ。
「び……っくりした……、部屋の中に車置くスペースあるのに、動かしちゃうんですね……ここ駐車場じゃないんだ」
基樹さんに支えられながら、部屋に入る。
「部屋の中に車を置きっぱなしにできないだろう」
「いやいや、それが面白いと思います」
私は基樹さんに抱えられてることも忘れて、そのまま玄関に座り込みスケッチをした。
とりあえず書く。メモは命。
今注文請けてるバイクの家。あれ、一階を全部ガレージにするって話だったけど、家の大きさ的に二階までスロープ回せるんじゃないかな。
スマホを電卓にして、家の長さと高さ、それに角度を計算して、無理がないかやってみる。
母屋だけじゃなくて、庭の奥にある建物も経由させて……ほら、スロープでリビングまでバイク持っていける!
この考え方、面白いな。
もっと地形を取り入れる。
山の斜面にある建物とか、一階をガレージにするお客さんが多いけど、いっそ屋上がガレージのが理に適ってる。
「わー、面白いな-。いけそう」
思わず呟いた。
「面白いね」
耳元で言われて、ひっくり返った。そうだった基樹さんが居たんだ。
「お前はまた床で突然書く……」
模型を持った和也もあきれ顔だ。
「ごめん、我慢出来なくなって」
「いや、面白いよ、ほんと。月島さんのメモとか作業は、横で見てて飽きない」
頬が熱くなるのを感じて、えへへと笑ってごまかしながら、ノートを鞄にねじこんだ。
基樹さんは私を立たせて、腰を軽き抱きながら、少し高い場所にある会議室へ連れて行ってくれた。
腰付近にある基樹さんの手の温度を感じてしまう。
「ここ、段差になってるから、気をつけて」
「はい」
絨毯がふかふかしていて、それだけで転びそうだった。
「わあ……」
基樹さんが会議室といって連れてきた場所は、海が一望できる部屋だった。
「海だ、あ、夕日の時間だ、わ、船、船! わーー、すごい!」
東京湾は世界でも有数の船が出来るする場所だ。遠くにひっきりなしに船が見える。
夕日にはまだ早い、昼には遅い。
太陽は海を照らして、それに答えるように船はキラキラと輝いてみえた。
「私、ここに一日居られる……住みたい……」
ガラスの近くに近づいたら、突然それが開いた。
「キャーー自動ドア? ていうか、どこかつなぎ目だった? どこから開いた? どこで察知? すごーい、すごーい」
「あははは」
後ろで笑い声がして、真後ろに基樹さんがいたことに気がつく。
「ここは自動扉になってて、そのまま外に出られる。センサーは天井にある」
天井を見ると、ライン状にセンサーがついているようだった。
「このまま出られるプライベートビーチつきの会議室ですか」
「気に入ってもらえた?」
振り向くと、美織さんが居た。
真っ青なドレスが海が一望できる部屋によく似合った。
それに深紅のルージュ。
真っ黒な髪の毛が美しくまとめられていた。
「打ち合わせ始めましょう」
「……はい」
美織さんの後ろ姿は、どうしようもなくこの部屋に似合っていて、それにもう焦りも感じないほどだった。
思い出した。
ここは美織さんの世界だ。
模型を見ながら話す。
仕事はいい。目の前のことを進めるだけで、感情が必要ない。
私の目の前にいるのは、施主とその婚約者。それにいつもの和也。
説明を始めると、私の脳内は、どこにいても変わらない。相手が誰でも変わらない。
施主が宇宙人でも大統領でも美織さんでも基樹さんでも、変わらない。
「分かりました。以上で問題ないと思います」
美織さんの答えに安堵する。施主の疑問と希望にどこまで上手に答えるかも、デザイナーの仕事だ。
ここから細かい作業は建築部の仕事になる。私はあくまでデザイン、アイデア担当だ。
それに建築は細かい計算とウンチクの塊だ。正直私は苦手だ。一応できるけど、細かい仕事が好きな人の任せたほうが安心だ。
「では、ここからは建築部の人間が担当になりますので……」
和也は机の上を片付けながら言った。
「えー、月島さんにはもう会えないの?」
美織さんの声に私は顔を上げた。
にこにことした子供みたいな顔に驚く。でも長い髪の毛はシルクのように海から夕日に照らされていた。
「部署は、変わりますね」
和也が言い終えるより早く美織さんは重ねた。
「美織ちゃんのこと、気に入ったのに。たまにご飯たべてくれる?」
私は、ちらりと美織さんの隣にいる基樹さんを見た。
基樹さんは少しも動かない。
ずっと模型を見ていた。
「私、シャチョーシャチョー言われて、友達少ないの」
シャチョーで笑ってしまった。
「はいもちろん!」
「美味しいもの、食べましょう?」
「大歓迎です」
美味しいものは大好き。何より美味しいものは、面白い建物から出てくるのだ。
美味しい食べ物と、面白い建物はシンクロしていると思う。
「良かった。じゃあさっそく今からご飯にしましょう。準備させてるから。時間大丈夫?」
「あ、はい」
「持ってきて-!」
扉が開いて、スーツを来た数人が入ってきて、机の上をすごい速度で片付けていく。
食事を終えると、美織さんは立ち上がり、窓にある自動ドアを全て開けた。
窓から一気に潮風が入ってくる。
半分夕方、半分夜の空気が体を駆け抜ける。
「あー、気持ちいい!」
美織さんは高いヒールを脱ぎ捨てて、砂浜に降りていった。
「こっち、こっち! スカイツリー見えるよ!」
「美織、危ないから」
後ろを基樹さんが追う。
美織。
心臓が掴まれる。
そんなの当たり前なのに、知ってるのに、苦しい。
「いくぞ」
背中を和也が押すので、そのまま外に出た。
東京方面がオレンジと黒と黄色に染まって見える。
建物の裏側に回ると、そこにデッキがあり、美織さんはそこに座った。
「ほら、ここからスカイツリー。星もみえてきたね」
トントンとデッキの椅子を叩いて、みんなここに座りなさいと促す。
基樹さんは美織さんの隣に座り、空を見上げた。
基樹さんは見え始めた星座を見ながら言った。
「もう大三角形が見えるね。夏が近い」
私も空をみる。
かんむり、うしかい。
りゅうに、ごぐま。
本当によく見える。
「アンタレス……」
基樹さんのつぶやきに、私は思わず重ねた。
「赤くてきれい。空気が澄んでる証拠ですね、土星も見える」
基樹さんは振り向いて、私に微笑んだ。
「てんびん」
「おおかみ」
ふたりで交互に星座を言う。
星座は好きで、よくプラネタリウムを見に行っている。
ただ星の説明を聞くだけ。
私は宇宙の一部だと知ることが好きだ。
世界の一部で、宇宙の一員。
「木星」
「金星も見えてきたね」
「二人ともすごーい。基樹が星座好きなんて知らなかったよ」
美織さんの声で我に返る。
基樹さんは小さく笑って、顔を美織さんのほうに戻した。
私は星を数えた。
二人をみるより、ずっと楽だったから。
「海は視界が広くていいな」
基樹さんは座ったまま、両手を後ろについて伸びをした。
「思う!」
美織さんはそのままデッキに横になった。
私はその二人に近づけず、だからといって距離を置きすぎるわけにもいかず、和也と立ち尽くした。
ずっと見ていると、星は海にのまれ、空は闇を告げていく。
「……昔、基樹がつくった照明で、こういうの、あったよね」
「あったな」
美織さん、基樹さんが昔照明作ってたこと知ってるんだ。
小さく驚く。
でも同時に納得した。
婚約者だもんね。
「時間と共に変化する照明。好きだったな……。夕方は赤く夕日のように。夜は星のように美しく」
「売れないよ」
「でも、好きだったよ」
ぽつぽつと話す二人を、後ろでずっと見ていた。
何も言えない。
当然だけど、美織さんは基樹さんの全てを知っていて、好きで、結婚するんだ。
私だけが何かを知ってるわけじゃない。
当たり前じゃないか。
私だけが知っていると願っていた基樹さんなんて、美織さんは全部知ってる。
私は何も知らないんだ。
心臓の奥のほうに何かがたまっていて、それをはき出すために今すぐ泣きたいと思ったが、身動き一つ取れなかった。
「高校生の時に作ってたライトセーバーみたいな照明も面白かったけど」
「なんでそんなこと覚えてるの?」
二人はクスクスと笑った。
「基樹のことなら、何でも覚えてる」
「美織が旅行先で迷子になった話でもする?」
耳の奥がしびれて、もう何も聞きたくない。
そう思った瞬間、腕を和也に引っ張られた。
そのまま部屋のほうに引きずられる。
「もう居なくていい」
それに気がついた美織さんが私たち達に声をかけた。
「月島さん?」
「帰ります!」
和也は私の腕をつかみ、美織さんに向かって叫んだ。
「次の打ち合わせの話はー?」
遠くなっていく美織さんが立ち上がって見える。
「メールでします!」
二人が夜の海と砂浜に消える。
行きはあんなに楽しかったレインボーブリッジは、ただの光る橋にしか見えなくなった。
あんなに見えた星は、もう何も見えない。
―――当たり前じゃないか。
美織さんが、基樹さんの外見だけで、許嫁だからという理由だけで、結婚するわけじゃないって。
長い歴史があって、二人には時間が流れてて。
すべてを飲み込んで言葉を出した。
「和也さあ……次の打ち合わせの予約……してなかったけど…いいの?」
「仁奈子があんな顔してるの、見てられるかよ」
和也はハンドルを操作しながら答えた。
心臓がはねる。
「基樹を好きだって、美織さんにバレるぞ。あんな顔してたら」
「………」
「無理だって分かっただろ、もうやめとけよ」
「……仕方ないよ、好きなんだもん。どーしよーも、ないよ」
好きなんだもん、と口に出して泣けてきた。
私の人生に積み重ねがあるように、基樹さんと美織さんの間にも、積み重ねがある。
それは一生おいつくこともなく、消えることもない。
だからといって、この気持ちが消えるわけでもない。
だって私が願うのは、あんな状態でも、二人が仲良く話をしている状態でも、後ろで基樹さんの顔を見ていたかった。
「好きなんだもん……」
「バカじゃねーの」
信号で車が止って、和也は私の頭をグチャグチャと撫でた。
後ろで基樹さんの顔を見ていたかった。
でも同時に、半分くらい、どうしようもなく……。
「……ありがとね」
「ん?」
「あの場所に、一秒でも居たくなかったよ。だから、ありがとうね」
和也は黙り込んだ。
私はその沈黙に甘えた。
半分くらい、あの場に居たく無かった。
あのまま砂に溶けて海に消えてしまいたかった。
全部思い上がり。
私しかしらない基樹さんがいるとか、美織さんと基樹さんは政略結婚じゃないかなんて、全部私の思い込みだ。
「もう仕事してやる」
私は人気のなさそうなコンペ、すべてに参加することにした。
手を動かしていれば、気が晴れる。
「恋なんてしないってえ~決めた夜に~」
昔の歌を歌いながら模型を作る。
相変わらず模型室には誰もいない。
こうなりゃカラオケ状態。
わーわー歌いながらパソコンを立ち上げてモデリングもした。
空気を入れ換えようと廊下に立つと、模型室から見える中庭に、基樹さんの姿が見えた。
私は模型室を出て、中庭に向かった。
あとで調べたのだが、中庭には一部屋からしか出られない。
廊下を通り、中庭に向かうと、小さなハミングが聞こえてきた。
「恋なんてしないってえ~決めた夜に~」
私が歌っていた歌と同じ歌だった。
模型室の窓は、開かない。
だから私が模型室で歌っていた歌が、外に漏れているということは、ない。
偶然。
なんか嬉しくて、中庭に続く廊下で聞いていた。
しかし、なんというか、基樹さんは、少し歌が……下手くそだった。
音程がずれていて……、うん、微妙。
前に基樹さんが歌っていたとき、私は模型室にいて声は聞こえなかった。
聞いてたの? と顔を真っ赤にした基樹さんを思い出す。
恥ずかしかったのかな。
私はそのまま廊下にいた。
歌い終えた頃に、中庭に入ってみた。
「基樹さん」
「あ、月島さん、こんにちわ。……じゃあ」
「え……?」
基樹さんは、やりかけの庭仕事もそのままに、中庭を出て行ってしまった。
目もあわさず。
顔も見ず。
「……さようなら」
こっそり歌を聞いていたのがばれた?
いや、これは、拒絶。
庭に散乱したままの雑草や、道具。
基樹さんはこんなことしない。
私と居たくないってこと?
なんで?
前の打ち合わせの時は、あんなに話をして。
星を一緒にみた笑顔を思い出す。
なんで?
私は中庭に立ち尽くした。
途中まで作った模型をつんつんと触る。
もう仕事してやるー! と思ったのは確かだけど、仕事をしたら基樹さんに見てもらえるのは……という期待があった。
なんだかんだ言って、私は基樹さんの視界に入りたかったのだ。
私が基樹さんの会社にいるかぎり、関係は消えない。
そう思っていた。
まさか避けられるとは……。
またポロポロと涙が出てきて、私はもう帰ることにした。
たまには定時に帰ってやる。私は会社員だ!
リフォームデザイン課の部屋に戻り、タイムカードを押した。
すると美穂が近づいてきた。
「仁奈子、今日早いじゃん。私も帰ろっかなー。久しぶりに一杯飲みに行く?」
美穂は右手をくいと動かした。
飲む……。
「いいね!」
私は親指をぐいと見せた。
「ああん、私まだ仕事おわりませんー」
旬子は半分も出来ていない模型を前に涙目だった。
「終わったら来なよ-」
美穂と私は二人で会社を出た。
「5時に会社でるの、久しぶり!」
6月の五時はまだ明るい。
そんな時間に飲み屋に入るのが楽しくて、2人で笑いながら近所の飲み屋に入った。
美穂はとにかく飲む。でも悪い酒じゃなくて、いつも楽しそうに飲むから、少ししか飲めない私も見ていて楽しい。
最初のビールを飲みながら美穂は言った。
「パーティーの時のこと、ごめんね」
「え?」
私はつまみの枝豆を口に運びながら聞いた。
「若様……基樹さん……のこと、悪く言って」
「ああ、ううん、ぜんぜん。私こそ、ごめん、ちゃんと色々話してなかった」
「いつから好きになってたの…?」
私は今まであったことをすべて美穂に話した。
電車の中で模型を壊されたこと。
同じ翻訳家の本を好きだということ。
笑顔がとても可愛いこと。
この前の打ち合わせで美織さんと、とても仲が良かったことまで。
話していたら涙が止らなくなってきて、おしぼりで顔を拭きながら話した。
「でね、さっきもね、中庭で会ったんだけど、なんか無視されたっぽい……」
「えー……」
「なんかしたかなあ……。ねえ、どう思う? 今まで聞いててどう思う?」
「わかんないよお」
美穂はもう日本酒を3合も飲んでいて、一緒に泣きながら話を聞いてくれた。
それだけで嬉しくて、2人でわんわん泣きながらお酒を飲んだ。
結局美穂は
「もう無理。また月曜!」
と店の前にタクシーを呼びつけて帰っていった。
美穂はいつもこうだ。
でもそれに悪気はなく、何件もネバられるより、私は気持ちがいいと思っていた。
それに全部話して泣いて、なんかスッキリしていた。
「よし、帰ろ」
空を見上げたら、見事に三日月。月がかけるほど星は見える。暗くないと星は見えないのだ。
小さく金星が見え始めていた。
久しぶりにプラネタリウムに行きたいなあと思う。
ただ1人で星の説明を聞いていたい。
電車に乗ろうと駅まで歩いていたら、見たことのある人影が見えた。
和也と基樹さんだった。
2人は飲み屋から出てきていた。
そして私に気がついた。
「仁奈子」
和也は私に話しかけた。
「……こんばんわ」
「どこで飲んでたの」
「あっちの店。美穂と」
基樹さんは私の顔を見ない。
「美穂さんは?」
「酔ったから帰るって。タクシーで」
「いつも通りだな。仁奈子は大丈夫か。車出す?」
飲み屋から出てきたのに、飲んでないのかな……。ぼんやりする頭で考えた。
その前に2人は一緒に飲む仲なの……?
話ながらも、ちらりと基樹さんを見るが、こっちを見てくれない。
思わず声をかけた。
「金星」
基樹さんはこっちをチラリと見た。
「今日は金星が綺麗に見えますね」
「……じゃあ、俺帰るわ」
基樹さんは店から遠ざかって行った。
私は言葉もなく立ち尽くした。
何か悪いことをしただろうか。
思い当たることは何もなかった。
好きですと告白してフラれたのに、まだまとわりつくのが邪魔だった?
もしくは仕事でミスをした?
打ち合わせで、何か失敗してた?
私、何をしたんだろう。
嫌われた?
さっきさんざん泣いたのに、また涙がボロボロ出た。
視界がふわりと揺れて、和也に抱きしめられた。
「……あいつの事で泣くなよ」
腕から温かさを感じて、さらにワンワン泣いた。
「……基樹は、俺の大学の先輩なんだ」
私を抱きしめたまま、和也はポツポツと話はじめた。
「社長だってこと隠したまま、デザイン学科にいた」
和也と同じ大学……?
私と和也は違う美大を出ている。
私の方はグラフィックに強い大学で、和也は建築に強い大学だ。
だから知らなかった。
「基樹はデザイナーとして優秀で、おれも買ってた。一緒に組んでたくさんコンペに出した」
基樹さんがデザインをする人だって、和也も知っていたんだ……。
「大きなコンペで最終審査まで残ったとき、面接があって、そこに基樹は来なかったんだ」
「……え?」
コンペのことは知らなかったけど、和也がすごく落ち込んでいたのは見ていた。
相方が来なかった、とも聞いた。
その相方って、基樹さんの事だったんだ。
コンペで落選して、和也はデザイナーではなく、デザイナーを助ける仕事を選んだはず。
「基樹は社長の仕事を選んだ。あれから大学にもこないまま、社長になった。おれは誘われるまま入社した」
知らなかった。
「基樹は、社長なんだよ。あいつは社長として生きていくって、決めた男なんだ、仁奈子」
知ってるよ、そんなこと。
「仁奈子はデザイナーとして面白いんだから、そんなことで才能バカにするなよ」
「……そんなこと、じゃない」
「仁奈子」
私は和也の腕の中から出た。
「私が基樹さんのことをいいと思う気持ちは、そんなことじゃない」
「恋愛じゃなくてもいいだろ。あいつは結婚するんだ」
「もっと知りたい。もっと話してみたいの。もっと一緒に何かを見てみたい
真っ正面にいた和也は、私の両肩を掴んだ。
ぐっと力を感じる。
私と視線を合わせる。
「……俺、家を出て、一人暮らしする」
「え……?」
「このままじゃ俺、お前のお隣さんで終わるから、もうお隣さんはやめる」
言葉が出なかった。
「今度俺の部屋に来るときは、月島仁奈子として来てくれ」
掌の力が強くなる。
「仁奈子、俺を見ろ」
真っ直ぐに見つめられた。
「まず、そこから始める」
和也の真っ直ぐな瞳に、私はそれを振り払って逃げた。
和也が隣に居なくなる。
まだ帰りたくない。
もうそれしか思えず、私は新宿で降りて、映画館へ向かった。
土曜日はレイトショーをやっている。
丁度星座の映画がやってるのを思い出した。
スマホで調べたら、新宿のここだけで深夜にやっていた。
私を待っているかのように。
そこはカフェもあるし、朝までぼんやりできると思った。
終電が近く、映画館から出てくる人のほうが多い。
私は一人で上がるボタンを押して、乗り込んだ。
この映画館は店舗の最上階にあるので、途中からエスカレーターになる。
ぼんやりとそれに乗り込む。
チケットカウンターにつき、チケットを買い、まだ時間があるのでカフェに向かった。
そこに基樹さんが居た。
「……なんで……」
基樹さんも同じように驚いた顔をしていた。
私は止められずに言った。
「なんで、ここに、いるんですか」
基樹さんは黙ったままだ。
それをいいことに続けた。
「私を嫌いになったんですよね。私の顔なんて見たくないですよね、すいませんでしたね!」
「違う」
基樹さんが立ち上がると、机の上で基樹さんが読んでいた書類が床に散らばった。
それは全て照明のデザイン案だった。
「デザイン……」
私は基樹さんと一緒にそれを拾った。
その中にシャンデリアをイメージしたものもあった。
私はたまらなくなり、自分の鞄の中からメモ帳を出した。
同じようにシャンデリアをスケッチしたものだ。
それを基樹さんに見せる。
基樹さんは目をそらした。
「……基樹さん……私のこと、邪魔ですか」
「俺といるのは、月島さんにとって、マイナスだと、思う」
「なんで?」
「いや、俺にとっても、マイナスだ」
「だから、なんで?」
何か話していてキレはじめていた。
頭の中が静かに沸騰し始めるのを感じる。
「俺は社長だから」
「社長がデザイン書いちゃいけないって、何かで決まってます?」
「別の仕事だから。デザインを理解しすぎてると、社長の仕事は出来ない」
「すればいいのに」
「そんなに器用じゃない」
「やりたいんでしょ、こんなに、こんなに、書いてる」
私は拾ったデザイン案をバラバラと撒いた。
「やりたいなら、やればいい」
「月島さんは、生まれたときから人生が決まってるって、どんな気持ちか分かる?」
基樹さんの今まで見たことない顔に一瞬ひるむが、そのまま言う。
「はあ? 人生? 生まれてから全部決まってる。すごいですね、基樹さんは、明日も明後日も、普通にくると信じてるなんて。明日死ぬかもわからないのに、どうして人生が明日も普通に続くと思えるんですか」
「屁理屈を」
「会社が一生続く保障もないでしょう。明日絶対生きてる保障もないでしょう。だったら社長するにしても、何するにしても、全てを決めるのは、基樹さん本人だ」
基樹さんは下を向いたまま顔を上げない。
「私は社長の家には生まれてないから、社長の気持ちはわからないけど、毎日先のことなんて考えてない。今手元にある仕事と、今日のことしか考えない」
「………」
「基樹さんの弱虫」
基樹さんは下を向いたままだ。
なんか泣けてきた。
好きなひとに向かって私は何を言ってるのだろう。
「もったいない……基樹さんのデザイン、好きですよ……ほんともったいない!」
本音はこれだと思う。
もったいなくて、もったいなくて、たまらない。
やりたいならやればいいのに。
私が見たいだけだけど!
一緒がいい。
一緒に物を作る人間で居たいだけだ。
グスグスと泣けてきてイヤになる。
そのまま疲れて座り込んだ。
うなだれた私のオデコに、基樹さんのオデコがコツンとぶつかったのが分かった。
柔らかい髪の毛。
ふわりと香る匂い。
おでこだけ、火がついたように熱い。
「……降参」
「なんですか、それ」
二人でオデコを合わせたまま話した。
映画館のカフェで紙をまき散らして、オデコすりあわせて話す男女。なんで変なんだろう。
「好きって言ってくれてありがとう。デザイン、捨てないで、少し書いてみるよ」
「もう無視しませんか……」
エグエグと泣けてくる。
基樹さんがオデコをコツンとぶつけてくる。
「……ごめん」
「歌を勝手に聴いてごめんなさい……」
「……やっぱりか……」
「ヘタくそ……」
「言うな……」
「模型室にも来てくれますか……?」
顔を少し上げると、私をみている基樹さんと目があった。
「一緒に作ってもいいかな」
「もちろんです」
基樹さんは、にっこりと笑った。
私も笑った。
何よりも、その言葉が欲しかった。