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Love or Lover  作者: コイル
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私と彼と貴方のはじまり

 子供のころの夢は、月に住むことだった。

 理由はたくさんあるけど、広そうで、誰も住んでないから、自分の建てたいお城みたいな家が作れると思っていたこと。

 そして私の名字は月島だ。月の島。もう住むしかない。だから大人になって月の土地が売り出したと知ったとき、すぐに買った。その証明書は私の部屋にずっと飾ってある。いつか月に家を建てたい。地球がみえる大きな部屋。

「とりあえず、仁奈子がするのは、月の部屋を考えることじゃなくて、この図面を仕上げることかな」

「わかってます……」

 私、月島仁奈子は仕事がうまくいかないと、月に建てたい家を考えるクセがある。すべきことは、お客さんのリフォーム案を考えることなのだけど。

 でも幼なじみなのに出世が早く上司になってしまった宮田和也は、私が妄想に逃げるのを許してくれない。

「締切り月末だよ。大丈夫?」

「月に住みたいです……」

「はい、地球へようこそ」

 和也は後ろに椅子にドスンと座ってにこやかに笑った。いつも通り右側の口だけ持ち上げて。

 窓際の席に座っている同僚の神部美穂が椅子から立ち上がって外を見た。

「あ、仁奈子、若様きたよ」

 それを聞いて私も席を立ち上がって外を見た。

 窓の外に真っ黒な車が見える。その鍵を受付さんに頼んで、若様こと、藤木基樹次期社長は会社の中に入っていった。

 美穂はほう……とため息をついた。

「手足長い……。顔もよくてお金もあって次期社長で、バカっぽくなくて、クールだし、希少価値高いよね。レア物件……開発前の武蔵小山の一軒家……」

「美穂ちゃん、若様を物件にたとえるのは、ちょっとどうかな」

 私は思わずつっこんだ。

「住みたい……いっそ若様に住みたい……若様の上に住みたい……」

「もう変態の領域だけど」

「だって若様かっこいいもん……」

「え、若様来ました?」

 後輩の南旬子は机の上に置いてあったブラシで髪を正した。

 美穂は机の引き出しを開いて口紅を手鏡を取り出して塗った。

 そして若様が通路を通るのをおすまし顔で待つ。

 背筋をぴんと伸ばしてマウスを握った美穂は、真顔で耳をすまして足音に集中した。

 コツ、コツ……。遠くから足音が聞こえる。



「(キタキタ!)」

 美穂は口をパクパクと動かして、若様が近くまできたことを告げる。

 そしてカチカチとマウスを動かして、仕事を始めた。しかし画面は図面制作で、カチカチクリックをしても絵は何も変わらない。ようするにフリだ。

 私もとりあえず机に肘をつき、考えてます……な顔をした。

 旬子はカチカチとキーボードを打った。

 そして通りすぎるのを、じっと待つ。なにかあるわけじゃない、視線をくれるわけでもない、でも空間と一瞬を一緒に過ごしたいのだ。

 コツ、コツ、と足音がきて、若様が来た。

 部署の中を覗くこともせず、同じだけ靴音を響かせて遠ざかっていく。コツ、コツ……。

 真っ黒な髪の毛がふわりと揺れて、高い身長を屈めもせず、背筋を伸ばして、早足で。

「……ぷはああ、かっこいいわあ、もう麗しい。ちょっと前髪伸びてた。癖毛っぽくない? ああん」

「美穂ちゃん、おっさんみたいだよ……」

「仁奈子だって思うでしょ?」

「そりゃ若様はかっこいいよー」

 我が社のアイドル的存在で、次期社長。文句などあるはずがない。

「やだやだ、仁奈子先輩、和也先輩がイライラしてますよ~」

 後輩の旬子が、にやにやしながら近づいて来た。

「そうそう、旦那さまが怒りますよ」

 美穂がさらに茶化す。

「結婚してないし、その前に彼氏でもないんだけど。和也は和也、ただの幼なじみだよ」

「そんなこといっちゃってえ~」

 美穂と旬子は同時に声をあげた。

「お前ら、そろそろ本当に仕事に戻れや」

 完全に怒った表情の和也が近づいて来た。そして手に持っていた本で私の頭を叩いた。

「痛っ。何?」

「ん」

 頭に乗せられた本は、和室のリフォーム案集と間接照明のカタログ。

「参考にして」

「ありがとうございます……」

 和也はずっと優しいし、有能だ。

「愛ですなあ」と美穂。

「ラブミッションですね」と旬子。

「何なの二人とも!」

 確かに、和也の気持ちを、全く知らないわけではない。高校生の時に一度告白されている。思いっきり茶化してしまい、それ以来、私と和也の間に恋愛話は禁止といった雰囲気なのだが、なにより問題なのは、和也と私は……。


「ただいま」

「おかえり」

 同じ建物に住んでいるのだ。もちろん別の部屋なのだが、同じ建物。道路からみて右側が我が家、左側が和也の家。小学校の時に同時に引っ越してきて、親同士も仲がよく、一緒に夕飯を食べることは多い。

 和也はスマホから目を離さずに言った。

「仁奈子のオカン、卵買いに行った」

「で、なんでウチに和也がいるの?」

「ん」

 和也は無言で煮物を指さした。鍋の中には手羽先と大根が煮えている。

「ああ……これは卵が欲しいね」

「俺も食べたいから、煮物見張り当番」

「あはは」

「仕事終われそう?」

「はい先輩、なんとなく!」

「なんとなくじゃねーよ」

 煮物の煮える音と、この安心感が恋ならば、私はもう何十年も和也に恋してる。でもこれは「家族」だともう、お互いが理解している。

「次は話題のリフォーム会社を紹介します」

 付けっぱなしテレビから音が流れて、そこに若様が映っていた。

「若様! ねえ和也! 若様テレビ出てる!」

「そういえば、出るって言ってたなあ」

 和也はスマホをいじりながら答えた。

「角鳴住宅の御曹司である藤本基樹さんにお話を伺います。こんにちわ」

「こんにちわ」

 若様はにこりともせず、小さく会釈した。

「非常にクールといった印象を持ちます。女性社員さんからは若様と呼ばれていると伺いましたが!」

 若い女子アナはふわふわと巻いた髪を揺らしながら言った。

「そうですか」

 若様は簡単に答えた。女子アナは思った返答が得られないとわかり、話題をリフォーム業界の話にした。

「角鳴住宅は、デザイナーを多く抱えるリフォーム会社として有名ですね。主にどういう物件を取り扱っているのですか?」

「個性的な物件をメインに取り扱っています。アーティストと職人、そして家にまとめるデザイナー、すべてがそろっているのが我が社の特徴です。写真、絵、彫刻、陶器、電気とそれぞれの分野を生かし、その人にしか出来ない物件を作っています」

「こちらがそうですね」

 最近和也が手がけた彫刻をメインにした家が出てきた。

「和也! 和也の家だよ!」

 私は興奮しながら和也の頭を殴った。

「俺の家じゃねーだろ……」

「天井一面に施された彫刻は、こう光を当てると、部屋全体に美しい影を落とします。蝶ですね!」

 女子アナが楽しそうに言った。

「朝は蝶ですね。夜は下に照明を付けると、天井に樹木が浮かぶ! すごいですね」

 若様は表情一つ変えずに答えた。

「我が社の仕事は彫刻の職人や、家のデザイナーだけでは成り立ちません。二人が手を組んで、はじめて施主に望まれた家が生まれるのです」

「和也いいわー、やっぱ出世するだけの仕事したわー」

 私は画面に見ほれた。

「その彫刻のアイデア出したのは、仁奈子でしょ」

「でも彫刻家さん怒らせた……」

「はい反省して」

「もーー!」

 画面には表情一つ変えない若様が映っていた。よく考えた私、若様が笑った所、見たことが無い。


 カレンダーを見る。あと一週間でプレゼンの日だ。

 図面は引けてるし、模型も半分は出来てる。でもテーマである「光りの活用」が、模型で上手に演出できないでいた。

「施主さんの希望は、間接照明がカッコイイ家……なので、もうちょっと模型の作り込みが必要かもしれません」

「うん、今回は屋根まで作って、ちょっと部屋を暗くしてプレゼンしたほうがいいかもね」

 和也は私の模型を細かくチェックしながらいった。

「ライトの仕込みとか、工場いってみる? 専門さんがいるよ?」

「あ、助かるかもしません」

 私が何度ライトを仕込んでも、計算通りに光は跳ね返らなかった。

 模型を持って電車に乗った。

 私は電車が好きだ。みんな工場や打ち合わせには車を使うけど、私は車の運転が下手だし、なにより渋滞もなく、ゆれてるだけで目的地につく電車は落ち着く。

 それに本が読める。

 膝に模型を乗せて、鞄から本を取り出した。最近は同じ翻訳家さんで本を買っている。この人が翻訳した本は、話のカラーが同じで、読んでいて落ち着くのだ。家にいるとスマホを触ってしまうし、テレビにおしゃべり。やりたいことが多すぎて本が読めない。電車の中が唯一の読書タイムだ。

 ふと視線をあげると、斜め前に本を読んでいる人が見えた。私は電車の中で本を読んでいるひとのタイトルを見るのが好きだ。ひょっとしたら面白い本かも知れない。タイトルは【藍染めの空に】。あの本、先週私が読み終えた本! すごく面白かったの。読んでる人初めてみた。かなりマニアックだと思うんだけど。少し体を動かして、どんな人が読んでいるのか見て見たくなった。

 本の隙間から見えた顔は、若様だった。

「わかさま…!」

 思わず持っていた本を鞄にしまった。

「きゃ…!」

 その時、膝の上に置いていた模型が落ちた。響く軽い音。

「次は、西井ー。西井ー」

 そして電車が駅に停車して、駅で降りる若様が、私の模型を思いっきり踏んだ。次に響いたのは絶望の音だった。

 バキッ!

 同時に私の悲鳴。

「えええええーーー!」

「え?」

「あああああ…」

 私は車内に座り込んだ。



 模型の真ん中に足跡。間違いなく折れていた。

「ごめん」

 若様は私の横に座り、壊れた破片を集めはじめた。

「あ……ありがとうございます……」

 手元に集まる破片の多さに、現実を知る。これは完全に作り直し……間に合う?

「……みたことある人、かな」

「はい、社員です」

「はい……」

 明らかに困惑した顔。目が泳いでいる。こんな顔するんだ、若様。かわいい。

 思わず意地悪したくなった。

「社員です」

「………はい」

 社員数も多く、部署は20近くあって、全員を把握していないだろう。

「リフォームデザイン課の月島仁奈子です」

「……はい……で、この模型は……月末のプレゼン用の……?」

「はい」

 我が社のプレゼンは殆どが月末にある。社員の名前は知らなくても、これがプレゼンに使う物だということは分かるようだ。

「今日は24日か……ごめん……」

「いえ…」

 小さな石が水面に落ちてくるような静かな声。

 若様の声って、こんなに低いんだ。聞いていると心が落ち着いていくのを感じた。

 ざわざわとした気持ちに一滴の水が落ちるように息をする。

 今日を含めて1週間、きっとまだ間に合う。

「次は、堀田-、堀田ー」

 私は破片をすべて鞄に入れて顔を上げた。

「大丈夫です。それに、最初に下に落としたのは私ですから」

 落ちた本を拾い、電車を降りた。

「ごめん……」

 若様はそのまま電車に乗って、消えていった。

 私は駅のホームに座り、鞄の中を確認した。模型は真ん中で折れていた。これは最初から作り直したほうが早い。もうやるしかない。

 本に汚れがみえて手に取った。

「あれ、これ……」

 中身が違うし、栞が入っている。【藍染めの空に】これ若様の! 栞をみると、それは皮で出来ていて、名前が入っていた。

「栞が皮とか……すごいなあ」

 みると【藤本基樹】とある。藤本社長。そうだよな、若様じゃなくて、藤本社長だ。

 いやそれは今の社長だから、基樹社長かな。

 心臓がぎゅーっと握られた感覚に、私は動揺した。

 あれは若様じゃなくて、基樹社長だった。

「基樹社長……本、落としましたよ……」

 ごめん、と響く低い声だけが、私の体の中に残った。





「真ん中バッキー!だね。これ足? 足跡? 踏んで踏まれて踏んづけたの?!」

 机の上に広がった模型の破片をみて、美穂が大声を上げた。

「最初からやり直す」

「だから車で送るって言っただろ」

 後ろで和也が怒っている。

「大丈夫。あと1週間あるから」

「1週間しか無いって言うべきじゃない?」

 美穂が模型用のボードを持ってきた。

「手伝うよ」

「美穂には美穂の仕事があるでしょ。私より状況やばいんじゃない? 一緒に頑張ろう!」

「仁奈子の言うとおりだ。とにかくやれる所までやるしかない」

「はい」

 それから毎日模型をつくる日が始まった。和也の配慮で会議や庶務は後回し、とにかく模型室で毎日作った。

 2ヶ月かけて作ったものを1週間で作り直すのだ。正直無茶だと思う。でもやるしかない。悪いのは私だし、私以外誰にも作れない。

 最後の2日は会社に泊まり込むことにした。考えながら作るのでは無く、1度作ったのをなぞっていくので、あと2日もあれば壊れる前までの状態には出来そうだった。

「仁奈子。オカンから差し入れ」

 大きな袋を持った和也が来た。

「わー、ありがとう。いい匂い」

「作業しながら食べられるように」

 袋の中には、たくさんのおにぎりと、コンビニで買ったパンが入っていた。

「それだけあれば明日まで持つよ。ありがとう」

 手を止めずに返事をした。

 和也は部屋を出て行った。長居しない。それだけで私は心が落ち着いた。

 今は一緒にいてほしい、今はいてほしくない。和也はそれが通じる。

 無理に手伝いもしない。私は作業を一人でしたいタイプだ。分かってくれてる。その安心感と、一人じゃないという気持ち一つで、おそってくる眠気とも戦えそうだった。

「よーし、がんばる!」

 のびをして、パーツを手にした時、入り口付近でコツンと音がした。

「和也?」

 私は入り口付近に向けて声をかけた。

 コツ、コツ、コツ。靴音が遠ざかる。和也は革靴など履かない。だれ?

 廊下まで出て見ると、誰もいなかった。

 入り口を確認すると、そこには、針金でつくった小さなランプが置いてあった。

「きれい……」

 太い針金と、細い針金を使って、ランプに仕上げてある。それに模型サイズ。和也はこんな器用なことできない。

 時間は深夜だし、誰だろう……。

「すごく上手」

 コツ、コツ……と足音が戻ってきた。

 私は入り口から廊下を覗いた。

 そこに居たのは缶コーヒーを二つ持った基樹社長だった。

「基樹社長!」

「……こんばんわ」

 深夜に響く基樹社長の声は、やはり深くて静かで、みぞおちに響く。首の奥が、ギュッと苦しくなった。

 模型室は半地下にある。

 半分あいた窓から雨音が聞こえ始めた。

 雨音と基樹社長の声は、深いトンネルで眠るように落ち着く。

 狭くなった喉の奥から必死に声を出した。

「こんばんわ」

 基樹社長は缶コーヒーを針金ランプの隣に置いた。

「どうぞ」

「え、ひょっとして、このランプ、社長が作ったんですか?!」

「………はい」

 基樹社長の眉毛が、ほんの少しだけ下がった。

「基樹社長、制作とか出来るんですか?!」

 私は興奮しながらランプを手に持った。身長が高く、きっと手も大きいであろう基樹社長が、机の上でちいさなランプを作ってる絵が浮かび、たまらなくなった。

「すごく可愛いです、ほんとうに」

「……はい」

 さっきから【はい】しか言わない。でも、その表情はテレビでみたアレとは全然違った。柔らかく、少なくとも社長ではなく、基樹社長だ、と強く思った。

「あの、模型はなんとかなりそうです」

 模型。

 言い終えて、私の中に閃光が走った。

「あの!」

「はい」

「このランプ、模型に使っていいですか?」

「……はい?」

 私はほとんど出来ていた模型の屋根を強引に外した。バキリと音が響く。

「え……?」

 社長の驚く声が聞こえたが、そんなのはどうでもいい。私の中に動け、動けと声がする。



「なにを……?」

 動揺している基樹社長を無視して、私は脳内のイメージを絵にすることに集中した。

 こういう瞬間は、すぐに消える。とにかく手を動かす。

 置いた間接照明の向きを変え、照明があたるほうにランプを置いた。そしてランプの側面にセロファンを張り、照明をつけた。

「よし」

 思った通り、間接照明の光がランプに反射して、部屋をさらに明るく、美しく見せた。

「待ってよ」

 セロファンをはがし、絵をかく。とにかくなんでもいい。蝶の絵を描き、それを再び貼る。

 すると模型の部屋の中に蝶ともなんとも言えない影が浮かび、部屋に陰影が付いた。

「やってみるか」

 こうないとたまらない。陰影の向きを計算して、壁の場所を変えたほうが面白いかも知れない。

 あまり反射させすぎると、照明が少ないこの部屋は暗くなりすぎる?

 これをパソコン内にデータ可したほうが早い。でも明日がプレゼンで間に合うの?

 やって良くなるなら、やる。やって良くならないなら、ランプを取ればいい。よし、やったほうがいい。

 とにかくパソコンで簡単にモデリングをはじめた。

 ランプの形を見ながらラフに作る。

 計算させるだけなら、簡単でいい。

「すごいね……」

 その声で、まだ基樹社長が部屋にいて、私の仕事をみていたことに気がついた。

「わ! すいません、あのそういうことで、このランプ、使ってもいいですか?」

「もちろん」

 そう言って、基樹社長は微笑んだ。

 今までみたことがない丸さと優しい瞳で。

 心臓が握りつぶされるような感覚に目を閉じた。

「あ、りがとうございます」

 基樹社長は笑顔だけで答えて、部屋から出て行った。

 まだ脈打つ心臓に、大きく深呼吸をして空気を送った。

 とりあえず、明日のことだけ考えよう。

 モデリングしたランプに貼る素材を書く。

 雨音が大きくなってきた。

 昔から雨音は好きだ。

 外で遊ぶより、家の中で絵を描くのが好きだった私に、雨は味方だった。

 今日は家に1日いてもいい。

 子供は外で遊びなさいと言われない。

 もっと書いてもいい。もっとここに居てもいい。

 神様が私を許した日。

 雨音が優しく響いて、私は安心して鉛筆を走らせた。

 



「仁奈子!」

 体を揺さぶられて、今が朝だと気がついた。

「出来たか?」

「和也……おはよ。出来たよ。見て」

 私は机に突っ伏したまま、模型に電気を入れた。また朝早く、暗い室内に光が灯る。

 間接照明がランプに光を送り、部屋に見事なコントラストと広がりを見せた。

 試行錯誤のすえ、影を落とす場所は限定的にした。そのほうがこの部屋に適していると思ったからだ。

「この絵はさ、デサイナーさんに正式に受注して。私の仮絵だと…ちょっとイマイチで」

「お前……ランプって、なにこれ、昨日まで無かったのに……」

「いいでしょ。とりあえず、寝る」

 私はそのまま瞳を閉じた。もう限界だった。

 私の仕事はここまで。プレゼンは和也が完璧にしてくれるはず。

 和也は、デザインの仕事は下手くそだが、デザイナーの気持ちを誰より上手に語ってくれる人だ。


 ……大人になってから、夢は見ていると知っていて、それを見る。

 一面緑色の海に、服を着たまま浮いている。

 空は蒼く遠く、視界には何も見えない。

 蒼い空に、よく見ると月が浮かんでいた。

 真っ白な月。

 見ていると、その月はゆっくりと、真ん中で割れた。

 砂場で作った山が乾いて、ぱらぱらとこぼれ落ちるように、ゆっくりと、でも確実に。

 ああ、空に溶けてしまう。

 バラバラと落ちてくる月の破片。

 そして、それは雨に変わった。

 顔にあたる無数の雨粒。

 冷たい。

 それに……。


「寒い!」

 と叫んで起きると、体には毛布がかかっていた。

「寒く、ないね、うん」

 時計をちらりと見ると夕方。もうすぐプレゼンも終わる。まだ頭がハッキリしない。もう一度寝ようと腕をくみ、そこに頭を乗せると、目の前に本が置いてあった。

 それは前に私が電車の中で落とした本だった。

「あって良かった…、まだ読みかけなの…」

 じゃないて! この本は基樹社長が持っていたはず。

 起きて周りを見ると、後ろの席に基樹社長が座って、スマホをいじっていた。

「キャーー! じゃない、おはようございます!!」 

 慌てて毛布で体を隠した。なにしろ二日間家に帰っていない。髪の毛もモジャモジャだ。

 慌てる私に基樹社長は、言葉を静かに選んで言った。

「プレゼン、良かった」

 基樹社長は、スマホを閉じてポケットに入れて、微笑んだ。

「とても、よかったです」

「あ、はい」

 もうそれしか言えなかった。


 私は肩にあった毛布を頭にずるずると移動させた。自分の匂いが毛布の中に充満して、気持ち悪くなる。恥ずかしい。

 頭に毛布をかぶせると、足が出てしまい、その足には無数のボンド液がついていて、それも恥ずかしく、椅子の腕で足を丸めた。

 基樹社長はそんな私をずっと見ていた。何か用があるのかな?

「基樹社長……」

 そこまで言うと、基樹社長は立ち上がった。

「月島さんは、僕の1つ下だ。それで社長はくすぐったいよ」

 基樹社長の年齢など、考えたことも無かった。社長は社長で、社長という世界を生きていて、私には関係がないと思っていた。

「でも社長は社長なので……」

「基樹でいいよ」

「いえいえいえ…!」

 思いっきり否定するために、体を動かしたら椅子から落ちそうになった。

 その右腕を基樹社長が掴んだ。

 体が燃えるように熱くなり、同時に泣きたくなった。

「基樹社長」

「基樹で」

「基樹……さん……ですかね……」

「はい」

 声がでない。何か縛られている。苦しくてたまらない。

「あの……」

 絞り出した声は消えそうだった。

 基樹さんは、私の横に返してあった本を手にとって、少し前に動かした。

「本」

「はい」

「返します」

「はい」

 息が出来ない。

 目の前にある基樹さんの表情は優しく、黒い髪の毛がふわりと揺れた。


 なんてきれいな髪の毛。


 同時に気持ちがあふれ出した。


 あの髪の毛、クセ毛なのかな。

 あの髪の毛、どんなさわり心地かな。

 あの髪の毛、どんな匂いがするかな。

 あの髪の毛、触りたい。

 基樹さんに、触りたい。


 そして私は自覚した。

 基樹さんを、好きになっていると。


 その時、模型室のドアがあき、和也が入ってきた。

「よし、プレゼン取ったぞ!」

「和也」

 基樹さんは私の腕を離し、毛布を軽くかけ直した。そして部屋から出て行った。

「あの、……おつかれさまです」

 それだけ言うのが精一杯だ。

 和也は目だけで基樹さんのことを見送った。

「……仁奈子さあ、その毛布、どこの?」

 言われて気がついた。この毛布、なんかすごく高そう。きっと基樹さんのだ……。

 私はその毛布を体にまとった。

 さっきまで私の匂いしかしないと思ってた。

 でも吸い込むとかすかに違う匂いがした。

 私は消えそうな香りを、必死に抱きしめた。



 ねえ、私はずっと気がついていた。

 ずっと月に住みたいと思ってたけど、あそこは住める場所じゃない。

 すっごく寒くて、すっごく暑い。

 でも信じていた、いつか月に住めると。

 それは綺麗で、素敵だったから。

 でもそれは、月がどんな場所か、知らなかったからなんだ…。

 今は思う。

 月の実態を知っても、それでも尚

 私は月に住みたい。


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