常軌
『くらぎ』が行動を開始した、まずは突進……。からの旋回。もう巨体を利用した只の突撃だった。その目的は捕食、獲物を狙う猛獣そのものだった。
駄目だ、躱せない……異空間に飛ばす? 駄目だ、障子ではあの馬鹿デカイ大きさをカバーできない。じゃあ俺の妖力で弾き飛ばす……、俺にそんな馬力がどこにある。死ぬ……喰われる……殺される…。
「ボサってしないで下さいよ」
奴の蜘蛛の前足が俺を踏み潰す前に、俺は瞬間移動で上空へと逃げ出していた。一瞬のことだったから、本当にタイミングがわからなかった。助けてくれたのは、悪霊であった面来染部だった。
「緊急回避信号。絶対回避は伊達じゃないでしょ。相手の図体なんて私の能力なら関係ないですから。寧ろ動きがダイナミックなお陰で、ボディがガラ空きですよ。隙だらけですね。まあ無敵な故に、攻撃には全く生きないんですけど」
恐怖を感じた、足が震えた、背筋が凍った。俺はこの場に死ぬ覚悟を持ってやってきたつもりだった。しかし……奴の放つ狂気は、俺が今までの心の熱を一気に削り取った。死への恐怖が俺の正義感を根刮ぎ奪い取った。
「全くなんだんだよ、あの図体は!!」
「どうやら簡単に突破できそうにないですね。芋虫にしては甲殻類よりも防御力がありそうだ。妖力を体に纏って周囲に放出している。今までに喰らった妖怪たちの妖力を一滴すらも無駄にせずに、己の力にしているんですね」
突進が躱された先にいたのは、松林力也の手持ちの式神であったはずの、がしゃどくろだった。奴に飛びつくと、壁を突き破りつつ、蜘蛛の足で奴を動けまいと拘束した。オメカシしていた口が急に巨大化したと思いきや、捕食を開始した。
「タンパク質たっぷりでしょうね」
「本当に食べてやがる……」
骨が折れる音、接合部分が破壊される音、奥歯によって噛み砕かれる音。コリコリと気色の悪い音をたてて、次々と奴の骨を喰らう『くらぎ』。これが狂気じゃなくて、何だろうか。
「吐き気がしてきた……」
「これは‥……驚きますね」
喰われる……俺は奴に喰われる。尊厳を守る勝敗だの、世界を救う名誉だの、勧善懲悪での罪滅ぼしや、頭の中のこの戦いの勝利条件が泡が破裂するように、消えていった。
「うわぁ、う、う、わぁぁ」
声が出ない、足の震えが止まらない。せめてそれが叶えば逃げ出している。奴の恐怖は常軌を逸している。あんなの妖怪じゃねぇ、世界に現れてはいけない類のモンスターだ。
「恐怖を感じましたか? これが現実という名前の絶望ですよ」
駄目だ、勝てない。そんなレベルでもないか。殺される。死にたくない、死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない。
「死にたくない」
言った、そしてその後に涙が溢れた。その涙で頭の中にある罪悪感を洗い流すように、俺の感情の中に『主人公』が言いそうな言葉が蘇ってきた。
命を粗末にするな、何よりも大切にしろ、誰かがお前の帰りを待っている、死んでも何も成せないなら意味がない、何度でもチャンスがある、何度でも立ち向かえばいい、諦めない限り可能性は消えない、ここは一度退散するだけだ、死んで名誉を残すより、残った者の気持ちを考えろ。
「逃げなきゃ、逃げてもいいんだ。逃げる事は悪い事じゃない。俺はこれからまた……」
「次なんかない!!」
俺の心の迷いを面来染部が打ち消した。
「え?」
「君は主人公じゃない。君の帰りを待っている奴はいない、君を失って悲しむ人はいない、君には仲間もいない。そして君は陰陽師として死刑にも値する大罪を犯した裏切り者だ。命に執着する理由がどこにある!! 君が倒さなくて、誰があんな化物と戦うんだ。君ぐらいしか、逃げ出さない奴はいないだろう。だから君はその覚悟で、この場に臨んだのだろう!! 生きて生き恥を晒すな!! 男なら死に物狂いで戦え!!」