脱落
★
夢を諦めたのはいつだろうか、望みを捨てたのはいつだろうか。思考を止めて、全てを諦めるように、人生を歩み始めたのはいつからだろうか。勉強をしなくなった、学者の夢を捨てた。優しさを捨てた、友達が消えた。陰陽師を捨てた、存在価値が消えた。
そんな俺だったが、また夢を拾いに行こうとしている。
「くらぎ……見たまんまの化物だな。想像以上に気持ち悪い」
理事長室にあった、松林力也について綴ってあった文書にあった絵は、間違ってはいなかった。『くらぎ」という妖怪、妖怪を喰らうという特徴のある最低最悪の妖怪といってもいいだろう。
芋虫の体に、百足の脚。そして不自然に覗かせる女性のおめかししたような唇、間近で見ると絶望感が違う、狂気を撒き散らすような風格、吐き気を催す吐息。
「こんばんわ、ですねぇ。折角の食肉祭だったのに。目目連、きっと未知の味が楽しめる所存でしたのに」
ババア声、かなり威厳を感じさられる気色の悪い老婆の声だ。声が澱んでいて、唇から白い灰煙のような息が垂れている。いつもの俺なら全力で背中を向けて走り出しているだろうな。
「貴様。いつから入れ替わってやがった。どのタイミングで松林力也を食べたんだ?」
「そりゃ勿論、ついこの頃ですよ。松林力也はどうやら日本中の災害を齎した悪しき妖怪を探っていたようです。陰の妖怪に狙いが絞らられるのは必然でしょう」
「そんな情報はとっくに知っているんだよ。聞きたい事はそんな事じゃない」
俺が聞きたかったのは、松林の目的が奴の目的だった可能性を疑っているのだ。松林が陰陽師の世界を変革しようとしていた事実が、こいつの差金だったとしたら……。松林は操られていただけ……。ならば、その事実を確認するために、『ついこの頃』なんて曖昧な事を言われても困るのだ。
「質問を変えようか。お前は何が狙いだ? なんでこんな場所で、獲物を待ち構える蜘蛛みたいな真似をしている?」
あの伝説の御門城が、陰の妖怪の女王様が罠を張る蜘蛛の巣と化しているなんて。ざまあみろって感じを通り越して、涙が出てくるな。
「えぇ、本当に最近ですよ。本当に最近です。えっと……二十年前くら…」
「もういい。黙れ。お前との会話は終わりだ」
「随分と愛想の悪い餓鬼ですねぇ。質問しておきながら、その態度はなんですか? 私はここ最近の退屈から抜け出したので、テンションがハイなんですよ~」
「婆さんが現代語を使うな。気色悪い」
松林はきっと利用されただけか、理事長あたりはこの事実に気がついていそうだったな。それでいて、レベル3の悪霊退治にこの理不尽を利用する気だったんだ。陰の妖怪の力を使っても。
「お前、きっと阿部清明辺りに封印されていたんだろ。そして目覚めた。きっと少しずつ封印の檻から妖気を垂らして抜け出していき、操れる人間が来るのを待っていた……」
「ふふ、ねぇねぇ。妖怪って死なないって事実。君はどうおもいます? 果てしなく永遠の命って怖くないです。余命を聞かされるのよりも」
「不老不死を嫌がるのなんか、自殺願望があるやつだけだろ。大抵の奴は大喜びじゃないのか?」
「いいえ、違います。なんでも無限なんて物はありません。死ねない事など絶望に決まっている。食物連鎖の枠組みからの脱落、いわば畜生にも劣る劣盤。だって世界から拒絶された生き物ですから」
死ぬ痛みを背負ってこその生物か、それが捕食であっても、寿命であっても。
「まるでお前が妖怪を生き物にするみたいな言い方だな。いつからお前は全知全能の神になった? 母なる大地の母になった? お前を崇める妖怪は一人もいねーよ」
惜しみない愛情、湧き出る程の慈愛。奴にはそれが微塵も感じられない。奴は只のモンスターだ。この悪霊騒動が忙しい時期に、同時に暴れだすなんて、都合が悪いにもほどがある。
実験でおくれました