恋人
「それは困りました。信じて貰えないなら仕方がありません。私は戦う技術なんか一つも持っていませんし、人類と悪霊の共存を本気で臨む主義ですが、戦いましょう。大切な物を守るために」
遂に襲い掛かってくるか、理由はどうであれ奴の狙いは分かる。俺を捕獲する事だ。奴が嘘をついていたなら、俺は柵野栄助の元に連れて行かれる。奴が本当の事を言っていたとしても、俺はどこに連れて行かれるか分かったもんじゃない。
「分かり合えないようだね。松林が行弓君の事を知らなかったとしても、だからって橇引行弓だけを別の場所へ逃がすという選択肢は無い。彼も我々と同じ百鬼夜行の仲間であり、彼には凄まじい状況判断能力がある。それはこの場にいる別の誰も、代理できないものだ。つまらない逃げ腰で戦力を失うつもりはない」
………リーダーは俺をまだ、役に立たないなんて思っていない。俺を戦力の一部だと考えてくれている。俺にはまだ出来る事があるのか? 綾文功刀や久留間点滅を倒したように、まだ俺に戦う意思さえあれば何かの役に立つのか。
「無謀ですね、正しいようで正しくないですね。戦う力が無い者に、そんな『何かの役に立つかも』みたいな曖昧な感覚で戦場に連れ出すなんて、あなた方の方がよっぽど悪霊みたいですよ」
「曖昧じゃない、これは確信だ。橇引行弓を侮るなよ。お前達が思っている程に彼は貧弱じゃない」
面来染部の様子が変だ、なんかだんだん震えているというか、怒っているように感じる。自分の思い通りにいかなかったから……なんて話じゃないな。
「『彼』じゃない、『彼女』だ。貴様の部下ではなく、私の恋人だ。無力な彼女を彼これ以上戦闘に巻き込むというのなら、…………殺す」
面来染部がマスクとサングラスとニット帽を取った、何の意味があってこの暑い夏場にあんな恰好をしているのか分からないが。奴の顔は一度見たことがあ……あれ? 違う、たぶん同一人物なんだろうけど……あの時は……こんな顔じゃなかった。怖い、すぐにそう思った。恐怖で心が歪みそうになる。
綾文功刀は『痛み』、久留間点滅は『不満』、柵野栄助は『不都合』、全員が何かしらの理由で俺に向かて怒ったが、ここまで全身を押し潰すような恐怖は無かった。やっぱり俺は一番、こいつと相性が悪い。奴は愛を奪われそうになる『憤怒』である。こいつは本気だ、嘘なんかついてなかったんだ。だって取り乱し方が異常すぎる。
「皆、気を引き締めて……。来るぞ……」
目つきが鋭い訳でもない、口から牙が伸びているのでもない。全身から妖力を垂れ流しているのでもない。一般的な威嚇の構えなど、奴は一切していない。なのになんだ、この震え上がる……込み上げてくるような恐怖は。
「私が何年この瞬間を待ったと思っている。私がなんのために、こんな姿にまでなって生きていると思っている。私にとって柵野栄助など、どうでもいい。彼女に会えれば私はそれでいいんだ。ようやく手を伸ばせば届く距離まできたんだ。これ以上に私の幸せに邪魔をしないでくれ」