絶壁
タクシーから降りた俺を待っていたのは薄暗い満月が照らす夜空だった。もう深夜だったのか、時間の感覚が俺の中から消え去っていた。乗り込む時は頭の中が真っ白で何も視界に入って来なかった、俺も少しは落ち着いてきたのだろうか。
タクシーは駐車場に止めて貰った、出る前にリーダーが心配そうに何か喋っていたが、俺の耳に彼女に言葉は入らなかった。きっと俺を心配してくれているのだろうが、感謝の念が全く沸き立ってこない。俺の体はそれどころではなかったから。
吐き気が収まらない、頭痛が止まない。気分が悪い、心理的な絶壁が人間をここまで追い込むのか。
「大丈夫か、行弓君」
「だからコンビニで少しトイレを借りるだけですから。付いて来なくても大丈夫ですよ、車の中で待っていてください。五百機さん」
分かっている、彼女にだって立場と責任という物がある、リーダーが一緒にいる手前で片手間な動きはできないのだろう。護衛されているのだ、俺は。緑画高校の連中にいつ殺されてもおかしくないから。まあリーダーは俺を守る理由は分からないが、自分へのエゴだと思う。まだ私は人情のある人間だと思いたいだけ。
「そんな訳にはいかないよ、君はもう陰陽師の力を失っているのだから」
五百機さんが言い終わる前に俺は店の中に入った。もうそんな自分の確認はした、今更言われる筋合いはない。現状確認したってストレスが悪化する一方だ。何を考えた所で視界の先にある闇が濃くなるだけなのだ。これが『認識の甘さ』を克服した姿だというのならば、人間の世界という物は本当に残酷だと思う。
「女で悪霊か。もうこれは……どうしようもないな」
個室には幸い誰も入っていなく、俺は何の障害もなく中に入れた。男女共同であるから、まあ怪しまれる事はないだろう…………しまった、服……。桜色の着物のままだった。女性物の服か、気持ち悪いな。
「っぅ、ぅ、ぅ、ぅ」
個室に入った瞬間に吐き気が何故か収まった、やはり心理的な物が原因だったか。安全な場所だと分かった瞬間に脳が体を裏切る、あの現象だ。だから代わりに別の物が俺の体から溢れてきた。
「ぅ、くっそっ、ちくしょう……」
涙……。
自分の無力さへの憤怒と、決断力の甘さへの後悔。もう二度と取り戻せない大切な物。俺の体、俺の妖力、俺の友達。何もかも犠牲にしたのに、俺の手元には何一つ残っちゃいない。全てが無残にも跡形も無く消え去った。
「どうしてこんな事に……」
そう思って涙を袖で拭いた、もうどうしようもない。これが俺の選んだ道なのだから。取り戻すしかないんだ、泣いたって何も帰ってこない。