退化
俺は戦う事に対して考える事を止めた、もう少しでも何かを考えてしまったら、すぐさま逃げ出したくなってしまうからだ。漫画じゃあるまいし、頭を真っ白で勝てる勝負にすら勝てるなんか思えない。人間が頭を使わないで、戦うなんて事は絶対に出来ない。
って、思いたいのだが、今の場合の俺がそんな上等な事をしたら……全力で格納庫に逃げ出してしまいそうになるからだ。もう俺に退路は用意されていない、逃げる事は許されない、説得作戦も失敗に終わった。俺に後の残された自由はせいぜい……、虚勢を張る事と、意地を張る事だけだ。
「逃げない、俺は逃げない」
「けけ?」
遠くで追継の叫ぶ声がまだ聞こえる、だが俺の耳には目の前の悪霊が漏らす、笑い声の方が良く聞こえた。人間は自分の聞きたい事しか耳に入らない習性があると聞いていたのだが、恐怖を感じると都合の悪い音しか聞こえないんだな。
「けけけ、けっけっけ……」
一瞬で距離を詰められた、奴が動く事が目で確認できたのでおそらくただの高速移動だろうが。レベル3だった頃に溜めていた妖力だけは、体内にまだ残っているのだろうか。なら今の状態は、少しずつ妖力を体内から吐き出しているのかもしれない。俺にはどうだっていいことだがな。
奴に残された手段は無数にあるだろう、体力も妖力も有り余るほどだろう。だが、奴は今の俺と同じで思考という大切な物を失った。今の奴は単純かつ、俺にでも分かるように簡単だ。
「けけけ」
肩を掴まれそうになった、躱すなんて無駄な事はしない。俺は大人しく両肩を差し出した。奴は両手で同時に肩に触ると、ついに悪霊特融の長い黒髪で隠れていた本性を現した。先ほどの面影など一切ない、ただの悪霊だ。真っ赤に充血した完全に生気のない目、いつの間にか服も白い物に変わっている、爪の先が伸びて俺の肩から出血するのが分かった。
そして、笑った。捕食の笑みじゃない、殺人の快楽でもない。巻き添えが増える事に感じる得体の知れない安心感。人間の醜い性質がこれでもかというほど、この悪霊からにじみ出ていた。
「けけ?」
怖い……、この霊界のフィールドに来て一番怖かった、誰だって怖いだろう。目の前に正真正銘の悪霊がいたなら。特に俺は実践経験が薄い為に、実践馴れしていない。悪霊とここまで接近したのは、これが初めてだ。
そして、ここで俺の人生が終わるかもしれない。
「けけけけけけけけけ、け? たす……」
何だ、どうしたというのだ? 今のこの悪霊はなんと言った?
「けけけ、たす、けけけ、たすけ、け、助け……て…」
まだ完全に意識を失っていない、まさかまだ退化しようとしている体を、頭と心で抵抗しているのか。まだだ、綾文功刀は死んでいない、まだ戦っている。
「待っていろ、必ず助ける!!」