穏やかな日々(お題小説文字数制限なしバージョン)
沢木先生のお題に基づくお話です。
「トイレに行きたい」をお借りしました。
長年の夢だった娘が産まれた。
まさに目の中に入れても痛くない程可愛い。
入浴もオムツの交換も、妻が驚くくらいこなした。
「今までの亭主関白ぶりが嘘みたいね」
皮肉を言われても気にならなかった。
それだけ私は娘を育てる事にのめり込んだ。
娘は成長し、おぼつかないながらも歩けるようになった。
私は嬉しくなって娘を連れ出し、あちこちに行った。
もちろん、替えのオムツも着替えもミルクも持参してだ。
妻が嫉妬しているような気がしたが、構わなかった。
そんな育児三昧が何年か続き、娘は幼稚園に通うようになった。
親バカここに極まれりで、仕事の合間を見ては娘の様子を見に行った。
もう娘なしではいられないのだ。
その日は時間が空いたので、娘を迎えに行った。
家までの道すがら、娘は一生懸命その日あった事を話してくれる。
私は頷きながらそれを聞いた。
「トイレに行きたい」
娘が突然言い出した。
幼稚園に戻るのも家まで我慢させるのも可哀想に思った私は、目の前にある公園の公衆トイレに連れて行った。
「パパ、怖いよ」
涙ぐむ娘に言われるがまま、他に誰もいなかったので女子トイレに入った。
「そこで待っててね」
娘は目を潤ませ個室のドアを閉じた。
ああ。待っているさ。お前のためならいつまでもね。
こうしている間に誰か入って来たら嫌だな。
そう思った私は娘が入った隣の個室に隠れる事にした。
「パパは隣のトイレに入っているからね」
「うん」
私は娘の返事に安心してドアを開いた。
そして、腰を抜かした。
中で見知らぬ男が首を吊っていたのだ。
もう少しで叫んでしまうところだったが、何とか堪えた。
隣にいる娘を怯えさせてしまうからだ。
私は恐る恐るドアを閉じ、娘が入っている個室の前に行く。
「まだかい?」
声をかけたが、返事がない。
「どうした? 大丈夫か?」
いくら呼びかけても娘は何も言わない。胸騒ぎがしたのでドアをよじ登り、中を見た。
ところがそこには娘はいなかった。
「そんな……」
わけがわからなくなった。
「きゃああ! 痴漢!」
女性の叫び声に驚き、私はドアから転げ落ちてしまった。
「君、そこで何をしているんだ?」
女性の悲鳴を聞きつけたのか、制服警官が現れた。
「いや、その、えーと……」
私はパニックになり、言葉が出て来なくなってしまった。
しばらくして、私は駆けつけたパトカーに乗せられ、そのまま警察に連行された。
取調室で刑事に問い質されるうちに冷静さを取り戻した私は事情を説明した。
「それは現場でも警邏中の巡査が聞いている。しかし、トイレの個室にはお前の言うような幼児はいなかったし、首吊り死体もなかったぞ」
刑事の目が鋭さを増し、私を疑いの眼差しで見る。
「そんなはずはありません! あの公園から二百メートル程のところにある幼稚園に娘を迎えに行ってですね……」
私は汗まみれになりながら説明する。
「その幼稚園にも問い合わせたが、お前の娘は通園していないんだよ!」
もう一人の刑事が激しく机を叩いて怒鳴った。
「それだけじゃない。お前は娘がいるどころか、結婚もしていないだろう? どうも言動がおかしいな。シャブ食ってるのか?」
刑事が私の目を覗き込むように顔を近づけた。
「とんでもない。クスリなんかやってませんよ!」
私は大声で反論した。
「じゃあ、尿検査を受けてくれるな?」
「ええ。それで潔白が証明されるのなら、喜んで」
私は知らなかった。それが更なる恐怖への入口だとは。
お読みいただきありがとうございました。