その3
一日の授業が終了し、それぞれに帰り支度やら部活の準備を始めるクラスメイトたちを尻目に僕は手早く荷物をまとめて教室を後にする。
「に」
教室を出てすぐに僕を待っていたクロと合流し、そのまま連れ立って歩き始める。目的地は図書室だ。
「ソウヤは?」
「あいつは部活があるからね」
夏の大会まであまり日もない。軽薄そうに見えて、柔道に対しては一切の手を抜かないのが春日野宗也という男だ。大会の日には何か差し入れを持って行ってやるとしよう。
「に。ソウヤ、強い」
「そうだね」
「……シロ、強い?」
「うーん、宗也と比べられると困るかな。一応僕も護身術の心得はあるけど、倒すというよりは逃げるための使い方に重点を置いてるからね」
争い事に対する僕の戦術は、相手の目的を達成させないという事に重点を置く。相手が僕を倒したいのなら、僕は全力で逃げればいい。それで僕は負けないし、相手も勝てない。僕は負けなければいいのだから、それで十分勝ちとなる。我ながらなんとも後ろ向きだけれど。
「でも、逃げてばかりではどうにも出来ないという事もあるのではなくて?」
背後から声をかけられたので、僕とクロは同時に振り返り、
「静先輩」
「シズカ」
書類の束を抱えた静先輩を見つけた。その束は先輩の顔を隠しかねない高さまで積み重なっており、縛られているわけでもないそれがどうやって崩れないようにバランスを取っているのか甚だ疑問だった。
「なんですかその書類」
「ちょっと図書室まで運んで欲しいと頼まれてしまいましたの」
「あ、先輩も図書室へ行くんですか? なら半分持ちますよ」
言って、僕は先輩の抱える束から半分強を受け取る。結構重い。これの二倍量を抱えるとなると相当きついはずだが、先ほどまでの静先輩は特に辛そうでもなかった。
「ありがとうですわ。シロ君」
「いえいえ、ついでですから」
僕とクロに先輩を加えて、三人で図書室へ向けて歩き出す。時折すれ違う生徒全員が振り返ったり――主に僕を見て――ヒソヒソ話を始めるのが聞こえるが、面倒なので無視した。
幸い僕自身が新聞部なので、妙なネタですっぱ抜かれる心配もないだろう。
「ところでシロ君。調査は順調ですの?」
「ええ、まあ。飯島詩織には話を聞きました」
「そう。では、今から行くのは金井昌子のところですの?」
「はい。放課後は図書室にいるんですよね?」
今朝聞いた限りでは、この時間は図書室で司書教諭の手伝いをしているはずだ。向坂絵梨は今日学校には来ていないようだったので、春霞先生を後に回すとなれば必然的に金井昌子という事になる。
「そのはずですわ。あ、そうそう、向坂さんですけれど、先ほど見かけた方がいらっしゃったそうですわ」
「え? 何処でですか?」
「ちょうど図書室方面だそうですの。もしかしたら会えるかもしれませんわね」
静先輩の言う通り、ちょうど会えればそれに越した事はないが、実際のところは早々上手く行くものでもないだろうと僕は思っていた。
だから、図書室の近くまで来た時に前方から歩いてくるのが向坂絵梨だという事に気が付くのが遅れてしまった。
「あら? 向坂さんではありませんの?」
「え?」
静先輩の言葉で僕は立ち止まり、すぐそこで驚いたような表情をしている人が写真で見た向坂絵梨本人だと気が付いて僕も驚いた。
先を歩いていたクロも、ちょうど僕の目の前で立ち止まって向坂絵梨を見上げている。
「な、なんだ。朝霧か」
「ええ。……向坂さん、このようなところで何をしていらっしゃいますの?」
「……ふん。なんだっていいだろ。いちゃ悪いのかよ?」
最初の驚きからすぐに立ち直り、向坂絵梨――向坂先輩が不機嫌そうな顔で対応してくる。うん、どこか食堂の件とデジャブだ。この学校にはツンツンな女性が多いのだろうか。
制服の着くずし方といい、適度なアクセサリーといい、派手さと大人っぽさの同居する魅力的な風貌をしている。あと、静先輩に負けず劣らずスタイルがいい。
「いいえ。ただ、今日は登校されていないものだと思ってましたから」
「ま、教室には行ってないな。行く意味もないし」
「まあ。私には会いに来てくださらないのかしら」
どこか寂しそうな感じで静先輩が身をよじる。
「気色悪い事言ってんじゃないよ。あんたにゃそんな趣味無いだろうが。連絡してないのはこっちの用意が出来てないってだけさ」
そんな静先輩を見て、向坂先輩は吐き捨てるように言葉を返した。
ふむ。どうやら向坂先輩は静先輩に何事か依頼しているようだった。詳しい事は分からないが、先輩が新聞部の裏でなにかやっている事は知っている。それに関係する事だろう。
「そうですの? まあ、そちらは一通りの手はずは整えてますから、後はとても俗物的な問題だけですわね」
「……ちっ。分かってるよ。来週までには何とか出来る。それで文句はないだろう?」
痛いところを突かれたように向坂先輩が一瞬顔を歪ませたが、すぐにもとの不機嫌な表情に戻る。
「ええ。クラスメイトのよしみで一応サービスさせていただいてますわ」
「ふん。サービスねぇ。まあいいさ。それじゃあ、あたいは失礼するぜ」
向坂先輩がこれ以上話しはないというように話を切り上げてしまったので、僕はこの機会を逃してなるものかと口を開こうとして、
「あ、向坂さんあと少しよろしいかしら?」
「あん?」
しかし僕が何か言うよりも早く、静先輩が向坂先輩に話しかけ始めた。
「昨日亡くなった、二年生の奥山宏美さんという方を覚えてらして?」
「奥山? …………ああ、あのへんてこな女か。へぇ、昨日死んだのそいつなのか。いい気味だな」
先ほどまでの不機嫌さがまるで嘘のように、向坂先輩はいやらしい笑みを浮かべてニヤニヤとしている。
憎い相手が痛い目を見た時、ちょうどこんな表情になるだろうか。
「あら? ずいぶんと愉快そうな顔ですのね」
「そうかい? まあ、そうなんだろうな。あの女、変な言いがかりつけてしょ――……ああ、そう、変な言いがかりつけてあたいに食ってかかって来やがってさ」
今、先坂先輩が何か言いかけて飲み込んだ。文脈的に人の名前が続きそうな雰囲気だったと思う。
「挙句の果てには平手までくれたんだぜ? もう馬鹿らしくて鼻で笑って無視してやったけどな。そん時のあいつの惨めな顔は傑作だったぜ。後になってやっぱ殴っとくべきだったか持って思ったけど、死んじまったんなら別にいいや」
静先輩の言う通り、向坂先輩は愉快そうに、愉快でたまらないというような感じで、奥山宏美の死を嘲笑った。その姿に、僕は背筋がゾクリとなる。
「そっかそっか死んだか。うん、いいね。こう言っちゃなんだが、うん、手間が省けた」
「え?」
向坂先輩の言葉に、僕は思わず声を出す。すると、向坂先輩の視線が僕の方へ向き、わずかに目を見張ったような気がした。
まるで、今になってようやく僕の存在に気がついたみたいだった。
「朝霧、あんたの隣にいるのは誰だ?」
「私の後輩ですわ。シロ君、といいますの」
「シロ? なんか白を連想させる名前だねぇ。まあ、それはそれでありなのかもしれないけど」
じろじろと無遠慮に僕を上から下まで睨め付け、向坂先輩はふんと鼻を鳴らした。
どうにも不思議な感じだ。見られているのに見られていないというか、なんと言えばいいのだろう。
「あんまりこの件に深入りしない方が身の為だと思うぜ? お二人さん」
向坂先輩は静先輩にに向けてそんな脅迫めいた忠告をしてきた。途端、終始黙っていたクロがチリンと鈴を鳴らして首を傾げた。
彼女の後姿しか僕は見えないが、どうやらじっと向坂先輩を観察しているようだ。何か興味を引かれたのだろうか。
「さて、もう用はないよな? じゃあ、あたいは失礼するぜ」
ひらひらと手を振って、向坂先輩は歩き去る。
予定外ではあったが、捜すのにもっとも手間取るであろう人物と出会えたのは幸運だった。静先輩も一緒にいた事で必要以上の情報が手に入り、大きな収穫と言えるだろう。
「さて、私たちも参りましょうか。図書室はもうすぐそこですわ」
「そうですね」
僕は形が崩れかけてきた書類の束を持ち直し、少し進んだところで制服が引っ張られる感覚に足を止めた。
「シロ君?」
「あ、すいません。っと、クロ? どうしたんだ? 行くよ」
僕はいつの間にか制服の裾を掴んでいたクロに声をかけるが、彼女はじっと先坂先輩の歩き去った方へ目を向けたまま返事をしない。小さく嘆息しつつ、僕は再度呼びかけようとして、
「シズカ」
振り返らずに発せられたクロの言葉に、自分の声を飲み込んだ。
「何ですの?」
シズカ先輩が首を傾げてクロに答える。
クロはようやくゆっくりとこちらに振り返り、
「あの人間、面白い。すごく、面白い」
何か驚いたような表情のまま、嬉しそうな弾んだ声でそう言った。
僕もあまり見たことが無い類の表情だった。興奮している状態、なのだろうか。
「そうですの? 確かに普通の方とは違いますけれど……」
「に。絶対面白い。絶対」
そう言うと、クロは僕の制服から手を離してスキップするように廊下を進み始めた。チリンチリンと持ち主の感情を表すように、首元の銀鈴が音を奏でる。
僕と静先輩は顔を見合わせ、二人そろって首を傾げた。