その2
「――であるからして、ここの解はこのようになる。ここはテストに出すぞ。応用が利くようにしておけよ」
教師の言葉を受け、それまで何処となく締まりのない雰囲気に浸かっていた教室内から一斉にメモを取り始める音が聞こえ始める。
ちらりと時計を見れば、時刻はすでに十二時を少し回っていた。
この後の昼休みは一時間しかないが、放課後の予定を考えた場合、この時間を使ってある人物に話を聞きに行く必要があった。
その人物は昼休みは決まって一人で学食に行くという事なので、僕も今日はそちらへ行くつもりだ。弁当を忘れた事は不幸中の幸いかもしれない。
そんな事を考えているうちに予鈴が鳴り、
「よし、今日はここまで。復習しておけよ」
教師の言葉と共にガタガタと一斉に椅子を引いたり机を移動させたりする音が教室中を支配した。この一瞬の騒々しさはなんとも言い難い。
「シロ。今日は弁当ねえんだろ? 学食か?」
「うん。ちょっと話を聞きたい人も行ってるみたいだからね」
「そっか。んじゃ、行くか」
宗也と連れ立って教室を出る。廊下はすでに購買へ向かう生徒や学食へ向かう生徒で溢れていた。
「席空いてっかこれ?」
「さあね。ま、行ってみない事にはなんとも」
人の流れに沿って移動を開始し、目的地の食堂へと至る。券売機前にはすでに長蛇の列が出来ており、順番が回ってくるのは相当先になりそうだった。
参ったな。このままだと上手く会えるか分からないぞ。
食拳を買う事を放棄すれば今すぐにでも食堂内を探しにいけるが、物もなしでさりげなくお近づきになる事は難しい。
さてどうしたものかと思案していると、
「に。シロ」
いつの間にやら気配もなく、僕の隣にクロがわいていた。いつもの事なので特に驚きはしない。
「やあ、クロ」
「お、黒猫ちゃんじゃねーの」
「に。お腹減った」
クロがお腹を押さえて上目遣いにご飯を要求してくる。僕のお弁当が無いのだから当然クロのお弁当もない。
「分かったよ。列に横入りは駄目だけど、僕がクロの分も食券を買うから――」
僕は指で列の先頭に存在する食券の販売機を示し、
「――あそこに書いてあるメニューから好きなものを選んでおいで」
「……何でもいい?」
「うん。あ、日替わり定食ってのはその日その日で違うんだけど、確か今日は……秋刀魚定食だね」
「それ!」
ピーンとクロが全身を伸ばし、首の鈴がチリンと大きめに鳴る。本物のネコであれば尻尾が立っている状態だろうか。
「クロは本当に秋刀魚好きだね」
「秋刀魚、美味しい。秋刀魚、美味い」
「いや、それ意味同じじゃね?」
宗也の突っ込みを無視して、クロはその場で両手を広げてくるくると嬉しそうに回っている。
作り物の尻尾とプリーツスカートの裾がふわりふわりと浮かび上がり、ニーソックスとの間でのぞかせる絶対領域に周囲の男子の目が集中する。気持ちは分かるが、何か面白くない。
いや、これは使いようによっては時間が短縮できるかもしれないな。
「クロ」
「に?」
僕が呼びかけると、クロはピタリと動きを止め、すすっと近寄ってくる。
ちょいちょいと耳を貸せという合図を送ると、彼女は素直に顔を横に向けて耳を近づけてくる。
僕は周りに聞こえないようにクロにとある指示を与え、不思議そうな顔をする彼女に対して大きく頷いた。
「に。分かった」
クロが小さく頷き、再び嬉しそうにくるくると回り始める。
「おい。今何を言ったんだ?」
「見てれば分るよ」
怪訝な顔の宗也にそう答え、僕はちらりと周囲の男どもを観察する。
その視線の大半がクロに集中したところで、僕は軽くつま先を上げてタタンと二階床を叩く。
「に」
それを合図にクロは突然回るのをやめ、その小さな手でスカートを押さえつつ恥ずかしそうにもじもじしたかと思うと、
「……えっち」
とても澄んだ声でそう言った。
「ぐはっ!」
「ぐおおおお!」
「衛生兵! 衛生へぐふっ!」
「本部、本部応答せよ! こちらの被害は甚大だ! 野郎とんでもない隠し玉を持ってやがった!」
「俺、もう死んでもいい……」
「早まるな馬鹿! 手刀で刎死なんて漫画の世界だ!」
僕と宗也の前で順番待ちをしていた列の中から、大勢の男子生徒がその場で崩れ去ったり誰かに引きずられて避難していった。
クロ効果で約八割の男子生徒が脱落し、僕はそ知らぬ顔で誰もいなくなった空間を詰めていく。券売機はすでに目と鼻の先だ。
「クロ」
「に?」
再び呼びかけると、足元に転がる男どもを興味深そうに眺めていた彼女がテクテクと近づいてきた。
「よくやった」
「に。えらい? えらい?」
「うん。えらいえらい」
めざましい戦果をあげた彼女の労をねぎらう意味で、僕はポンポンと頭を叩いてやる。
そうこうしている内に、自分の番手が回ってきた。
購入するのはクロの日替わり定食と、学食ではまだマシな味といえるアジフライ定食だ。
「宗也は何にするか決め――」
券売機のボタンを押しつつ背後を振り返り、僕はそこに大柄な友人の姿が無い事に気がついた。
ふと遠くを見ると、未だに床に転がる男子生徒に混じって、宗也の大きな体もまた倒れ伏している事に気がついた。
……南無。
◆
カウンターで料理の載ったお盆を受け取り、僕はざっと食堂全体を見渡した。先の脱落者の影響で席には若干の余裕がある。
だが今は空席を捜しているわけではない。僕は空席ではなく人がいる場所を探して、すぐに目的の人物を発見した。
隅っこの四人席を一人で占有しているセミロングの女性。飯島詩織だ。呼び捨てはよくないから飯島先輩としておこう。
飯島先輩は遠めに見てもツンツンしたオーラがにじみ出ており、それによって彼女の周囲にはなんとなく近寄り難い雰囲気が形成されていた。
直接乗り込むのもいいが、出来ればファーストコンタクトはソフトな印象から入りたい。
「お……」
よくよく見れば、彼女が食べているのは日替わりの秋刀魚定食である。
ちょうどいいことに、こちらにも秋刀魚定食をじっと見つめるクロがいる。そんな僕が許可を出したらこの場で噛り付きそうな勢いの彼女に、
「クロ。僕はちょっと水を取ってくるから、あそこの女の人がいる席でここいいですかって言ってきてくれるかい? ちょっとこう、甘えるような感じで」
「に? に~……、に。分かった」
トトトッとクロが小走りに席へ向かって行く。
その背中を見送り、僕はしばらくその場で動向を観察する事にした。
クロはお盆を机の上に乗せ、飯島先輩に身振り手振りを交えて話しかける。ここいいですかの一言にどんな身振り手振りが必要なのかは彼女にしか分からない。
飯島先輩は突然珍妙な格好の女の子に話しかけられた事に唖然としていたが、次の瞬間には突然ツンツンした表情から柔和な笑みへと変わり、自分の隣の席を示してクロをそこに座らせた。
あれ? なんかイメージと大分違う反応だぞ。
クロは促がされるがままに席に着き、パンと両手を合わせて料理にお辞儀をして、箸を取らずに秋刀魚の尻尾を鷲掴みにした。そのまま上を向いて大きく口を開け、頭からもぐもぐと齧り始めてしまう。
相変わらず豪快な食べ方だ。若干隣の飯島先輩が引いている。まあ、ゴミが出ない食べ方なので環境にはいいのかもしれないが。
さて、ここでいつまでも見ているわけにはいかない。さりげなく僕も合流させていただくとしよう。
僕は二つの水を確保し、人を探しているふりをして目的場所の近くへ寄って行く。
「あ、シロ。こっちこっち」
計算通り、クロが僕を見つけてぶんぶんと手を振ってくる。
時同じくして僕に気がついた飯島先輩がとたんに不機嫌な表情になるが、こんな事で怯むわけにも行かない。
「ああ、えっと、うちのがご迷惑おかけしてませんか?」
出来る限り笑顔を浮かべて、僕は飯島先輩に話しかけた。そして堂々と料理の盆をテーブルに置き、椅子にも座ってしまう。
ここで座ってもいいですかとか、ご一緒してもよろしいですかとかとは聞かない。そんな事をしても断られるか失礼されてしまうに決まっている。
「いいえ。……この子、君の妹さんか何か? ずいぶんおかしな格好させてるようだけど、まさか――」
「ああ、いや、兄妹ってわけじゃないですよ。あとこの格好はこいつの趣味で僕は関係ありません」
「に。シロが買ってくれた。嬉しいからこれ好き」
「買ってくれたって、それじゃあやっぱり……」
飯島先輩が汚物を見るような目で僕を睨む。うわ怖い。なまじスタイルよさげで綺麗目なだけに怖い。
「買ってあげたのは確かですけど、選んだのは僕じゃないです」
「に。耳、可愛い。尻尾、面白い」
クロが帽子の耳と腰の尻尾をてしてしと触って飯島先輩に示す。その可愛さにあてられたのか、飯島先輩の表情が緩んだ。
なるほど。可愛い物好きな性格か。気持ちはよく分かる。
「あ、すみません自己紹介が遅れました。僕は一年の――」
「シロ」
僕の言葉に被せてクロが名前ではなくあだ名を言う。そして次に自分を指して、
「クロ」
「シロ君に、クロちゃん? おかしな組み合わせね」
ふふっと柔らかい笑みが飯島先輩の顔に浮かぶ。ツンツンした表情よりよっぽど魅力的だった。
「私は二年の飯島詩織よ。よろしくね」
「どうも」
「に」
クロをだしにして正解だったようだ。すんなりと席に納まった僕は、他愛のない雑談でしばし場を和ませる。こういうのはタイミングが重要だ。
それなりに食が進み、僕は飯島先輩の箸が鈍りだすタイミングを見計らって、
「あ、ところで飯島先輩。ちょっといいですか?」
本題を切り出した。
「何かしら?」
「うちのクラスの女子から聞いた話なんですけど、ほら、一年と二年の数学担当してる天夜先生いるじゃないですか」
僕がその名前を出した途端、飯島先輩の表情が凍りついた。僕はそれには気がつかない振りをして話を進めていく。
「なんかあの先生、いろんな女の子にちょっかい出してるって噂があるみたいなんですよ。それと関係あるのか分からないんですけど、昨日屋上から転落死した二年の先輩が天夜先生についてうちのクラスの女の子にわけの分からない質問したみたいなんですよね」
「そう、なの……」
飯島先輩は何かにおびえるように小刻みに震え、目があちらこちらへ泳いでいた。
怪しいにも程がある。
「それで、なんか同じような目にあってる人結構いるらしくて、先輩とか大丈夫でした? ほら、同じ学年ですし。何か――」
「知らないわ!」
僕の言葉をかき消すように、飯島先輩が大きな声を出す。
驚いた周囲の視線が一気に集中するが、僕が立ち上がってぺこりと頭を下げるとそれらの視線はすぐに霧散していく。
「……えっと、僕何か変な事というか、気に障る事を言っちゃいました? そうならすみません」
なまじ内容が分っているだけに、白々しくならないように注意して謝罪の言葉を口にする。
すると飯島先輩ははっと我に返り、
「え? ああ、えっと、ごめんなさい。別に怒ったわけじゃないの」
クロちゃんもごめんねと、飯島先輩は隣できょとんとしているクロにも謝っている。
なるほど。おそらく奥山宏美に問いただされた時もこんな反応を返したのだろう。これで何もなかったと思えというのは無理というものだ。
だがそれでも、本人の口を割らせるのは結構骨が折れるだろう。さてどうしたものかと思案していると、突然誰かの着メロが鳴り始めた。聞いた事のない曲だが、さして特徴がない曲なので記憶に残っていないだけかもしれない。
「あ」
音に反応して、飯島先輩が慌てて携帯電話を取り出す。ジャラジャラと多くのストラップやらキーホルダーが付いており、その中に黄色いデフォルメされた猫のキーホルダーが混じっていた。
「あ、うん。分かった。それじゃあね」
飯島先輩は電話を切ると、
「ごめん。ちょっと呼ばれたから失礼するね。ばいばいクロちゃん。また一緒にご飯食べようね」
「に。バイバイ」
自分のお盆を手に、飯島先輩がそそくさと席を立つ。彼女は食器の返却口にお盆を置くと、そのまま足早に食堂を出て行ってしまった。
最初の接触としては悪くは無かったと思う。ついでに、ちょっと気になる点も出てきた。それらも追々調査していく事になるだろう。
「さて、と」
僕は話すばかりでさして食べていなかった自分のアジフライ定食に箸を伸ばそうとして、メインのアジのフライが半分ほど噛み千切られていることに気が付いた。
すっと正面に視線を送ると、クロはぷいっと僕から顔を逸らす。しかしそのほっぺたが膨らみ、もくもくと何かを咀嚼しているのは丸分かりだった。
食い意地の張ってるやつめ。
「……ふう」
小さく溜息を吐き出し、僕は残り半分になったアジのフライを齧る。べちゃっとした食感の衣は、揚げられてから時間が経過している事を物語っていた。
だから学食は嫌いだ。揚げ物は揚げたてに限る。