その4
『えーっと、まずは君の名前を教えてもらえるかな?』
『あ、えと、はい。平野明海といいます』
スピーカーから聞こえてくる音声は実にクリアだった。そして画面に映し出されるとある部屋の映像。物品からして応接室かどこかだと思われるその部屋には、数名の警察官と一人の女子生徒がいる。
椅子に座ったスーツ姿の刑事――朝川さんだった――がペンとメモに何か書き込んでおり、対面居座る女子生徒は多少居心地悪そうに身じろぎをした。
つまりはそんな細かいところまで分かるほどに、画面に映し出された映像は鮮明であるという事になる。
「えっと、これ学校中に仕掛けてあるんですか?」
「そうですわ。校長室や職員室はもちろん、各所の空き教室や部室、トイレ・更衣室まで全部網羅してますわよ」
「ちょ、最後犯罪じゃないで――」
「シー。声が聞こえませんわ」
静先輩の柔らかな指で口を塞がれた僕は、釈然としないまま一先ず言葉を飲み込む事にした。
そうして静先輩の操作するパソコンの画面に目を向ける。
今いる場所は新聞部の部室だ。新聞部は部長である朝霧静先輩がほぼ単独で持っているような部で、必要最低限の構成員五名のうち三名はただの名義貸し幽霊部員である。
唯一の通常部員にして雑用係を任されているのが、何を隠そうこの僕だ。高校入学早々のとある事件で静先輩に目を付けられてからというもの、半ば強制的に新聞部に引き込まれてからはや数ヶ月。必要以上の機材や物品が存在するこの部屋は、何をするにしても拠点として申し分ない性能を誇る。
さすがに学校中に仕掛けられた盗撮カメラと盗聴器の大元締めである事までは知らなかったが。
「にふ」
チリンと軽やかな鈴の音が部室内に響いた。なぜか僕よりも先に来ていたクロがソファーの上で寝返りを打ったのだ。
先輩の話を聞く限り、クロは僕と分かれたあとまっすぐにこの場所へやって来ていたらしい。
目を閉じて眠っているように見えるが、あれで耳の神経だけはパソコンから聞こえる音声に向けられている。僕と違って映像を見るつもりがないためにソファーでくつろいでいるというわけだ。
『えーっと、それじゃあいくつか質問させてもらうんだけど、君は今日の午前七時頃に亡くなった奥山宏美さんが屋上から落下するところを見た。これで間違いはないんだよね?』
相手を緊張させないようにだろう。朝川さんが落ち着いた柔らかい声で平野にそんな質問を投げかけた。
それが功を奏したのか、はじめの内はずいぶんと緊張しているように見えた平野だが、話が進むにつれて硬さが取れ、時折深刻になり過ぎないように朝川さんが挟むおどけ話に笑みを見せるほどリラックスしている様子だった。
この辺りの相手を警戒させない朝川さんの聴取術は素直にすごいと思う。
『ふむふむ。了解了解。それじゃあ重ねてで申し訳ないんだけど、今日の出来事をもう一度話してくれるかな』
『あ、はい。分かりました。えっと、今日は朝の六時に学校に集まって――』
◆
早朝の町を、景気のいい掛け声と共に複数のジャージ姿の学生たちが列を成してかけていく。
部活の早朝練習の前には、こうして学校外を軽く一周して体を温めるのが荒神高校の伝統だった。軽いジョギングのようなものなので、朝のおしゃべりに花を咲かせる者達も多い。
平野明海も、そんな中の一人だった。
「ねえねえあけみっち、最近うちの学校に妙な噂が立ってるの知ってる?」
「噂?」
隣に並んで走る友人からそんな話を聞かされ、明海は首を傾げる。全く聞いた覚えが無いからだ。
「何? どんな噂なの?」
「それがね、どうにもうちの学校の屋上に、変な幽霊が出るって言うの」
「……幽霊?」
どんな噂なのかと期待した明海だが、幽霊と聞いて一気に興味が冷めてしまう。明海はそういった超常現象を一切信じていなかった。特に理由はない。
そんな感情がもろに顔に出たのだろう。隣の友人がやや焦ったように、
「いやいや本当なんだってば。なんかここ最近真夜中にどすんどすんって何かが落ちる音が聞こえるみたいなのよ。それで、気になった近所の人がうちの学校を外から見てたら――」
友人はそこで一度言葉を切り、ごくりとつばを飲み込む。
「――屋上から人影が落下したのを見ちゃったみたいなのよ」
「へえ?」
ありそうな展開に対して、明海は興味無さそうにそう返す。どうせなにかの見間違いだろうと、そう考えていた。
「でね、その人警察に通報して、現場を調べてもらったみたいなのよ」
なかなか思いきった事をする人だなと、明海は思った。もしも自分だったらそんな物は無視してしまうに違いない。
仮にそれが本当であったとしても、それは明海には何の関係もないのだから。気にする必要性を彼女は感じない。
「それで、本当に誰か落ちてたの?」
「……あー、ううん。何も見つからなかったんだってさ」
予想通りの答えが返ってきて、明海はふうと溜息を吐く。
「それじゃあ見間違いなんでしょ?」
「うーん、そういう事になっちゃったみたいなんだけどさ。その落ちる影と音を見たり聞いたりしてるのって一人だけじゃないんだよね」
「他にもいるの?」
「うん」
複数名に目撃されているとなると、幽霊云々はともかくとしても何かありそうな雰囲気ではある。
「それでね、どうも荒神高校の屋上には昔自殺した生徒の幽霊が今も居着いているんじゃないかって噂になってるの」
「ふーん……」
どうにも後付っぽい話だったが、友人が熱心に語るものだから、明海は最低限の相槌を打って友人と話を合わせた。
そうこうしている内に荒神高校へと戻ってくる。
練習の前に再度柔軟体操をして、いよいよ各自の競技へと意識を向けた。
明海は走り高飛びを選択している。小柄な彼女にはあまり向かない競技だが、好きなものは好きなのだから文句を言われても困るというのが本音だった。
みんなと協力して機材を設置し、順番に練習を開始する。
そのまま数回飛ぶことにチャレンジしたところで、
「おー、やってるねえ学生諸君」
どこかのんびりした声が聞こえてきて、明海はその声のした方へ顔を向ける。
「春霞先生」
「よっす」
明海の視線の先、グラウンドへ降りるための階段の中腹には、学校指定のジャージをきた春霞八重がいた。
明海よりもさらに十センチも低い身長の彼女は、その背に比例して顔立ちまでやたらと幼く感じる。
童顔であることに関しては明海も他人からよく指摘を受けるが、春霞八重のそれは超常現象を信じない明海をして、理解不能な存在といえた。
「平野、跳ぶ時に何考えてる?」
八重がテクテクと明海の方へ歩いてきながら、そんな質問を投げた。
「跳ぶ時、ですか。そうですね、バーを跳び越える自分をイメージしてます」
思い描くのはいつだって成功する自分自身。失敗を気にしながらでは成功するものも成功しない、というのが平野明海の信条だ。
「なるほどなるほど。それは確かにいい考えかただね」
うんうんと八重がその小さな両腕を組んで頷く。
明海はその可愛らしさに相手が先生であることも忘れ、思わずその頭を撫でたくなる。
「けど、どうせだったらもっと高くイメージしてみたらどう?」
「……高く、ですか?」
「そうそう」
八重は満足そうに頷き、ぴっと人差し指を立ててゆっくりと歩き始める。
「イメージってさ、限界を作るとそれ以上に出来ないのよ。だから、イメージには限界を設けちゃ駄目。高く跳びたいのなら――」
八重が立てていた人差し指をそのまますっと空へと掲げる。
明海はその指を目で追って、大空の蒼に出会った。
「空、綺麗ですね」
「うむ。どうせならこの青い空に飛び込む気持ちで跳んでみたらどう?」
「……そうですね」
明海は視線を空から八重に戻し、
「もしかして、先生って意外とロマンチスト?」
「意外とって何よ意外とって」
八重がふくれっ面になる。確か今年で三十になるという話だったが、それでこれはどうなのかと明海は思わず笑ってしまう。
そうしてもう一度空を見ようと視線を上に向けて、異変に気が付いた。
「あれ?」
この位置からだと斜めになった西校舎の屋上。何か一瞬黒い影が見えたと思った、次の瞬間――
「っ!」
明海は屋上から落下する制服姿の誰かを見て思わず息を呑んだ。それは音も無く落下し、植木の向こうに見えなくなった直後、どすん、と何か大きなものが落ちた音が聞こえてきた。
「ん? 何かしら今の音」
大きな音に反応して、八重がきょろきょろと周囲を見回している。
だが、明海は今見た時分の光景が信じられなかった。だがかろうじて、
「……ちた」
「え?」
「誰か、落ちた」
そんな言葉を発する事が出来た。
「え? 落ちたって……、っ! まさか――」
明海の視線から類推したのだろう。八重はすぐさま身を翻し、校舎を下の階から確認するように首を動かしている。
「平野! 落ちたのって屋上から!? 何処に落ちた!?」
校舎の窓が何処も開いていない事実からの発言だろう。八重が明海の両腕を掴んで揺さぶってくる。
「あ、えと――」
明海は改めて校舎の屋上を注視する。明海が影を見たあたり、その近くに最近壊れたばかりだというフェンスが見えた。
「多分、あの壊れたフェンスのところ」
すっと指をさす。八重がその先を視線で追って、弾かれた様に走り出した。
「あ、先――」
「消防に連絡して!」
思わずついて行こうとして、明海は八重の言葉に急停止する。
――そうだ、救急車!
とっさにポケットを漁って、明海は携帯電話をベンチの鞄に入れっぱなしだという事に気が付いた。
「明海、どうしたの? なんかさっき大きな音聞こえたあと八重先生が向こうに走って行っちゃったけど」
話しかけてきたのは、ランニングの時に噂の話をしてきた友人だった。その顔を見て、明海は先ほどの話を思い出す。
屋上から落ちる影と落下音。
今まさに彼女が見たものだ。だとすれば、これも何かの見間違いではないか。
そんな彼女のかすかな希望は、
「きゃああああっ!!」
遠くで聞こえる誰かの悲鳴によって打ち砕かれた。
◆
『これで私がお話出来る事は全部です』
『……なるほど。そうなるとやっぱりあの時間に奥山宏美が落下したのはほぼ間違いないわけか。うん。どうもありがとう。あんまり思い出したくも無い記憶だったと思うけど、協力感謝します』
『いえ。その、実は私そんなにショックでもないんですよ。死体を見ちゃったわけじゃないですし、あんまり現実感ないって言うか』
『そうかい? まあ、それならその方が良いと思うよ。とにかくありがとう』
その後いくつかのやり取りを経て、平野は室外へ出て行った。画面の中にはいまだ朝川さんの姿があるが、
「目撃者の証言はこれだけのようですわね」
少しつまらないというような感じで静先輩がポロリと言葉を漏らし、ディスプレイの電源を落としてしまった。
パソコン自体は起動したままだが、何かの拍子に画面を盗み見られないための予防措置のようなものだ。
「さてシロ君。今の証言で一つはっきりした事がありますわね」
「そうですね。平野の言う通り奥山宏美が真っ直ぐ下に落ちたというのなら、静先輩がこの場所から目撃していない事実と矛盾します」
元々、二十メートル程度の高さでは風などに流されて落下位置がずれる余地はほぼ無い。また、二階などから落ちたわけではない事は今の平野の証言からも明らかだ。奥山宏美は屋上から落ちた。これはほぼ確定的だろう。
そして落下した奥山宏美の死体が部室の窓と同じエックス軸上である以上、彼女の身体はその窓の外側を通ってコンクリートに打ち付けられたはずなのである。
同じ時刻に別々の場所にいた二人の人物。片方はグラウンド。もう片方は部室。それぞれに同じものを見てしかるべき二人は、しかしグラウンドにいた方だけが目撃者となった。それは何故だろうか。
「可能性は、二つ」
不意に、後ろから透き通るような声が聞こえて来た。僕と静先輩が振り返ると、そこにはいつの間にかソファーから立ち上がったクロがいて、目をパッチリと開いてこちらを眺めてきていた。
その様子を見て、僕はクロのスイッチが入った事を理解する。そしてそれを裏付けるように、
「一つは、落ちる瞬間を見たという人間が嘘吐き。見ていない物を見たと言っている。だからシズカと食い違う」
普段まともな会話をしないクロが、朗々とした口調で話し始める。覗き込めば吸い込まれそうになる翡翠の瞳は、僕には見えない何かを移しこんでいるようだった。
だが、今クロが言った可能性は正直言って低いと思う。平野の証言におかしなところはないし、奥山宏美がコンクリートに落下した音は大勢が耳にしている。
あくまで平野は唯一落下した瞬間を見たというだけで、屋上から奥山宏美が落ちたという事実に変化は無い。
そう思っていたのだが、続くクロの言葉によって僕は考えの一部を改める事になる。
「もう一つは、死んだ人間が落ちていない。その時間に落ちたのは死んだ人間じゃない。だからシズカはそれを見れなかった」
クロの語るもう一つの可能性。それは平野が目撃した奥山宏美はダミーであり、それ故に部室の窓の外を通るはずである奥山宏美の姿を静先輩が見ていないという事だ。
「……なるほどですわ。平野明海がグラウンドで目撃した奥山宏美が本人ではなくダミーなら、落とす場所はこの部室から見える位置ではなくても構いませんものね」
静先輩が口元に手を当て、じっくりと思考しながら言葉を紡ぐ。確かに先輩の言う通り、ダミーを落とすのであれば当然に死体と同じ場所には落とせない。必然的に先輩は落下する物を見る事が出来なくなるというわけだ。
「平野がいた東校舎前のグラウンドからだと、西校舎は斜めに見る事になります。ちょっとずれていたとしても壊れたフェンスを見ればそこから落ちたと誤認しても不思議ではないですね」
つまりはこういう事だ。奥山宏美は静先輩が部室に来た六時半以前にはすでに何ものかによって落下死させられていた。
そして犯人は奥山宏美の死を自殺と見せかけるために靴と遺書を屋上に置き、何らかの方法で誰に見咎められる事も無く七時直前にダミーを屋上から落とし、なおかつ春霞先生が駆けつけるよりも前にダミーを回収した。
「……えっと、これかなり無茶がありませんか?」
「そうですわね。先ほどの証言通りならダミーが落下してから奥山宏美の死体が発見されるまでの時間は二分から多くても三分はありませんわ」
静先輩の言う通り時間がわずかしかないとなれば、まず持って犯人は屋上にはいなかったと見るのが妥当だろう。下に落としたダミーの回収を考えると、屋上にいたのでは絶対に間に合わないからだ。
おそらくは下から引っ張るか何かで引き落としたと考えるのが自然だろう。この辺りは屋上を調べに行けばたぶん何かしらの痕跡があるはずだ。
「けれどそれでダミーを落としたとしても、人と同じ大きさのダミーをどうやって現場から持ち去ったのかしら。植木はそんなに高くありませんし、下手に立ち上がればグラウンドから見えてしまいますわ」
「そうですね。それにダミーの重さもそれなりにあったでしょうし、下から引き落としたのならそのための紐か何かもまとめて回収しないといけないはずです。そう考えるとちょっと時間的に厳しいですよね」
全ての行程を二分強でまとめきるとなると、相当に無茶だ。おそらく犯人の行動を考える上で何か見落としているか、もしくは足りないピースがある。
「クロ。他にはなに――もないのかな」
僕は今までの話の感想をクロに聞こうとして、彼女がすでに再びソファの住人になっている事に気が付いた。
おそらく彼女も先ほど述べた内容以上の事は分かっていないのだろう。また新たな発見があれば動きを見せるだろうが、現状ではこれ以上議論しても無意味と判断したようだ。
静先輩にしてもクロの態度からそういったことを察したようで、
「一先ずはこれまでのようですわね。……少し奥山宏美の近辺を調べて見ますわ。まとまり次第連絡しますわね」
「分かりました。あ、クロここに置いておいても大丈夫ですか?」
「構いませんわ」
「分かりました。それじゃあいったんこれで。クロ。大人しくしてるんだぞ」
僕の言葉にクロは軽く手を上げて答えると、また首の鈴を鳴らして寝返りを打った。その様子に軽く溜息を吐き出して、僕は新聞部の部室を後にした。




