その3
「――ってなわけでさ、なんかテレビに映るの禁止とか言ってやがるわけよ。うちの先生方が」
教室に入るなり僕はいきなり柔道家体型の男子生徒にヘッドロックをかけられた。筋肉質の腕にがっちりと頭を固定されたために息苦しい。
とはいえ、猫の甘噛みのように見せ掛けだけで手を抜かれているため痛くはない。痛くはないが、
「やめろ宗也。汗臭いしむさい」
「けっ。なーにがむさいだこの犯罪者め。タメの癖にあんな可愛い女の子囲ってるくせに。しかもあんな格好までさせて。羨ましいんだよこのリア充が」
「別に囲ってない。勝手に居着いてるだけだ。それとあの格好はあいつの趣味で、僕が着せてるわけじゃない」
弁解もむなしく、宗也はふんふんと鼻息荒く、ぐいぐい僕を締め続ける。が、しばらくして飽きたのだろう。ふっと解放され、僕は生臭い空気から一転、新鮮な空気を肺に取り込むことが出来た。
「あーあ。俺も可愛い彼女欲しいなぁ」
宗也が両手を後頭部に回して愚痴をこぼす。大人顔負けの堂々たる体躯で、肌は日に焼けて健康的な小麦色。短く刈り上げた黒髪は針金の様にツンツン立っていた。
顔立ちは同性の自分から見ても間違いなく格好いい部類に入るだろう。性格はややお調子者だが明るくさっぱりしていて、おまけに中学時代は柔道の全国大会で優勝したほどのスポーツマンとくれば異性からの人気は相当のはずなのだが。
「宗也。君、結構モテるはずだよね。柔道の大会とかで黄色い声援を浴びていたじゃないか」
「あー、なんつーか、俺ああいうちゃらちゃらしたの嫌いなんだよな。ミーハーってやつ? 俺の好みはもっと清楚で可憐な子とか、守ってあげたくなるような可愛い子なわけよ」
可憐と聞いて、僕はクロの事を思い出す。彼女は傍目に見れば可憐と言えなくもないだろう。線は細い方だし、小柄で身長も高くない。
ただ、その本質を知る身からすれば彼女はただ愛でられる花とはわけが違うのだが。
「まあ、女の子の話は置いておいて、そうなると結局宗也はテレビには映れなかったわけ?」
「いや? 普通にバッチリ映ってたと思うぜ? でも、ちょうど放送の合間だったんだよな。んで、そうこうしている内に春ちゃんがすっ飛んできて、背負い投げ一本それまでってな」
「……春霞先生相変わらず容赦ないな。さすが元五輪女子柔道金メダリスト」
僕は百五十センチという武道において恵まれない身長ながら、小さな竜巻の異名を持つ体育教師を思い浮かべる。体育の種目選択で先生の容姿にだまされて柔道を選択してしまった者は、その実力を知って恐れるかファンになるかの二極化をたどるのだ。
僕と宗也は先生の実力を知った上で柔道を選択したのでまだいいが、何も知らずに先生に舐めた態度を取った生徒の末路は――いや、やめておこう。
そんな事よりも、もっと気になることがある。
「テレビの件はそれとして、それなりに早く来たんなら何が起こったかは把握しているのかい?」
自分はもうすでに捜査資料や現場を見て来ているのだが、それはそれとして一般的にどういった話が流布されているのかに興味があったのだ。
「ん? おお。まあニュースで言ってたことにちょこっと付け加えるくらいだけどな」
宗也がその太い腕を組んで、記憶を探るように視線を斜め上に向けた。
「えーとだ、まあ簡単に箇条書き、っつーか箇条言い? するぞ。まず死んだのは一個先輩の女の人。名前は奥山宏美。事件発生は七時ちょっと前。屋上から落ちた、っつーか身投げしたらしいな」
「やっぱり自殺なのかい?」
「今のところその線が有力みたいだぞ。朝練で学校にいた奴が落ちる瞬間を見たって話だし、屋上には遺書と靴があったらしいしな」
宗也の語る内容はどれも目新しいものではなかった。事件発生から三時間も経っていない間に出回った噂としてはいささか事細かくはあるが、引っ掛かりを覚えるほどでもない。
ただ、唯一気になった事があるとするならそれは――
「そうそう。その目撃者ってのがなんとうちのクラスの平野明海なんだよなこれが」
「平野さんが?」
宗也に言われて、僕は騒がしい教室内に小柄な少女の存在が欠落している事に気が付いた。
「今さっき先生に呼ばれてどっか行っちまったから、事情聴取でもするんじゃねえのか?」
「多分そうだろうね。っと、先輩に連絡しておくか」
僕は携帯を取り出すと、平野明海が目撃者であるという事実をメールで先輩に送信した。特に返信は無いが、僕からのメールが届いた時点ですぐに行動を開始するはずなので、事の顛末は後でまとめて聞けばいい。
「なんだよ。やっぱ朝霧先輩ももう首を突っ込んでるのか?」
「首どころか全身向こう側だよ。今朝だって現場見てきたしね。朝礼どころか一限が自習になるって分かってたらもっとじっくり調べてたよ」
とはいえ、素人の僕らが現場を調べても科学的な捜査は出来ないので、調べるにしても捜査資料を読み込む程度だろうけど。
「ふうん? そんな感じだと今回のこれは自殺じゃない可能性の方が高いんだろうな」
「警察がどう見るか知らないけど、少なくとも僕はそう思ってるよ」
僕がこの事件を自殺ではないと考える理由の一つは、あの現場が自殺には不向き過ぎるせいだ。
確かに奥山宏美が落下したと見られる場所はちょうど屋上のフェンスが壊れている位置で、簡単にフェンスの外へ出る事が出来た場所だ。
だがあそこから飛び降りて確実に死ぬためには、幅がわずか二メートル程度のコンクリートに落ちる必要がある。
マンションなどから落下しても土や植木に落ちて命が助かったという事例が数多い事を考えれば、あの場所で自殺を考えるメリットが何一つない。
はたして、そんな死に損なう可能性の高い場所で自殺をしようとするだろうか。失敗すればとんでもない苦痛を味わう事を考えれば、自殺を考える人間はより確実な死を望むはずである。
「その意見で言うなら、確かに校舎の反対側の教職員用駐車場にでも飛び降りた方が確実だな。あっちは全面舗装されてただろ?」
「僕もそう思うよ。回るのがちょっと面倒だけど、確実に死のうと思うならそっちの方がいい」
それに、朝方は日が当たらずに薄暗い西校舎とはいえ、グラウンドに面する側から飛び降りようとすればそこにいるだけで誰かに見咎められる可能性は高い。
よしんば誰かに見つけてもらいたいという心境であったのなら、早朝の人気の少ない時間にそれを行うのは不自然だ。
「不自然って言やあ、シロの言う通りこれが自殺じゃないんだとして、犯人は何でそんな面倒な場所から人を落としたんだ? 自分だって見つかるかもしれないだろうに」
「そこは僕も気になってるよ。人目を避ける事を考えれば、あの場所から落とす意味がまるで無いしね」
だから、むしろ人目につかせたかったという可能性が高いと僕は思っていた。犯人が誰であるにせよ、奥山宏美があの時間に屋上から転落したという事実を誰かに見られる事が重要だったのではないだろうか。
ただ、これには一つ大きな謎が残る。それは静先輩が何も見ていないという事実だ。
まかり間違っても先輩が嘘を言っているはずもないだろうし、そうなると屋上から落とした人間をどうやって消し去ったのかがまるで分からない。
「何だそれ? 奥山宏美って人は実は透明人間でしたってか?」
「そんなわけあるか。だいたい透明だったら平野が目撃出来ないだろ」
「そりゃそうか。むしろ透明ってんなら目立つ場所から人を落としておいて目撃されていないっぽい犯人の方だよな」
彼らしくおどけて見せた宗也だが、僕も犯人が目撃されていない事には疑問を禁じ得ない。
機材の片付けなどの考えて、陸上部は東校舎前のグラウンドで早朝練習を行っていたと思われる。必然的に現場となった西校舎を斜めに見る事になるが、そうする事で下手に正面から見るよりも屋上の様子を広範囲に渡って視認で来たはずだ。
実際に平野明海は落下する奥山宏美を見ており、その時にはもちろん屋上も視界に入っているはずだ。しかし、屋上に誰かがいたという類の話は今のところまったく出て来ていない。
生きた人間を屋上から落とすのだから、そのためには絶対に屋上の縁の近くに行かなければならない。しかもわずか二メートルの範囲を狙って落とすとなれば、相当に上手く狙いを付けなければ失敗する可能性が高い。
突き飛ばすにしても力加減を間違えれば土の上に落ちてしまうだろうし、何か長いもので突き落とそうにもかわされたら騒がれて面倒な事になる。
昏倒させるのならその心配も無いが、昏倒した人間を落とすのに下から見咎められないはずが無い。それこそまさに透明人間でもなければ、今までの話を聞く限り誰にも見られずに奥山宏美を屋上から落とすのは不可能に近いだろう。
「っても、現場検証もまだ完全には終わってないんだろ? 何か出てくればもう少し考えも煮詰まるんじゃないか?」
「……君からそういう指摘が出るのは珍しいよね。どう見ても肉体派なのにさ」
「ふん。俺ってやつは文武両道だからな」
「普通の文武両道はどちらもトップクラスって意味だと思うけどね。宗也。君って確か文の成績は中の下くらいだよね?」
「そういうお前は文の成績も武の成績も中の上くらいじゃないか」
「僕は自分を文武両道だとは思ってないさ。文にしても武にしても、僕は今の通り中途半端だよ」
僕は天才という人種を知っている。あれは人の理解をはるかに超えた、もはや別種族といっても良いような存在だ。宗也のような武の秀才とも、静先輩のような文の鬼才とも違う。
天才とは人に認められるものではない。人に認められる天才など、本物の天才に比べれば凡才となんら変わる事はない。
そう。理解出来ないから天才なのだ。そう括る事しか出来ないものこそが――
「お?」
不意に聞こえて来た引き戸のスライド音に反応して、宗也が声を出した。僕もまた音のした方へ顔を向け、開かれた戸へと意識を集中する。
突然の出来事に騒がしかった教室内がしんと静まり返り、わずかな息遣いが大げさなほどに聞こえて来るほどだった。
そんな痛いほどの沈黙を作り出した人物は、教室へ足を踏み入れるなり全ての視線を一身に集める事になったが、それを涼風ほどにも感じず、動作に微塵の揺らぎすら見せずに王の凱旋のような堂々とした態度で教室の中を進んで行く。
歩を進めるたびにゆれる長い黒髪。伸びた前髪によって目線が隠され、その表情をうかがい知る事は出来ない。
そうして僕の目の前までやって来たのは、ついさっきメールを送った相手――静先輩だった。
「シロ君。ちょっと付き合いなさいな」
「えっと、どこにですか?」
「問答している暇はありませんのよ」
「え、あ、ちょ――」
有無を言わさず僕の腕を取った静先輩は、その細身の身体のどこにそんな力があるのか首を傾げたくなる勢いで僕を連行し始めた。腕に抱き疲れたような形になっているため、先輩のとても女性的で柔らかい物が腕に当たって僕の心臓の鼓動が早くなって行く。
「あ、朝霧先輩。俺もついていっていいっすか?」
背後から取り残された形になった宗也の声が聞こえて来た。
そんな彼に対し静先輩は肩越しに顔だけ振り返って、
「駄目ですわ。私、シロ君と二人っきりがいいんですの」
短くそれだけ行って僕を連行する力を強めた。どうやら真面目に急いでいるらしいと分かった僕は、
「静先輩分かりましたからそんなに引っ張らなくても大丈夫ですって」
いつまでも煩悩に抗うのも面倒なので静先輩の拘束から逃れた。先輩は少しだけ口を尖らせて見せたが、
「そう。それじゃあついて来なさい」
ただ身体の向きを変えただけだというのに、見る者をして惚れ惚れさせる動作で踵を返すと、先導するように歩を進め始めた。
僕は小さく溜息を吐き、後ろでぽりぽりと頬を書いている宗也に動作で謝るってからすぐに静先輩の後を追った。
教室から出るときに色々とひそひそ声が聞こえてきたが、僕は努めて無視して後ろ手に戸を閉め、そんな有象無象の声を遮断する。