その3
「ぐっ……」
わずかなうめき声を上げただけの金井昌子は謎の影に覆い被さられるようにして屋上へ仰向けに倒れこみ、派手に後頭部を打ち付ける。正直かなり危険な倒れ方だった。
だがその様子を目の当たりにした春霞先生は携帯を耳に当てたまま動かず、そうこうしている内に金井昌子に覆い被さっていた影――振り乱した髪をした女子生徒が身体を起こし、両手を高々と掲げる。その手の中に夕日の橙光を反射する何かが握られている事を僕が確認出来た瞬間、それは渾身の勢いで倒れたまま動かない金井昌子の腹部に吸い込まれた。
音らしい音はなかった。刺された金井も意識がないのかそれともすでに蝋燭の火が消えていたのか分からないが、声らしい声を上げる事はなかった。
だからその光景は、一人の女が嬉々とした表情で馬乗りになった相手の腹部を切り裂いていく様は、どこか作り物めいた無声映画のように見えた。そして、かえってそれがゾクゾクするほどに生々しい。
「赤ちゃん……赤ちゃん……私の赤ちゃんはどこ……?」
ぶつぶつとそんな声が聞こえて来た段になって、僕は金井昌子に馬乗りになって割腹手術を行っているのが飯島詩織である事に気が付いた。
なぜ彼女がこの場にいて、どうしていないはずの赤ん坊を求めて金井昌子の腹を割いているのか分からない。だが、その行為は狂気でありながら切実な思いの溢れたもので、凄惨でありながら哀憐ですらあった。
「いるって……ここに……ここにいるって……ここにいる……ああああああああっ!」
屋上に盛大にして人の臓物というグロテスクなもので埋め尽くされた血溜まりを作り出していた飯島詩織が、突然その赤黒い血に染まった手を空に伸ばして叫び始めた。
どうやら目的の物が見つからなかったようだが、つまりそれは金井昌子の中にそれがいなかったという事に――
「あ……」
不意に、僕は先ほどクロが妙な事を言っていたのを思い出した。そうしてすぐさま顔を右へ向けるのだが、僕の腕に絡み付いていたはずの彼女がいなくなっている。
どこへ行ったのかと首をめぐらせると、
「……に」
「そこか」
クロは僕の背後にこそこそと潜んでいた。まるで僕の影に寄生しているかのような隠密さだ。
「クロ。さっき『いない』って言ったよね。それってもしかして金井昌子の赤ちゃんの事?」
「に」
僕の問いに、クロはコクリと頷いてきた。
やはりそうだ。彼女はもうすでに中絶手術を受けていたのだろう。だからお腹の中に何も、誰もいないのだ。
「に~……。シロ。ウソつく、ダメ?」
「うん?」
どこかしょんぼりした様子で、クロが上目遣いにそんな事を言ってきた。
そう言えばよく家で嘘をつくのは駄目だとクロに言っていたような気がする。他人が聞けば僕がどの口でと思われるだろうが、こういう事は自分は自分の他人は他人で構わないと思う。人に物事の是非を問うというのはそういう事だからだ。それが嫌なら自分で考えるといい。
「まあ嘘をつくのは駄目だけど、クロ何か嘘をついたの?」
僕の問い返しに、クロは全力で首を振った。そうしてやや焦り気味に、
「えっと、えっと、赤ちゃんどこって聞かれた。今日屋上に来るって知ってたから教えた。でも赤ちゃんいなくなってた。クロ、ウソつき……?」
「……なるほど」
話が見えた。つまりクロはどこかで飯島詩織に赤ん坊の所在を聞かれて、自分が知っているそれの居場所を教えたのだろう。クロも今日のこの時間に金井昌子をここに呼び出している事は知っていたのだから、それを飯島詩織に伝えれば今の状況に至ったというわけだ。
「ううん。教えたのここに赤ちゃんいる事だけ。誰の中にいるとは言ってない」
「え?」
それはおかしい話だった。いくら飯島詩織がちょっと壊れているとはいえ、いきなり対面した相手の腹を掻っ捌いて確認するなどという凶行に走るはずがない。
いや、それ以前にクロの話を聞いてここに来たのだとすれば、彼女はずいぶんと前から扉の前にいたのではないだろうか。だとすればなぜすぐにでも屋上へ出てこなかったのだろう。これではまるで最初から金井昌子へ狙いを絞って待ち伏せていたみたいじゃないか。
そんな考えが頭をよぎった時、僕の耳は硬質な何かがコンクリートの上に落ちた音を捉えた。
音のした方向。いまだ叫び声を上げている飯島詩織の傍には携帯を落としたまま両手をだらんとさせている春霞先生の後姿が見える。
ショッキングな状況が続いたというのにまるで反応がなかったせいで意識から外れていたが、そういえばこの場にはこの人がいた。
だが、その様子がおかしい。ふらふらと今にも倒れてしまいそうで、まるで足元がおぼついていない。今さっきまで僕と話していた時のような力強さも迫力も全くなくなっているのだ。
何だ?
僕がその様子を不審に思った次の瞬間だった。
「くひっ」
「お……?」
僕と春霞先生の目が合った。けれど先生の身体はまだ前を向いて、つまり僕に背中を向けたままだ。だというのに、なぜか頭だけが百八十度回転してこちらを向いている。
人体に絶対に無理な稼動範囲ではないが、そんな宴会芸にしか使えないような特技を春霞先生が覚えているという話を聞いた事などないし、何より瞳孔が開ききっている上に口からよだれを垂れ流すアレが春霞先生だと認識するのを生理的に脳が拒否したために思考が停止してしまった。
「ひひひひひっ!」
すると、今度は首をそのままに身体を百八十度回転させてきた春霞先生が奇声を発しながらこちらへ突っ込んできた。柔道どころか短距離でも金メダリスト間違いなしと思えるほどに異常な速度の飛び出しで、思考が停止していた僕には当然それを避ける術などあろうはずもなく伸ばされた小さな手が僕の顔面を――
「にっ!」
「ひがっ!」
掴もうとした瞬間、春霞先生の顎が下から突き上げてきた槍のようなつま先によって蹴り上げられ、小柄な彼女の身体は見事に宙を舞った。
そして先生を蹴り上げた黒いオーバーニーソックスに包まれた白い足は風切り音を立たせて旋回し、次の瞬間には手品のようにしっかりと屋上の床を掴んでいた。
「フーッ!」
獣のように両手両足を床についたクロが、本物のネコのような威嚇の声を上げる。
ちょうど真後ろから見る僕にはばっちり彼女のスカートの中が丸見えになっているわけなんだけど、今は強烈に後ろ髪を惹かれるその光景よりも先に確認しなければならない事がある。
「ひひっ。ひっははははは!」
顎を蹴り抜かれて宙を舞ったというのに、春霞先生であるはずの何かは堪えた様子もなく跳ね起きてきた。たとえ鍛えられたアスリートであっても、クロの手加減なしの一撃を受けて無事で済むはずがない。
しかし現にそれを耐え切ったという事と、直前の異常行動から類推して僕の中で一つの答えを導き出している。おそらくこれは朝霧先輩にとって有益な材料になるはずだ。
「クロ。殺さないでアレを行動不能に出来るかい?」
「に。簡単」
「よし。それじゃあ――遊んでおいで」
「にっ!」
僕の許可を受けて、クロが黒き獣となって暴走している春霞先生に襲い掛かった。
「ひひっ!」
真っ向から襲い来るクロを、春霞先生は当然の如く迎撃しようと手を伸ばすのだが――
「ひっ?」
眼前のそれに伸ばされた手は霞を掴もうとしたかのごとく空を切り、そこにいたはずのクロの姿も煙のように消え失せた。
なぜならそれはただの残像。本物はすでに相手の側面に回り込み、不用意に伸ばされた腕の関節に狙いをつけて強烈な一撃が叩きこんでいた。
肉体の内部から聞こえる骨の砕ける鈍い音が二回。
先の攻撃でクロは相手の右腕を圧し折るだけではなく、ほぼ同時に右膝も蹴り砕いて半身を使い物にならなくさせていた。
「ひひひひいひいひ」
屋上に這いつくばるように倒れた状態で、しかし春霞先生は残る左腕と左足だけでしつこくじたばたもがいていた。
「に」
その様子をどう取ったのがわからないが、クロはテクテクと相手の左半身側に回りこむと躊躇なく動き続ける左足の膝と左肩を踏みつけて骨を砕いた。そうして春霞先生の動きがナメクジ並みに鈍くなったのを確認して満足げに頷くと、満面の笑みで僕のところへ帰ってきた。
「お疲れ様」
クロの働きを労う意味でいつもより長く丁寧に頭を撫でてやると、彼女はそのまま僕の胸元にすりすりと頭をこすり付けてきた。
ご機嫌な時の仕草だ。久しぶりに発散出来たのが大きいのだろう。まさか近所の野良猫相手にここまでは出来ないのだから。
「っと……」
いつまでも和んでいられない。ずいぶんとおかしな状況になってしまったが、一先ず静先輩に連絡を入れた方がいいだろう。
僕は携帯を取り出してアドレス帳から静先輩の番号を検索入力しようとして、
「おっとと」
まさにかけようとした相手からの着信があったため、これ幸いとそのまま通話ボタンを押す。
「はい」
『一先ず決着はついたようですわね』
「ええまあ。って、何でこんなにピンポイントで分かるんですか? もしかしてずっとどこかで見てました?」
連絡を寄越してくるにはタイミングが良過ぎる。僕は思わずきょろきょろと周囲を見回すが、どこか遠くの高い建物から望遠鏡でも使われているのなら、僕の肉眼で見えようはずもない。
『いいえ。見てはいませんわ。私は聞いていただけですもの』
カタカタとキーボードを叩くような音とともに、静先輩のそんな言葉が聞こえてくる。そして、その言葉を受けて僕は自分のポケットに入っている物を思い出して軽く息を飲んだ。
『正解ですわ。それは盗聴器も兼ねてますの。レコーダーとは別電源仕様だから、昨日のシロ君が部屋で何をしていたのかもばっちり収録済みですわよ?』
「後輩相手にストーカーみたいな事しないで下さい!」
なるほど。リアルタイムで話を聞いていたのならタイミングが計れてもなんら不思議ではない。となれば、静先輩の事だから後処理の手はずは整っていると見ていいだろう。
僕らは面倒な事になる前に早々にこの場を立ち去るべきだ。
『そうですわね。春霞八重の身柄は朝霧家で確保しますわ。金井昌子の死体はそのままとして、飯島詩織は今処理してしまいますわ』
「分かりました。それじゃあ僕とクロは――え? 処理って一体なんの――」
『それじゃあまた後で、ですわ』
タン、と軽快な打鍵音が聞こえて来た直後に通話が終了し、もの悲しいツーツー音が僕の携帯から聞こえ出す。と同時に、いまだ笑い続ける春霞先生の声と飯島詩織の叫び以外に耳を震わせる物がなかった屋上に、またあの聞き覚えがあるのにまるで思い出せない着メロが響き渡った。
音の発生源はどうやら飯島詩織の携帯であったらしい。叫ぶのをやめた彼女は握っていたナイフを放り出して携帯に耳を当てている。わずか十数分の間にどれだけ年を取ってしまったのかというほどに変わり果てた彼女だったが、携帯から聞こえる何かを聞いているうちに見る見る表情に活力が戻って行き、最後は目に涙を浮かべて嗚咽を漏らし始めた。
わけが分からない。彼女は今さっきまで幽鬼のような表情で一人の女子生徒を解体しつつ叫んでいたのである。それがなぜ今は感涙にむせぶ少女になっているのだろうか。
あの携帯から何が聞こえているんだ?
変化のきっかけは明らかにあの携帯だ。あれを聞いて飯島詩織に劇的な変化が起こったわけで、関係が無いはずがない。
「……に?」
僕と同じように飯島詩織を眺めていたクロが不思議そうに首を傾げた。けれど、なぜか彼女はうずうずと何かを期待しているかのようにそわそわしている。
その期待に、僕は人間の本能として言い様も無い程の戦慄を感じ取った。全身が粟立つ感覚というのはこういう事を言うのだろうか。心臓の鼓動がありえないほど強く感じられ、全身が一気に熱を帯びて汗腺という汗腺から汗を噴き出す。
カツン、と飯島詩織が携帯を取り落とした。いや、それはまるでもう不要になったから捨てるとでもいうような感じだった。
そうして彼女はすっきりとした表情のまま立ち上がり、自らが撒き散らした金井昌子の臓物を踏みつけながらしっかりした足取りで歩いてくる。
いや、彼女の向かう先は正確には僕とクロのいる場所ではない。
いまだ壊れたまま、誰でも乗り越える事の出来る死線を備えた場所。彼女はそこを目指して歩いて行く。
塞がれたベニヤ板をバキバキと圧し折り、その際にとげが刺さろうが肌を切ろうがお構い無しだ。すでに参加して黒くなった他人の血の上から自分の赤を塗り直し、まるで化粧のように飯島詩織はそれを自分の唇に塗り付けている。
そうやって彼女は縁の上に立ち上がると、くるりと振り返って僕とクロを見た。
彼女の目は、もう狂気に染まってなどいなかった。どこまでも純粋で、どこまでも澄んだ目をしていた。
「……バイバイ」
「あ……」
最後ににっこりと笑って、飯島詩織は笑顔のまま背後に倒れて行き、僕の視界から姿を消した。すぐに鈍い音が風に乗って聞こえてきて、彼女の死を僕に伝えてくれる。
「に」
たたたっと急にクロが駆け出し、ひょいと屋上の縁から下を覗き込んだ。しばらくそうしていたかと思うと、彼女はぱっとその場を離れ、うつむいたまま僕のところへ戻って来て体当たりをするように飛びついてきた。
軽く息が詰まったが、様子が変だったのでしかるのは保留にして何があったのかを尋ねてみた。すると、
「最高」
「っ!」
顔を上げたクロの表情。恋する乙女のように染められた頬。とろんと緩められた翡翠の目。恍惚を覚えているかのような甘い吐息。ゾクゾクした快感を身の内に押さえ込もうと小刻みに震える熱い身体。
その全てが僕の骨の髄まで痺れさせて行く。
壊したい。無茶苦茶にしたい。犯したい。貪りたい。喰らいたい。
どす黒い欲求が僕の中で膨れ上がる。だが、その感情に身を委ねなどしない。激流のごとき感情は、その流れに乗るのではなく抗う事に意味がある。
だから、僕はこの感情に晒されるのが嫌いじゃない。
それが僕がクロの望みを叶える最大の理由。彼女の笑みを見る事で生まれるこの感覚。麻薬のように甘美な一瞬。そのためだけに、僕はいる。