その2
「お前が包丁で手を切るってのも珍しいよな」
「そうだね。家の包丁は自分で研いでるから切れ味がいいのであって、手入れされてない学校の包丁が全く切れない物だって事を失念してたよ」
言って、僕はハンカチを押し当てて止血している自分の左手をみた。傷はそれほど深くはないが、手元を誤って広く切ってしまっているために結構な血が出てしまった。
とりあえず消毒をという事で、ちょうど授業に飽きていた宗也に付き添われながら保健室へ向かっている最中である。
「クロにアジの三枚卸食べさせてあげるつもりだったんだけどね」
「魚じゃなくて危うくシロの手が三枚卸になりかけたもんな」
「いや、さすがにそこまで盛大に切ってないよ。たくさん血が出たように見えたのは広く切ったからで――」
「どういう事なんですか!?」
そんなヒステリックな女の人の叫びが廊下に響き渡って、突然の事に僕と宗也は顔を見合わせてしまった。
声の発生源は今まさに向かおうとしている保健室だ。ぴったりと締められた扉越しにあれだけはっきり聞こえるとなると、相当声を張り上げていたに違いない。
僕と宗也は一瞬その場で棒立ちになるが、ややあってからもう一度顔を見合わせてそろりそろりと足音を忍ばせつつ保健室へ接近する。
すると、
「ちょっと――いて――さん。何があっ――いけど、だって――って――に出てるのよ?」
「――なだって……先生がいるって――すよ? 私の――中に――んがいるって……」
断片的にだが中で誰かが話しているのが聞こえて来た。
片方は保健の先生として、もう一人は誰だろうか。会話の内容からしておそらく生徒なのだろうが、名前の部分が見事に聞き取れないために誰だか分からない。
僕は宗也と目で合図し合って、そのまま中の会話に耳を澄ませる事にした。
「いいかしら飯――ん。思春期の――にはちゃんとし――ういう事をして、結果と――てしまう子もたくさん――わ。でも、それ――らい妊――思い込む想像――いるの」
「――……妊娠……?」
「そう。こうして――結果が出ている以上、あなたのお腹の――――はいないわ。月のものが止まっている――――ちょっとした――不良みたいなものね。遠――ず来ると思うわ」
「で、でも私は――」
「――島さん。あなた疲れているのよ。天夜――事は私も職――いたけど、良かったじゃない。死んだ人を――くはないけれど、あの人――――しく想える人を見付けて――」
「先生の代わりなんかいない!」
再びの怒声。先ほどヒステリックな叫びを上げていたのと同じ声だ。
そういえば、この声をつい最近どこかで聞いたような気がする。どこだっただろうか。
「そう。そ――よ。きっと――先生の――を奪って行った――。私だけが――に愛されていた――で、誰かが――しちゃったんだ」
「飯島さん? あなた――」
「捜さなきゃ。私の――。――――の愛の証……」
「っ! 飯島さん待ちなさい!」
保健の先生の言葉と接近してくる気配から、誰かが廊下に出て来ようとしていると察した僕と宗也は即座にその場を離れ、まるで今しがたここへ着たばかりであるかのように態度を偽装する。
はたしてその直後に扉が開かれ、中から現れたのは幽鬼のような顔をした飯島先輩だった。
その姿を確認して、僕は昨日事件現場で彼女とあった時の事を思い出した。あの時はあの時で異常な雰囲気だったが、今はもう完全にいってしまっているとしか思えなかった。
焦点の合わない虚ろな目。夜叉のごとく振り乱された髪。病的なまでに青白い顔と血の気を失った唇。元の見た目が綺麗な人だっただけに、こうなるとやたらと怖い。小さな子供が見たら泣き出すレベルだ。
「捜さなきゃ。私の赤ちゃん。捜さなきゃ……」
飯島先輩はぶつぶつとそんな事を言うと、ふらふらとした足取りでどこかへ去って行った。とてもじゃないが声をかける気にならない。あれは危険だ。手の出し方を間違えると確実に手痛い事になる。
さてどうしたものかと思案しようとすると、
「あ、先生。調理実習で手をスパッとやっちゃった馬鹿がいるんですけど、消毒出来る?」
そそくさと保健室の中へ入っていた宗也が僕の代わりに先生に事情を説明していた。僕としてもさしあたって治療を優先させる事に異議はなかったので、考える事を止めて保健室へと足を踏み入れる。
「……ん?」
ふと、僕は身体の全てを室内へ入れてしまう直前に聞き慣れた音を聞いた気がして、その場で踵を返すと頭だけを廊下に出して左右を確認する。けれどそこには誰もいない、空虚なだけの廊下が広がっていた。
気のせいか。
そう考えて僕は廊下に出していた頭を引っ込めた。振り返った先では宗也と保健の先生が何事かという顔で僕を見ていたけど、僕は黙ってなんでもないですと首を振る。
そう。きっと空耳なのだろう。楽しげに笑うような鈴の音など、聞こえはしなかったのだ。
◆
静先輩に携帯の電話番号を教えてもらい、それぞれ対象者へ連絡を入れた僕は校舎内をうろついていたクロと一緒に屋上へやって来ていた。
この場所は今も立ち入り禁止なのだが、それがかえって人目を避けるにはちょうどいい。連続して人が死ぬ舞台になった場所に来ようと思う物好きはそうはいないからだ。
鍵は静先輩に借りた。なくさないようにちゃんと二重ポケットの方に入れてある。おかげでちょっとチクチクするのだけど。
「に」
不意に、その辺りで遊び回っていたクロが僕の右腕に抱きついてきて、そのままじーっと塔屋の扉を見つめ始めた。
反射的に、僕はポケットに忍ばせた例のレコーダーのスイッチを入れる。
ややあってからがちゃりという音と共にその扉が開かれ、校舎の中から二人の人影が屋上へと現れた。
一人はお下げ髪に眼鏡姿の金井昌子。そしてもう一人は上下ともジャージ姿の春霞先生だ。
そして二人揃ってやって来たという事は、やはり僕の推測は正しいという事になるのだろう。そもそも心当たりがなければこんな呼び出しに応じる必要がないのだから。
「やあやあシロっち。こんなとこに呼び出すってのはどういう事なんだい?」
普段通りの様子で、春霞先生が問いかけて来た。こういうのを白々しいとかいうのだろうか。電話で軽く伝えた内容の事を忘れているかのような口振りだ。
だから僕はもう一度同じ事を言おうとして、
「奥山宏美殺しの犯人があたしだってのは、一体どういう事なのかな? あれは三年の向坂が犯行を自供して自殺してるんだ。警察の方でもそういう形で決着がついたって聞いたんだけどな」
タイミングを計っていたかのような春霞先生の言葉に僕は発すべき言葉を飲み込まざるをえなかった。先生がしてやったりというように喉の奥で笑っているところをみると、こちらのペースには乗せられないぞという意思表示なのかもしれない。
ふと先生の隣に視線を移せば、そこにはぎゅっと自分の腕を掴んでいる金井昌子がいる。彼女は先生と違ってやや不安そうにしているが、あれもまた演技かもしれない。
「……どうもこうもないですよ。ただ今回の事件を調べていたら、事実だと思われている事が事実ではなかった。その狂いが七時直前に奥山宏美が屋上から転落したという、始まりから生じているんだって事が分かったんです」
僕の言葉に、春霞先生が眉を跳ね上げる。その反応は正しい反応だ。僕はそもそもこの事件がおかしいと思うに至った原因についてまだ話していない。
あの日、静先輩が屋上から落下する物を見ていないという事実を。
「朝霧が?」
「はい。静先輩は六時半頃からずっと部室にいたそうですから、死体の落下地点からみても窓の向こう側を落ちていくものを見ていないといけないんですよ。でも、先輩は音を聞いただけで何も見ていません。この事から奥山宏美が転落死したのが六時半以前である可能性が出てきます」
つまりそれは、七時直前に屋上から落下したなにかが奥山宏美ではないという事の証左になる。
「わざわざそんな事をする理由は死亡時刻をごまかすためとしか思えません。そして奥山宏美の死亡時刻を錯覚させる仕掛けが出来るのは――」
そっと僕は左腕を差し出し、生徒よりもなお小柄な春霞先生を指し示した。
「先生しかいないんですよ」
加えて言うのなら、奥山宏美が本当に殺害されたと考えられる六時半以前では、早朝練習に来ている生徒でも自由に校舎内へ立ち入る事は出来ない。
あの時間に外部から校舎内へ立ち入るためには奥山宏美のように鍵を所持しているか、あるいは最初から校舎内にいる必要があるのだ。
春霞先生は事件当日宿直で、最初から校舎内にいた。つまり自分の鍵で校舎内に入ってきた奥山宏美を誰の目にも触れずに手にかける事は比較的容易だったと考えられる。
「ふーん? でもさあ、その仕掛けってのは本当にあったものなのかい?」
春霞先生は僕の話を聞きながらふむふむと何度か頷いてから、そんな質問をして来た。続けて、
「あたしがあの日のその時間グラウンドにいたって事はもちろん知ってるよね? つまりはあたしがその場にいない以上はシロっちが言う仕掛けは自動的に起動するって事になるんだろうけど、そうそう上手く行くもんじゃないと思うけどな」
先生の言うことは最もだ。さすがにここで知っているからこそ話を飛ばしてしまうというようなボロを見せてはくれないらしい。
けれどだからどうという事もない。僕はただ理路整然と話を進めて行くだけだ。
「そうでしょうね。だから先生はこの一週間ずっと予行演習をしていたんじゃないですか?」
ピクリ、と春霞先生の頬がわずかな反応を示す。表情に変化はないけれど、最初からよくよく注意していれば気が付ける程度には分かる動きだった。
「目撃者である平野の証言にあったんですよ。最近学校の屋上に飛び降り自殺を繰り返す幽霊が出るって話が。普通に考えればただの怪談話ですけど、今回の事件に絡めれば全体が見えてきます」
そこから僕はこれまで調べてきた事の全てを春霞先生と金井昌子へ説明した。
仕掛けを成功させるために必要かつ重要な二つの点に関して。
実際に仕掛けに使われたであろう物と糸状の細い何かを複数回擦り付けられて出来た痕跡。
それらを辿って行き着く先にある春霞先生の所有車とそれに付属するウインチの存在。
「そして誰よりも先に駆けつけていながら何も見ていないという先生の証言ですね。警察にはそれで当たり前に通りますけれど、静先輩の話を聞けばそれがおかしいという事はすぐに分かります」
春霞先生が真っ先に現場へ向かったのは教師という立場によるものではない。彼女は真っ先に現場へ行く事で不足の事態に対応し、なおかつ他の者を現場へ近づけさせないようにしたかったはずだ。
おそらく現場を見てしまった女子生徒の視界を塞いだのも、凄惨な光景を見せないためというよりは余計な物を見せないためだったのだろう。
もしかしたらあの時点ではダミーの人形がまだ空き教室へ引っ張り込まれきっていなかったのかもしれない。まあ、この辺りは推論に過ぎないのだけれど。
「……なるほどね」
いつの間に目を閉じていたのか、腕を組みながら眉をひそめていた春霞先生が重々しい感じで口を開いた。そうしてすっと目を開き、クロのようにぱちっとした瞳で僕を見たかと思うと、
「けどさシロっち。それって全部推測だよね? いやまあ一部痕跡が残ってるってのはたぶん本当なんだろうけど、でもそれ以外は全部証拠らしい証拠の話がないじゃないか」
組んでいた腕を外し、大きく左右に広げて肩をすくめてきた。
そう。言われるまでもなくこれは全部推測。推論とも言うべきものだ。正直に言って証拠らしい証拠など何一つとしてない、というかもう何も残ってなどいないと思う。
もしも証拠も添えるというのであれば、事件があったあの日にすべてを調べでもしない限りは不可能な話なのだから。
「いやそんな当然みたいな顔されても困るんだけど」
「そうですか? 別に困る事もないと思いますよ。僕は事の真相を知りたいだけで、証拠があるかないかに関してはどうでもいいんですから」
「……はあ?」
初めて、春霞先生の顔が崩れた。同様にして金井昌子もあっけにとられたような顔をしている。
この辺りは予想通りの反応だ。やはり二人とも僕の呼び出しがどういうものなのか勘違いしてくれているという事になる。
「言い方が悪かったですかね。僕は、正確には僕と朝霧先輩は事の真相を暴く事までは目的にしてますけど、それ以降は何も考えてないんですよ。当然僕らは朝霧先輩の目撃証言も警察には話してません」
「え? じゃあ――」
「昌子!」
金井昌子が何か言いかけたのを、春霞先生の鋭い声が止めた。叱責を受けたようにビクリと身体を震わせたお下げ髪の彼女は、はっとしたように手で口を塞いでいる。
なるほど。今のでおおよそ判断出来る。僕と朝霧先輩が調査している事で警察も奥山宏美の件を自殺以外で捜査していると勘違いしたのは彼女のようだ。
それにしても、図書室であった時の彼女はもっと役者だと思っていたのだけど、今のはちょっとひどいミスではないだろうか。この程度の揺さぶりで尻尾を見せるような相手には見えなかったのだけれど。
まあ、今は細かい事よりも本題を進めて行こう。
「だからこそおかしいんですよね。向坂先輩が天夜先生を屋上から落としたあの事件。遺書に奥山宏美を殺したのは自分だって自白してあったそうなんですけど、ほとんど自殺で片がつきそうだったあの一件をわざわざ他殺だと自白しなきゃならない理由はどこにあったんだと思いますか?」
僕の問いかけに、春霞先生も金井昌子も答えない。だから僕は構わず言葉を続けて行く。
「その理由って、こう考えられませんか? 僕が調べ回っているせいで誤解した犯人は、向坂先輩が天夜先生を殺して自殺するように仕向けて、なおかつ奥山宏美の件についても罪を被って死んでもらった、とか」
「……ずいぶんな暴論だね。そしてその犯人が私たちだって言いたいんだろ? でもね、その話じゃ証拠以前に片手落ちってもんだよ。シロっちが嗅ぎ回っているせいで誤解したって言うんなら、死んだ向坂だって同じだろうさ。あいつとも会ってただろ? 図書室の近くで」
どうなんだというように春霞先生の質問が飛んでくる。どこで見られていたのかわからないが、案外金井昌子の様子でも見に来ていたのかもしれない。
けれど、春霞先生の主張したい部分には致命的な欠陥がある。きっとあのやり取りの一部始終を見ていたわけではないのだろう。
「僕は向坂先輩と会いましたよ。でも、向坂先輩は僕に会っていません」
「……は? シロっち。言ってる事がすごい矛盾してるよ?」
春霞先生の指摘も最もだ。僕の今の発言だけを聞けば誰だってそう思う。けれど、向坂絵梨が抱えていた病気とあの時の状況が重なる事で、僕の方だけが彼女に会うという奇妙な状況は出来上がるのだ。
「春霞先生は向坂先輩が相貌失認という病気だった事は知っていますか?」
「そりゃ知ってるさ。この学校の教師なら全員知っているよ。向坂が男を認識できないって事はね」
一応の確認のつもりだったのだが、やはり教師陣には当然の如く伝わっている内容のようだ。
「けど、あいつはそれでも男が持っている物体は普通に認識してるんだよ。服とか眼鏡とか、ある種人を構成するに当然なものはまとめて認識出来なくなるみたいだけど、カバンとか荷物とかそういった類の物は空中を移動しているように見えているって話さ。だから紙束を抱えていたシロっちの事は完全に見えなかったわけじゃないはずなんだ」
「いえ、その話で余計に向坂先輩が僕に会っていないという確信が持てました」
「……え?」
細かく説明してくれた春霞先生には申し訳ないが、今の説明は僕の正しさを裏付けるものでしかない。
僕は確かにあの時紙束を持っていた。しかしその目の前にはクロがいて、当然僕の持っている紙束はクロの背後に隠れてしまう形になる。クロの身体で隠れきらない部分はもとより向坂絵梨の認識外になるというのだから、驚かれた時以外一言もしゃべっていないあの時の僕はまさに透明人間状態だ。
「話は全部朝霧先輩がやってくれてましたし、僕らは奥山宏美が死んだ事を伝えただけで後はほとんど向坂先輩が一方的に話すばかりでしたからね。何かを誤解する余地なんてこれっぽっちもないんですよ」
問題となる誤解を生じさせる可能性がある人物は、僕が直接接触した人に限られる。その数少ない該当者の中で向坂絵梨との関係性がある人物は――
「奥山宏美の事件があった日の向坂絵梨のアリバイ証明者でもある君しか考えられないんだよ。金井昌子さん」
「――っ!」
僕の指摘に、金井昌子は明らかに息を飲んだ。春霞先生がそれほど驚いていないところをみると、二人の関係は知っていたようだ。いや、知っていたからこそ利用したのかもしれない。
「君があの日の朝に向坂先輩と一緒にいたって事に関しては、明確な証拠がある」
まあ、僕が持っているわけじゃないのだけど。それでも見せてみろと言われれば、朝霧先輩に言えばすぐにでも全世界へ配信可能な程度には準備出来ていると考えていいだろう。
「だから奥山宏美の一件に関しては向坂先輩は関係ない。これも僕が春霞先生を最初の犯人だと考えた理由。そしてまるで接点のない春霞先生の罪を向坂先輩が被った事で、天夜先生の殺害を依頼したのは間違いなく金井さんだと僕は考えている」
そう思う根拠は、昨日朝霧先輩と話した中で思い至った事だ。自分の事より金井昌子の事を優先させた向坂絵梨が別の誰かの言う事を聞くとは到底思えない。
「……ふーん。面白いじゃないか。だけど、それだって全部想像、いや妄想の話じゃないのかい? シロっち。あんたはは本当に何を考えているんだい?」
明確な証拠を突きつけていないせいかドラマでよくありそうな告白劇は始まらず、けれど馬鹿馬鹿しいと一笑に付すわけでもなく、春霞先生が怒りの感情を僕にぶつけてきた。
つまるところ面白半分で人を追い詰めるような真似をしているのなら即刻やめろという事だろうか。
けれど――
「警察に協力するわけでもなく、わざわざあたしたちをこんなところへ呼びつけてそれで一体――」
「クロが興味を持ったんです」
「――何……を……?」
その程度の怒りに触れただけでは止める理由にはあたらない。なぜなら彼女はまだ満足していないのだから。
僕が右腕にすりすりと頬ずりをしているクロへ視線を向けると、春霞先生と金井昌子も同時にクロへと視線を集中させた。
「に?」
注目されている事に気が付いたのか、クロが頬ずりを止めてちょこんと首を傾げた。そうして翡翠の双眸でじっと春霞先生を見て、その次に金井昌子を見た時、
「……に?」
彼女は再び反対方向へ首を傾げた。そのままじーっと金井昌子を見つめ続け、視線に耐え切れなくなった金井昌子が居心地悪そうに身をよじったかと思うと、
「……シロ。……いない」
急にしょぼんとした声でクロがそんな事を言ってきた。僕の右腕を掴む手にわずかな力がこもり、どうにも落ち着きをなくしかけている。
「クロ?」
「に~……」
僕の問いかけに、クロはどこか迷っているような感じだった。いや、迷いつつも怯えている感じだろうか。まるで誰かに怒られる事を想像して、先に謝ってから怒られるべきかどうせ怒られるなら放っておくべきだろうかと悩んでいるようだ。
どうにも妙な雰囲気だが、僕は一先ず放置しておく事にする。
「まあとにかく、クロが興味を持った事をとことん調べるのが最近の僕の行動理念の一つになっているんですよ。だからこの事件はクロが興味を持たなければ僕も興味を持ちませんでした。彼女が今この状況で満足してくれるならこれ以上調べる気もありません。けど、見ての通り彼女はまだ満足してないんです。だから僕はまだ話しを続けますよ」
「……シロっち。あんた狂ってるの? あんたの言っている事は、言い換えればクロちゃんを満足させるためならなんでもする。誰かが破滅しても構わないって言ってるんだよ?」
「構いませんよ。静先輩とか宗也だったらちょっと悩みますけど、今のところ躊躇しそうなのはこの二人だけですね」
当然、今目の前にいる二人がクロの興味を満たした結果どうなろうと僕は関係ないし気にしない。同学年の生徒一人と体育教師一人程度、義務教育の過程でもごまんと同じ存在がいた。
その中で特別な人はごくごく一握りだけだ。それでもクロの興味を満たすためなら喜んで犠牲に出来る。僕の中の優先順位に従う事は、僕にとって辛い事でもなんでもないのだから。
「狂ってるよ。シロっち。あんたはあたしらよりよっぽど狂っている」
「それは自白に類するものと考えてもいいんですか? 僕が人殺しを企て実行した人よりも狂っていると解釈しても?」
僕の問いに、春霞先生はすぐには答えを返さなかった。その場でくるりと踵を返し、
「好きに考えるといいさ。昌子。これ以上こんな茶番に付き合う必要はない。帰るよ」
僕に顔を向ける事無くそういって屋上の出入り口へ向かう。
「先生。だけど――」
「いいから!」
その場に留まるべきか後を追うべきか決めかねていた金井昌子に対し、春霞先生が強い言葉でついてくるように促した。
その言葉でビクリと怯みを見せた金井昌子だったが、
「…………っ」
殺気立った目で僕を一睨みした後、すぐに春霞先生を追って行った。ところが――
「……ちっ。こんな時に。昌子先行ってな」
「あ、はい」
突如鳴り響いたどこかで聞いた事のある気がする着メロに春霞先生がポケットに手を突っ込みながら足を止め、同じく自分の携帯を取り出そうとしていた金井昌子へ先に行くように促した。
そうして春霞先生は携帯に耳を当て、その横を追い抜いた金井昌子は屋上の出入り口である扉を引き開けて、
「え?」
「え?」
全く別の行動を取った二人の言葉がシンクロし、扉を開けた金井昌子が驚愕の表情を作ったと思った瞬間、校舎の中から黒い影が飛び出してきて金井昌子に体当たりを仕掛けた。