その2
「今回の一件、向坂絵梨による殺人及び自殺という形で決着しそうですわね」
人気の少ない喫茶店。静先輩の行き着けだというその店で、僕と先輩は制服のまま、クロはいつも通りの格好で最奥の四人席に陣取っていた。
あの後学校から自宅待機及び帰宅指示が出たため、学校にいた僕は同じく学校に潜んでいたクロと合流し、通学途中だったという静先輩に連絡を取ってこの場に集まっている。
僕と先輩の前にはブラックコーヒー。クロの前にはメロンソーダが置かれていて、作られた緑色を天然の翡翠色に映し込みながらぷくぷく沸き立つ泡を興味津々の体で眺めている。
「それって、また遺書でも出てきたんですか?」
「ええ。勇樹さんの話だと、手書きで奥山宏美と天夜彰吾を殺したのは自分だと告白文が書かれていたそうですわ。動機は痴情のもつれ、という事になっているらしいですわね」
食器の擦れる音がして、静先輩は優雅な仕草でコーヒーカップを口元に運ぶ。余分な物を混ぜ入れていない黒の液体は、先輩の白い喉の内側を滑り落ちて行く。
「それで、シロ君はどう考えていますの?」
ソーサーの上にカップを戻した静先輩が、前髪の隙間からのぞかせた漆黒の瞳を僕に向けた。
深い奈落の底を思わせる引き込まれそうな闇を湛えた先輩の目は、黒曜石の鋭さと儚さを併せ持つが故に人の心をかき乱す。
僕はなんとなく居住まいを正すと、
「正直まだなんとも。ただ、下に落としたダミーをどこに隠したのかに関しては仮説が立ちました」
僕の言葉に、静先輩は反応を見せない。口を挟んでこないという事は、何か言うにしても僕の話を全部聞き終えてからにするという意思表示だろう。
そう判断し、僕は自分で立てた仮説を整理しながら話していく。
概要としてはそんなに難しいものでもない。屋上に仕掛けたダミーをピアノ線か何かで下から引っ張るという図式に変化は無いが、引っ張っていた場所が最初に考えていた位置とは異なるのだ。
おそらく犯人は奥山宏美の死体があった場所の目の前、柔道部が投げられ君グレートを保管している倉庫になっていた一階の空き教室の中からダミーを引っ張り落としたのだろう。
あの時間の教室は薄暗くて視界が悪く、外からでは中の様子をはっきりと確認するのは難しい。そして落としたダミーを窓から教室内に引っ張り込めば、外にいる春霞先生の視界から人形と自分を同時に隠す事が出来る。
外に足跡が無いのは当然だ。元々外にいなかったのだから足跡など残るはずも無い。
窓から引っ張り込んだという証拠としては、事件直後に現場を確認した際の砂山が挙げられるだろう。盗まれていたという柔道部の投げられ君グレートから漏れたと思われる砂は、校舎の壁際で小さな山を作っていた。あれは窓から引っ張り込まれる際に同じ場所に砂が落ち続けた結果だと考えられる。
また、グラウンドからでは窓の下の方は植木が邪魔になって視線を遮られるため、人形が引っ張り込まれる様子を見られる事もない。
そして本来なら一階の窓が開いている事はおかしな事と思われるかもしれないが、あの騒ぎの中では『人が屋上から落ちた』という事実が意識を上の方へ向けさせてしまうと考えられる。その結果、校舎の一階の窓が開いているかいないかなどという事件と関係がなさそうな事柄に意識を向ける人間がいたとは思えない。
ダミーを引っ張り込んだ後にそっと窓を閉めてしまえば、近くまで来た誰かも死体に気を取られて他に注意を向ける事はしないだろう。
そうして後は混乱に乗じてその場を去ればいい。
ダミーに使った人形はほぼ同じ物が複数そこに保管されていて、柔道部員でもぱっと見てなくなっていた物が戻っている事には気が付けないだろうし、ダミーの変装に使ったものはちょっとした袋でもあれば隠してしまえる。
加えて、報道関係の影響かあの時間にしては数多くの生徒がすぐに学校へ集まってきた。そ知らぬ顔でそれに混ざる事は造作もないというわけだ。
以上が僕の考えた仮設であり、細部の検証はすんでいないが結構いい線を行っているという自信はある。
「なるほどですわ。犯人自身の移動をまったく考えないのであれば、二分弱の時間でダミー人形を現場から消し去る事は可能ですわね。それに現場に残っていた砂山の謎も確かに説明が付きますわ」
僕の説明を頭の中で反芻しているのか、静先輩が口元に手を持って行きながらややうつむいてぶつぶつと何かを呟いている。
考えている静先輩の邪魔をしないように、僕は自分の前に置かれたコーヒーカップを感覚的に取ろうとして――手が空を掴んだ。
おやとしっかり目を向ければ、僕の目の前にはソーサーのみが残っており、コーヒーの入ったカップがどこにも見当たらなかった。まさかと思って隣を見ると、
「に……」
行儀悪く机に顎を乗せ、可愛らしく舌を出して目を潤ませているクロがいた。いつの間にか空になっているメロンソーダのグラスの隣に、中身がほとんど減っていないコーヒーカップが置かれている。
味を知らないが故にこっそり僕のコーヒーを飲もうとして、熱さと苦さで舌をやられてしまったのだろう。先にメロンソーダを飲み干してしまっているため、甘いものでの治療も出来ずに涙目というわけだ。
僕は軽く溜息を吐きながらクロの頭を撫でてやり、カップを自分の元へ取り戻しつつ近くにいた店員さんにメロンソーダのおかわりを頼んだ。
「だけどシロ君。この方法だと誰でも同じ事が出来ますわよね?」
「そうなんですよね。むしろその時その場にいたかいないかをあいまいにする意味では、そこにいる事が目立たない人の方が適任なんですよね。向坂先輩目立ちますから、そこが引っかかるんですよ」
向坂絵梨は良くも悪くも目立つ生徒だ。見た目の派手さと付きまとう悪評。そして普段から学校に来ているのかいないのか分からないような生徒が、その事件の日に限って早くから学校にいれば嫌でも目立つだろう。
そういう意味ではやはり奥山宏美殺害の犯人が向坂絵梨だと考えるのには疑問が残る。
「ただ、今日の件に向坂先輩が関わっているのは間違いないんですよね。向坂先輩が天夜先生を突き落としたのはグラウンドにいた生徒が見てますし、その後自分で飛び降りたのは僕も見ましたから」
あの時の向坂先輩におかしなところはなかった――というと物凄い語弊があるが、少なくとも誰かに落とされたわけじゃない事は確かだ。
あの瞬間、彼女は確かに自分の意思で自分の命を絶つ選択をした。もしかするとそれは、奥山宏美殺しの罪を自分が被りつつ死人に口無しとするためだったのではないだろうか。
「あら、でもそれはおかしくありませんこと? 警察内では奥山宏美の一件は『自殺』という見方を――」
静先輩がそこまで言った時、僕の耳は綺麗な鈴の音を捉え、
「犯人、それ知らない。もしくは勘違いしてる」
その音色と一緒に静先輩の言葉に被せられた澄んだ声を聞いた。その発生元へ顔を向けると、パッチリと瞳を開けたクロが口を開いている。おかわりしたメロンソーダはすでに空になり、コーヒーによるダメージから完全に回復しているようだ。
彼女は僕と静先輩の視線を集めたまま、
「シズカが見たもの、誰も知らない。知らないから疑わない」
透き通る声で淡々と話し続ける。
そう。クロの言う通り、僕と静先輩が奥山宏美の事件を自殺ではないと判断する最大の材料である事柄、あの時間に奥山宏美は屋上から落ちてはいないという事実は警察には伝えていない。
理由はそれを伝えてしまうと静先輩が学校の鍵を隠し持っている事がばれてしまうせいだ。だからこの事は朝川さんにさえ伝えていない。
目撃者ありの遺書あり。加えて現場及び屋上から怪しい物が何も出ないとなれば、それはもう警察が自殺と判断してしかるべき状況だ。だから今日事件が起こるまで奥山宏美の件は自殺だったのだ。
自殺を他殺に変えたのは向坂絵梨の遺書、告白文なのである。これがなければ奥山宏美の件は自殺と判断されたままだったのだ。
ならばなぜ、向坂絵梨は被る必要のない罪をわざわざ暴いた上で被ったのだろうか。
「シロとシズカが調べてる。いろんな人に話を聞いた。きっと、犯人にも話を聞いた」
そうだ。僕と静先輩は奥山宏美の事件を調べていた。ごく単純な自殺として扱われているはずの事件を嗅ぎ回っていた。
傍から見ればそれは、その事件を自殺だと考えていないというように見えるのではないだろうか。探られるはずのない腹を探られた時、犯人はどう思っただろうか。
「シズカは警察と仲良し。シズカの知っている事、警察も知っていると考える。不思議じゃない」
確かに静先輩は警察に繋がりを持っている。その事は荒神高校では誰もが知っている事実だ。静先輩が事件を自殺と考えずに調べているという事は、必然的に警察も自殺以外の線で捜査をしていると錯覚してもおかしくはない。
そして僕と静先輩との繋がりも当然広く知られている。僕が調べている時点で、その背後に静先輩がいるという図式を想像するのは実に容易なのだ。
「犯人勘違い。勘違いしたから余計な事をした。自分がそれを知っている事を示した」
クロの言う『それ』とはすなわち警察が奥山宏美の一件を自殺ではないと見ている可能性だ。そしてその可能性を知りうるのは僕が直接に話を聞いた面々に限られるだろう。
その中で今も生きているのは、宗也を除けば三人しかいない。すなわち飯島詩織、金井昌子、そして春霞八重だ。
「その中だと金井昌子しか残りませんわね。飯島詩織はあの日別の場所にいましたし、春霞先生はグラウンドにいましたわ」
「それに金井昌子はその日の朝早くからどこかへ出かけていて足取りが不明でしたよね? そうなるとますますもって怪しいです」
そういえば今日の飛び降りがあった直後、金井昌子は僕の事を観察しているようだった。そして目が合うと不自然に逸らしている。何かを隠している事は確実と見ていいだろう。
「私は朝の足取りを徹底的に洗ってみますわ」
「じゃあ僕は自分の仮説をもっと固めてみる事にします。もしかしたらそれに応じて何か動きを見せるかもしれないですし」
「分かりましたわ」
さっくりと今後の方針を決め、僕は相変わらず要所要所で鋭いクロを労う意味で彼女の頭を撫でる。
「に」
褒められている事が分かるのか、彼女はちょっと期待する表情で空になったグラスを僕に差し出してきた。もう一杯おかわりが欲しいという事らしい。
僕はそれに対してそっと微笑を返し、
「お腹壊すから駄目」
「…………にう~」
オノマトペが聞こえそうな勢いでショックを受けた表情になり、次いで見事にしょぼくれてしまった彼女だが、おかわりを許可しない代わりに今日の夕飯を秋刀魚にすると伝えたらすぐさま目を輝かせて復活した。
「扱い方が上手いんですのね」
「別にそういうものでもないですよ」
クロは自由で気まぐれなだけだ。彼女は何にも縛られない。僕も彼女を縛っているつもりは無い。
彼女が僕と一緒にいるのはただの気まぐれだ。きっといつか、気まぐれで僕の下を去るだろう。僕としてはその日が出来うる限り遠い出来事であって欲しいと思う。
「あら、いなくなったら捜せばいいんじゃありませんの?」
「……そうなんですけどね」
静先輩の言う通り、たとえ僕の下を去っても彼女を捜す事は出来るだろう。
だけど、きっと僕は捜さない。クロにとって僕は仮初の宿。この先も長く続いていく彼女の物語の一小節に過ぎない。
そして僕にとってもそれは同じ。どれほどに濃密で、恍惚で、いかに鮮烈なものだとしても、それを望み続ける事は不可能だ。物事には必ず終わりが来る。出来るかもしれない事といえば、その終わり方をどうするか、どうしたいか考える事だけ。
「そう。それじゃあ貴方は、この事件をどう終わらせたいと思ってますの?」
カップの中身を全て飲み干し、静先輩が空になったカップをそっとソーサーの上に戻した。
黒曜石の瞳は見えない。だから僕の心はざわめかない。
「そうですね。とりあえず――」
初めから僕の考えは決まっている。僕がこの事件を調べているのは、ただそれだけのためなのだから。
「最後までクロが楽しんで、笑って終わるのならそれでいいと思います」
僕は別にこの事件を解決したいわけじゃない。当然、真犯人を断罪したいわけでもない。
僕は正義を望まない。僕は悪を望まない。
僕が望むのはクロの笑顔。始まりに見せるあの笑顔。そして終わりに見せるあの笑顔だけ。
それ以外は、どうでもいい。