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KURO~気まぐれネコは事件と遊ぶ~  作者: 天笠恭介
第二章 ネコ《少女》はネズミの巣を捜す
11/18

その6


 屋上は別世界である、というのは誰の言葉だったろうか。偉人有名人の格言ほどではないが、僕はとても言い得て妙だと思っている。

 特にこの校舎は西向きで、朝日が当たらない代わりに夕日がよく当たる。今はまだだが、もう少し経てば無機質な灰色の床にオレンジ色が灯り、また別の顔を見せてくれるだろう。


「普段目にする機会のない、想像する事も少ない光景というものは、得てして物珍しく映るものですわね」


 吹き抜ける風に長い髪を遊ばせている静先輩は、殺風景な空間に咲く一輪の黒百合の如き艶やかさと妖しさを放っている。

 新聞部の手伝いでにわかカメラマンの真似事もさせられる僕をして、その姿を写真に収められない事を悔やめるほどには見事と言わざるを得ない光景が目の前にあった。


「あら? どうしたのかしら?」


 クスリと笑う静先輩の顔を風が撫で、前髪に隠れていた彼女の漆黒の瞳が僕の姿を映し入れる。


「そしてその瞳に射抜かれた僕は、己から湧き上がる欲望のままに先輩に襲いかか――」

「るわけないでしょう。何を勝手に人の嘘っぱち心情を口に出しているんですか? 時間もありませんし、僕はフェンスの外を見てきます」


 ぶーぶーと頬を膨らませる静先輩を無視して、僕は黄色いテープとベニヤ板で腰の高さほどまで封鎖されたフェンスへと足を向ける。

 元々は背丈以上のフェンスが存在したのだが、誰の悪戯か丸々一枚分が破壊されてしまったため、付け直す過程で一時的に何もない状態になっている場所だ。


 奥山宏美の転落時にはビニール紐と簡素な看板だけで封鎖されており、跨ぐなり潜るなりで簡単に突破できる状態にあったらしい。

 ともすれば学校側の怠慢とも言える措置だが、元より工事完了まで一切の使用を禁止する旨を告知済みで、鍵も貸し出し禁止の状態であった。普通に考えれば屋上に至れる生徒などいなかったはずなのだ。


 だが奥山宏美は屋上へ至り、そして落ちて死んだ。何者かに突き落とされて。


「に」


 タタンと軽快な足音がしたかと思うと、僕の隣を軽やかな鈴の音と共に跳躍したクロが通り過ぎて行く。彼女の体はベニヤ板を簡単に飛び越え、そのまま三十センチの幅もない屋上の縁に着地した。サーカスか何かでも見ているようだ。

 クロはその場で四つんばいになると、本物の猫よろしく縁の上をたしたしと移動し始める。

 しばらく観察していると、彼女は僕から見てちょうど二メートルほど左へ移動したかと思うと、その場で停止してじーっと周囲を観察し始めた。

 どうやらあの位置が気になるらしい。


「シロ君は行かないのかしら?」


 真後ろから右の耳に息を吹きかけられながらの言葉に僕は声なき声を上げ、


「静先輩普通に話しかけてください」


 ちょっと心臓をドクドクさせながら、薄く笑みを浮かべている静先輩を嗜める。

 まあ、どうせ何の効果もないのだけれど。


「隙だらけなのがいけないのよ。そんなんだと、いつか痛い目を見ますわよ?」

「せいぜい気をつけますよ。……あ、これ固定が甘いな」


 所詮はベニヤ板といったところだろうか。フェンスとの境目を手で引っ張ってやると見事に湾曲したため、僕はその隙間からフェンスの外へと出た。


 フェンスと縁の間には六十センチほどの空きがあるため、僕はクロのように縁ではなくその空間を歩いて彼女へと近づいていく。

 そうして彼女の見ている場所を僕自身も確かめた。だが、そこには特に気になるようなものはない。下で見つけたような白砂も存在せず、怪しい破片や欠片の類も見つからない。


「………………」


 僕は視線を上げ、クロの居座る場所から少しずれた位置の縁に手を置き、そっと真下を覗き込んだ。

 眼科の光景から判断するに、クロのいる位置がまさに白砂が撒き散らされていた位置と同じ軸に存在している。


 つまりは、ここがおそらく平野明海が目撃した何かが落下した位置になるのだろう。

 僕の立っている屋上の床とクロのいる屋上の縁とでは五十センチ程度の高低差があり、下から見上げた場合には縁の裏側に隠れている物は絶対に見えない。

 僕がこの場で横になれば、僕の姿を見る事が出来るのは同じ屋上にいいるクロと静先輩だけになるように、何かを隠して配置させる事は十分に可能だ。


 ふと、僕は先ほどからずっと黙っているクロが気になり、相変わらず縁の上にいる彼女へ目を向けた。すると、彼女は顎が付くくらいに姿勢を低くして、縁の外側を注視していた。

 何を見ているのだろうかと僕もその視線を追うと、その先に違和感を覚えるものを見付ける。

 縁の外側の角。ある一角だけが妙にギザギザになっているところがあった。他の場所を確認してみると、風雨による破損で似たような感じになっている場所がなくもないが、その位置ほど激しいギザギザになったところはなかった。

 別段他の場所と何がどう変わるというわけでもない位置である。妙だった。


「に」


 とっさに僕が手を伸ばすより先に、クロがそのギザギザにつんつんと指を押し当て始める。そうしてひとしきり突きまわしたかと思うと、今度はがばっと身を起してごそごそと猫耳帽子の中を漁り、


「に」


 彼女は小さな毛糸玉を取り出した。そんな物がずっと入ってたのだろうか。

 ただでさえ暑苦しいはずの全身真っ黒装備に加え、帽子の中に毛糸玉などが入っていては蒸れて仕方がないと思うのだが。


「に~」


 そんな僕の感想を知らないクロはご機嫌な様子で毛糸玉から糸を引っ張り出したかと思うと、それをピタリと例のギザギザ地帯に押し当て、ぞりぞりと擦りつけ始めた。

 当然、動物の毛の集まりに過ぎない毛糸が鋭利になったコンクリートとの擦過に耐えられようはずもなく、十数度の擦り付けで毛糸はぷつんと切れてしまった。


「……に?」


 切れた毛糸をじーっと見ていたクロが、何を思ったのか首を傾げながらその切れた毛糸を僕の方へ差し出してきた。

 いや、さすがに意味が分からない。突然毛糸を擦り付けて切ったかと思えば、不思議そうな顔をしてそれを差し出されたとしてどうしろというのだろうか。

 まさか僕にもやれといっているわけでもないだろう。そんな事をしたって結果は同じだ。もっと硬いものでもなければコンクリートに負けて――


「っ!」


 そこまで自分で考えて、僕は思わず息を呑んだ。

 もしもあのギザギザがコンクリートに強度で勝る糸や紐の類で付けられた傷なのだとすればどうだろうか。

 例えばそう、女子生徒の制服とかつらを付けたダミーをこの場所に転がし、それに巻きつけた紐を下へ垂らしておくのだ。

 出来れば細くて丈夫なピアノ線なんかがいいだろう。この校舎に朝方は日が当たらないから、陽光に反射して怪しまれる危険性も低い。

 そうして仕掛けたピアノ線を下から引っ張れば、屋上にいなくてもダミーを落とす事が出来る。

 縁に付いた傷跡は、ダミーを下へ引っ張る際の擦過痕というわけだ。


「に」


 僕がそんな推論を頭の中で展開させている間に、クロは毛糸玉を再び帽子の中にしまってすくっと立ち上がり、てててっと縁の上を小走りに戻って行く。

 そしてまたも軽々とベニヤ板を飛び越え、


「に~」


 広々とした屋上を楽しそうに駆け回り始めた。

 どうやら彼女にとってはもうこの場に用はないということらしい。

 かく言う僕も、これ以上この場で得られるものはないと判断しておとなしくフェンスの内側へと戻る。


「何か分かりましたの?」

「ええ。縁に紐状のもので削られたような跡がありました。多分ピアノ線か何かで擦れて削れたんだと思います」


 僕は報告のついでに先ほど考えた推論も静先輩に話しておく事にした。

 まだ確証は得られてはいないが、これなら静先輩が落下する奥山宏美を見ていない事に説明が付く。


「……そう。確かにそれなら私が見ていない事に説明は付きますわね。けれど、それなら結局落とした後はどうするんですの?」


 静先輩の指摘は予想済みのものであり、しかしまだ分からない部分だ。

 ダミーを落とした後、どうやってそのダミーを現場から持ち去るのか。

 屋上の痕跡から犯人がダミーを引っ張り落としたのは間違いない。という事は、やはり犯人は平野に落下するダミーを目撃させてから春霞先生が駆けつけるまでの、わずか二分弱の間にダミーと二十メートル以上のピアノ線を回収してその場から逃げおおせたという事になる。


 そんな事が可能だろうか?


 ダミーが軽ければ何とかなりそうなものだが、人が落ちたと錯覚させるにはダミーの方にもそれ相応の重量が必要になる。軽過ぎては落ちた音も軽くなってしまうからだ。その違和感をなくすためにも、最低でも三十キロ程度の重さはあったと見るべきだろう。

 正直、そう簡単に三十キロの重量を持ち運べるとは思えない。


 加えて、あの現場には足跡らしいものがまるで無かった。つまり犯人は土の上を移動せず、コンクリート面の上を移動したはずだ。

 しかしそうなると大きな問題がある。まずダミーが落ちた位置は死体よりも奥側だ。ダミーを回収して逃げるためには死体が邪魔する場所を通らなければならないが、広がった血痕やらなにやらを踏みつけず飛び越えれるとは思えない。回収したダミーの存在がそれを許さないからだ。


 さらに言うなら、事件のあった日に現場で確認した通りあの場所では中腰にでもならなければ完全に植木の影に隠れる事は出来ない。春霞先生なら立っていてもギリギリ隠れられるだろうが、普通は無理だ。

 もちろん現場にダミーを隠しておけそうな場所もない。それ以前にそんな物を現場近くに隠していたのならとっくの昔に警察が見つけているはずだ。


 冗談でもなんでもなく、屋上から落とされたダミーは春霞先生が現場へ到着するまでの二分足らずの間に現場から消えたという事になる。

 消失マジックもビックリな状況だ。何をどうすればそのような短時間であの現場からダミーを消し去れるというのだろうか。


「シロ君。ひとまず校舎の中に戻りませんこと? ここで考え続けても百害あって一利なしですわよ?」


 静先輩の提案はもっともだった。建前上屋上へ行けるはずがない状況なので、下手に先生方に見つかると厄介である。


「そうですね。クロ。行くよ」

「に」


 チリンチリンと鈴の音を響かせながら軽快に走り回っていたクロを呼び戻し、僕らはオレンジ色に染まり始めていた屋上を後にする。

 そうして先輩が自分の鍵で屋上への扉を施錠し、全員でゆっくりと階段を下りて踊り場で反転した時だった。


「おい。そこで何をしているんだ」


 若い男の声が聞こえてきたかと思うと、僕は階下の廊下にスーツ姿の人物が立っている事に気が付いた。

 色素の薄い天然の茶髪を清潔感のある長さにまとめ、すっと通る鼻筋に切れ長の目をした細身のその男は間違いなく数学教師の天夜彰吾だった。


「あら? 天夜先生ではございませんの」

「うん? なんだ。朝霧じゃないか。それと――」


 天夜先生は静先輩に気が付くと一瞬表情を緩め、しかしその背後にいる僕とクロの存在を見咎めた途端に眉をひそめた。


「そんなところで何をしている。屋上は立ち入り禁止だぞ」

「ええ、知っておりますわ。けれど、ここは厳密には屋上ではございませんのよ? ただの階段の踊り場ですわ」


 堂々と、相手の言葉の意味を正しく理解していながら屁理屈な揚げ足を取る静先輩の豪胆さには、見事という感想しか持ち得ない。


「屁理屈はどうでもいい。ともかくそこは立ち入り禁止場所だ。今日はもう遅いからこれ以上は何も言わんが、明日改めて生徒指導質に呼び出しがかかるからな。内申点に響く事は覚悟しておけ」


 凄みを利かせた威圧的な態度を取っている天夜先生は、しかし次の瞬間急に態度を軟化させ、


「だが、そっちの態度次第では考えてやらん事もないぞ? 朝霧。なに、俺は今日から一週間宿直なんでな。気にする事はない」


 なんとも背筋がゾゾゾとなる猫なで声のような口調へと変化した。

 視線さえまともに向けられていない同性の僕にしてみれば実に気味が悪いというものだが、異性であれば多少来るものがあるのかもしれない。だが――


「いいえ結構ですわ。どうぞ始末書でも何でも課してくださいませ」


 そこは静先輩だ。天夜先生の甘言を一刀の下に切り伏せ、その優雅さ優美さを一切損ねるような事はしない。

 うん。初めて会った時は僕に対してもこんな感じに格好良かったはずなのだけど、どこでどう間違ってエロキャラ化したんだったかな。


「何度も申しましたけれど、私、自分の認める相手以外には何も許す事はいたしませんの。そう、例えば――」


 僕が郷愁に浸っている間も先輩の口上は続いており、僕は郷愁に浸っていたが故に先輩の行動に対する対処が遅れた。


「シロ君のような方でなければ嫌ですわ」


 突然左腕をとられたかと思えば、いつの間にか同じ段まで戻ってきていた静先輩が僕の左腕に抱きついてきていた。二の腕辺りがとても柔らかいものに挟まれる。


「に」


 静先輩の行動が楽しそうに見えたのかどうか分からないが、クロも満面の笑みで反対側の腕に絡み付いてきた。

 なんだろう。物凄く両手に華な状況なのに、これっぽっちも嬉しくない。


「な……ぐ……くっ……」


 天夜先生の整った顔がいろんな感情によって歪んだり赤くなったりと百面相になっている。なまじプライドがあるだけに男として僕に負けたとか勘違いしていそうで嫌だ。

 いや、決してそんな事はないと思いますよ。

 そう弁明しようと口を開きかけたところで、


「えい」

「にひっ!」


 静先輩に脇腹を突かれた僕は驚きとくすぐったさとで妙な声を出してしまった。しかもちょうど歯を出して勝ち誇ったような笑みを浮かべたような顔で。


「なっ! ぐ……くそっ!」


 顔を怒りでどす黒くさせた天夜先生は、何を思ったのか一歩足を踏み出そうとして、


「くそっ! 何だこんな時に」


 突然鳴り響いた着メロに反応してスーツの内ポケットから携帯を取り出した。


 あれ? この曲どこかで……?


 流れる音楽に僕は聞き覚えがあるような気がしたが、あまりに特徴が無く頭にも入って来ない音楽だったため、過去に聞いたことがあるようなないような、実に判然としない感覚を覚えた。


「……ああ、分かった」


 僕が着メロについて思い出そうとしている間に天夜先生の話はすぐに終わってしまったらしく、


「明日の職員会議でお前たちの事は報告させてもらうからな! たっぷり生徒指導してやるから覚悟しておけ!」


 そんな捨て台詞と共に踵を返してその場を去ろうとして――


「ん? お前は……」

「に」


 道を塞ぐ様にして立っているクロに行き会い、天夜先生は動きを止めた。


 あれ? いつの間に?


 弾かれたように僕は右を向いたが、先ほどまで確かにまとわり付いていたはずのクロの姿がどこにもなかった。という事は、あそこにいるのは間違いなく彼女という事になる。

 気配を殺して行動する事は知っていたが、さすがにここまでイリュージョンじみたものは見た事がない。

 やや慌て気味に今度は左の静先輩を見るが、彼女はクロの行動に驚くでもなく、ただ興味深そうに様子を観察しているだけだった。


「に~」


 そうこうしている内に、トトトッと天夜先生に近づいたクロは、しばらく先生の周りをぐるぐる回っていたかと思うと、


「な、なんだ?」


 訝しむ天夜先生を無視してスンスンと匂いをかぎ始めた。そうしてその翡翠の双眸でじっと天夜先生の顔を見つめ、


「お、おい。いい加減に――」

「お父さん?」


 天夜先生の言葉に被せて、ちょこんと首を傾げながらそんな事を言った。


「…………はあ?」


 たっぷり十秒ほどの沈黙の後、天夜先生が素っ頓狂な声を上げた。

 それはそうだろう。ほとんど初対面といってもいいくらいの女の子からいきなりお父さん呼ばわりなどされれば誰だって唖然とする。

 しかも天夜先生はまだ二十八歳で、クロはどう低く見積もっても十四・五歳だ。いくらプレイボーイとはいえ十三・四で子供を作るはずもない。


 まあそんな事を証明するまでもなく、クロが天夜先生の子供であるわけがないのだ。

 だが、そうだとするとクロの発言はどういった意図のものなのだろうか。

 彼女はよく突拍子もない事を言うが、まるっきり意味のない事は言わないのだ。だから、彼女の『お父さん』には何かしらの意味が込められているはずなのである。


「シロ。お父さん」


 その場にいる全員が等しく何らかの驚きを表している中、クロだけが無邪気に天夜先生を指差して『お父さん』を連呼している。

 僕にはその行動の意味が分からない。


「……まあ。そう。そういう事ですのね」


 突然、静先輩が何か合点が言ったというようにほくそ笑み始めた。


「一体何が分かったって言うんですか? 静先輩」

「シロ君、クロちゃんが金井昌子に会ったときに不思議な事を言ったって言ってましたわよね?」


 ひそひそと、僕にしか聞こえないような小さな声で静先輩が確認を取ってきた。

 とっさの事だったが、僕はわずかに頷く事で肯定を返す。


「それと関係のある事ですわ」


 そう言って、静先輩はゆっくりと階段を下り始めてしまった。

 その背中を見送りながら、僕は今日の図書館での出来事を思い出してみる。そういえば、クロは金井昌子の匂いもかいでいた。そうして頬ずりを始めたかと思えば、『今は出来ないから、その代わり』と言ったのだ。

 今は出来ないと言うのであれば、いずれは出来ると言う事になる。つまり、時間経過によって何らかの条件が変化すると言う事だ。

 時間が経てば金井昌子に発生すると言う変化。そして天夜先生へのお父さん発言。


 ……うん? クロの頬ずりは小さい子供や動物に対してやる事だ。それを金井昌子に対して『代わり』に行ったという事は――


「うわぁ……」


 僕はどんな顔をしてしまったのだろうか。よくよく考えてみればあれはそういうものなのだから、そんな結果になったとして何の不思議もない。

 だからあの時金井昌子はクロの言葉に驚いたのだろう。普通、それと分かる何かがなければ妊娠の事に気が付くはずがない。

 実際、周囲の誰にもばれてはいなかったのだろう。だからこそ彼女は恐怖心まで抱いたのだ。秘密がばれるかもしれないという恐怖心を。


「ほらほらクロちゃん。こんな男の近くにいたら貴女も出来ちゃいますわよ?」

「に? 出来る? 何出来る?」


 クロを後ろから抱きしめる静先輩の手が、クロのお腹の辺りを優しく撫でている。それがくすぐったいのか、クロが顔をほころばせながら身をよじっていた。

 まずいまずい。これはやや刺激が。

 もぞりとした体内の感覚を理性で押さえつけ、僕も階段を下りて二人の元へ向かう。


「ちっ。なんなんだそいつは。まあいい。まだ少しでも明るい内にとっとと帰るんだな」


 教師にあるまじき舌打ちと若干教師らしい捨て台詞を残して、天夜先生はどこかへ去って行った。

 僕がその背中をなんとも言えない様子で見送りつつ、静先輩とクロの隣に立つと、


「シロ」


 いつものように僕のお腹の辺りに飛びついてきたクロが下から見上げつつ翡翠の瞳をキラキラさせて、


「シロ。男、女、何すれば子供、出来る?」

「…………はい?」


 クロの質問を僕は一瞬理解出来なかった。が、すぐさま飛びかけていた意識を建て直す。


「ちょ、クロ! 何でそんな事を聞くの!?」

「シズカ、シロ、知ってるって」


 静先輩の名前が出た時点で、僕は弾かれたバネを超える勢いで彼女へと視線を向けた。

 件の元凶は口元を押さえつつ、


「さすがの私も経験がありませんの」

「僕だってありませんよ!」

「シーロ。何するの? ねえ、どうするの?」


 クロが驚くほど饒舌になっていた。知的好奇心を刺激されたクロをなだめるのは容易ではない。小難しい事はありえないほどに知っているくせに、時折クロには知っていてもおかしくないはずのものが欠けている事がある。

 今回はよりによってこの話題なわけだけど、さてさて、どうやってごまかしたものだろうか。

 さすがに女の子相手に性教育が出来るほどに僕は大人じゃない。まかり間違えばクロは僕でその行為を試そうとすらしかねないのだ。

 それだけは断じて避けなければならない。


「あ、その時は私も混ぜていただけますわよね?」

「静先輩ちょっと黙ってて下さい!」


 まさかの展開に僕は裸足で逃げ出したい気分だった。とにもかくにもまずはクロの注意を逸らさなくてはならない。

 そう結論付けた僕は、そのための方法を必死に脳内検索する。


 わずかな夕焼けの時間も終わりを迎え、夜の闇が徐々に校舎の中を染めて行く頃合。

 逢魔が時。その言葉は知っていたけれど、今までそれを身近に感じた事はなかった。だからこの時も、僕はおろか静先輩やクロでさえ、すぐ近くで起きようとしていた何かに、少しも気が付く事はなかった。




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